平城天皇(へいぜいてんのう)は、桓武天皇の後を継いだ第51代天皇です。
妃となった藤原帯子ではなく、その母親である藤原薬子を寵愛し醜聞を流したことでも有名です。
しかも、藤原薬子への執着の結果、これに唆されて平安京から平城京への遷都を試みるなどして朝廷を二分させる大事件を引き起こしています(薬子の変)。
最終的には、嵯峨天皇によって鎮圧されたために事なきを得たのですが、平安時代に南北朝の動乱が起きていてもおかしくなかった危険な事件でした。
本稿では、藤原薬子に溺れて朝廷を危機に陥れた平城天皇の生涯について簡単に見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
平城天皇即位
出生(774年8月15日)
平城天皇は、宝亀5年(774年)8月15日、桓武天皇の第一皇子として、皇后・藤原乙牟漏との間に生まれます。
諱は、小殿(おて)、後に安殿(あて)と言われました。そのため、即位するまでは安殿親王と呼ばれていたはずですが、本稿では便宜上即位前も平城天皇と表記します。
なお、同母弟に神野親王(後の嵯峨天皇)がいます。
立太子(785年11月25日)
延暦4年(785年)11月25日、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して廃された叔父の早良親王に代わり立太子します。
その後、延暦7年(788年)1月15日に元服します。
妃の母である藤原薬子を寵愛
平城天皇は、皇太子時代に藤原帯子を妃に迎えます。
もっとも、平城天皇は、妃である藤原帯子ではなく、その母である藤原薬子(藤原縄主という夫がいました)を寵愛して醜聞を招きます。
平城天皇が病弱であったためにすぐれない体調に対する癒しを年長女性に求めたのかもしれません。
この平城天皇の不貞行為を嫌った桓武天皇は、藤原薬子を東宮から追放した上、藤原薬子の夫である藤原縄主を皇太子(安殿親王=後の平城天皇)の御所の内政を掌る春宮大夫に任命して平城天皇を監視させます。
なお、平城天皇の妃であった藤原帯子は、延暦13年(794年)に子女を残すことなく病没したのですが、平城天皇はその後に皇后を迎えることはありませんでした(なお、藤原帯子は、平城天皇即位後の大同元年/806年6月9日に皇后位を追贈されています。)。
桓武天皇が藤原薬子を追放したことから、桓武天皇と平城天皇との関係は悪化します。
延暦24年(805年)には、重体に陥っていた桓武天皇の容体が一時的に回復した際、桓武天皇が平城天皇に対して参内を命じたのにもかかわらず平城天皇はこれに従わず、藤原緒嗣に諭されてようやく参内したとされているほどでした。
平城天皇治世
平城天皇即位(806年5月18日)
その後、延暦25年(806年)3月17日に父帝であった第50代桓武天皇が崩御したため、同日、平城天皇が践祚されます。
そして、同年5月18日、「大同」に改元した上で平城天皇が第51代天皇として即位礼を行い即位します。
なお、この平城天皇の即位方法に従い、以降の天皇において践祚→即位式という流れが制度化したと考えられています。
行財政改革
天皇となった平城天皇は、直ちに行財政改革を始めます。
先帝であった桓武天皇による平安京建設や蝦夷討伐という巨大国家プロジェクトにより、国民が疲弊し切っていたからです。
平城天皇は、即位当初、意欲的に政治改革に取り組み、官司の統廃合、年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善を行うなどし、政治経済の立て直しを行って民力休養に努めていきます。
再び藤原薬子を寵愛
ところが、桓武天皇という目の上のたん瘤がなくなったと判断した平城天皇は、桓武天皇に追放されていた藤原薬子を尚侍として手元した上、藤原薬子の夫である藤原縄主を従三位に昇進させて大宰帥に任命し九州に飛ばしてしまいます。
これは、言うまでもなく平城天皇による藤原薬子の囲い込みでした。
そして、この後、平城天皇は、再び藤原薬子の寵愛を始めます。
この平城天皇による藤原薬子寵愛の結果、宮中において、藤原薬子とその兄である藤原仲成が台頭していきます。
平城天皇に重用されて権勢を誇った藤原仲成は、平城天皇の権威を背景に政敵を粛清していきます。
藤原仲成は、大同2年(807年)には、藤原宗成を唆して伊予親王(平城天皇の弟・桓武天皇の第三皇子)に謀反を勧めさせた上、逆に藤原薬子を利用して平城天皇を煽って伊予親王を自害に追い込んだとも言われています(伊予親王の変)。
そして、藤原仲成は、左兵衛督・右大弁などの要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列するに至ります。
薬子の変
譲位して上皇となる(809年4月)
以上のとおり、平城天皇を中心とし、また平城天皇を後ろ盾とした藤原薬子・藤原仲成が宮中で大きな力を持って行ったのですが、この構造はすぐに終わりを迎えます。
平城天皇が、在位僅か3年で病を患い、大同4年(809年)4月1日、平城天皇の第三皇子である高岳親王を皇太子に立てることを条件として皇位を皇太弟であった神野親王(嵯峨天皇)に譲位してしまったからです。
平城京に移る(809年12月)
皇位を弟である嵯峨天皇に譲って平城上皇となった後、平城上皇は、大同4年(809年) 12月、平安京を離れ、藤原薬子を連れて生まれ故郷である旧都・平城京(平安宮・中央区西宮と言われています。)に戻ってしまいます。
こうなると困るのは、権力の後ろ盾がない状態で平安京に残された藤原仲成です。
平城京遷都の詔(810年9月6日)
困った藤原仲成は、藤原薬子を利用し、平城上皇を誑かして反乱の神輿として担ぎ上げます。
平城上皇は、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破り、弘仁元年(810年)9月6日、藤原薬子の言われるがままに平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図るという行動に出ます。
平城天皇(平城上皇)は、桓武天皇の崩御後に都を何処に置くかの権限を持っていたため、法的に見ると平城京遷都の詔は正当な決定であるのですが、実際は、奈良に下った平城上皇による京の嵯峨天皇に対する反乱です。
奈良(南朝)の平城上皇と京(北朝)の嵯峨天皇という構造で見れば、平安時代の南北朝の戦いともいえます。
平安京と平城京に朝廷が並立することとなるため、嵯峨天皇と平城上皇(及び藤原薬子・藤原仲成)との対立が決定的となります。
二所朝廷
平城上皇による平城京への遷都の詔は嵯峨天皇にとって想定外の行動であったようなのですが、上皇の命であったことから一旦は詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命します(嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的であったとも考えられます。)。
もっとも、嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月10日、考えを改めて遷都拒否の決断を下し、平城上皇と対決することを決めます。
この結果、平安京と平城京のいずれにも正当性がある朝廷が並立してしまったため、あとは政治的・軍事的に相手方を制した方の勝利となります。
平城上皇の挙兵失敗(810年9月12日)
平城上皇との対決を決断した嵯峨天皇は、平安京に残っていた藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁すると共に藤原薬子の官位を剥奪する旨の詔を発し、その上で伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせます。
その上で、嵯峨天皇は、弘仁元年(810年)9月11日に密使を平城京に送り、若干の大官を召致します。
これを受けて、藤原真夏や文室綿麻呂らが平安京に帰京したのですが、平城上皇派と見られた文室綿麻呂が左衛士府にて禁錮されます。
これらの嵯峨天皇の対決姿勢を見た平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、藤原薬子とともに輿にのって東に向かいます。
平城上皇の挙兵の準備行動を見た嵯峨天皇は、坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じると共に、捕らえていた藤原仲成を射殺(死刑)します。
他方、平城上皇と藤原薬子は、同人らが率いる一行が大和国添上郡田村まで達したところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知ります。
嵯峨天皇側が既に守りを固めているため、勝機がないも悟った平城上皇は、やむなく平城京に引き返し、同年9月12日、嵯峨天皇に恭順の意を示すために剃髮して出家します。
また、藤原薬子は毒を仰いで自殺します。
さらに、同年9月17日には上皇の行幸に合わせて兵を挙げようとした越前介の安倍清継らが捕らえられ、さらには平城天皇の第三皇子であった高岳親王が皇太子を廃されるなどして一連の事件が終わります(薬子の変)。
平城上皇の処遇
薬子の変の当事者であった平城上皇でしたが、上皇に対する処分まではなされることはなく、「太上天皇」の称号はそのままとされ、以降の平城京滞在も許されました。
そして、薬子の変後も平城京に残った平城上皇の元には参議や近衛少将級以上の武官が近侍し(日本後紀)、平城上皇の品位保持に務めるとともに、その監視が続けられました。
平城上皇の最期
崩御(824年7月7日)
薬子の変に失敗した後も平城京にて生活を続けていた平城上皇は、弘仁15年(824年)7月7日に崩御されます。
そして、同年7月12日に大喪儀が執り行われ、深い愛着を持った平城京に因んで「平城天皇」の諡号が追号されます。奈良帝(ならのみかど)とも呼ばれます。
陵(楊梅陵)
なお、宮内庁では、平城天皇の陵は、平城宮・大極殿跡のすぐ北側に位置する楊梅陵(やまもものみささぎ、現在の奈良市佐紀町)であると治定されています。宮内庁上の形式は円丘であり、遺跡名は「市庭古墳」です。
もっとも、楊梅陵は、円筒埴輪・動物埴輪などの出土品から築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と推定されており、平城京建都以前から同所に存在していた前方後円墳であったものを、平城京建都の際に前方部を取り壊したために現残するのは後円部の一部のみであることが判明しています。
そのため、平城京の建設以前から存在した楊梅陵(市庭古墳)が、平安時代の人物である平城天皇のために造られた陵とするには無理があるとして宮内庁による陵墓の治定に否定的な意見が多くみられます。
宮内庁の治定に最大限配慮して、その治定が正しいとするのであれば、平城天皇には新たな陵墓が造られず既存の古墳に追葬されたことになるのですが、なかなか考えにくいと思われますね。