【豊国神社】なぜ豊国神社が方広寺境内にあるのか

豊国神社(とよくにじんじゃ)は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であった場所(現在の京都市東山区)に建てられた、神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る神社です。

元々は、豊臣系の寺社が立ち並ぶ区域の最奥(東端)に鎮座していた巨大神社だったのですが、一旦は、豊臣家滅亡後に徳川家康の命を受けて廃絶されています。

その後、明治維新後に明治天皇の勅命によって方広寺境内内に再興され、現在に至っています。

旧社格は別格官幣社(神祇官が祀る官社のうちの官幣小社待遇)であり、現在は神社本庁の別表神社とされています。

豊臣家による豊国社建立【伏見桃山時代】

方広寺創建(1588年着工→1595年創建)

天正14年(1586年)ころに徳川家康を臣従させ、また関白・太政大臣の官職を得て日本統一事業を進めていた豊臣秀吉は、天下を統べる者の責務として、消失した東大寺大仏に代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地内に高さ20mの大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。

なお、豊臣秀吉の子である鶴松が天正17年(1589年)5月27日に誕生していますので、大仏と大仏殿の建立は、淀殿が鶴松妊娠時になされたものと考えられるのですが、そこに関連性があるかは不明です。

そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社・京都国立博物館・妙法院・智積院そして三十三間堂をも含む広大な寺域を有する方広寺が完成します。

祥雲禅寺創建(1593年)

豊臣秀吉の子である鶴松(捨)は、天正19年(1591年)8月5日、僅か3歳で亡くなります。

老いて出来た待望の我が子を失った豊臣秀吉は嘆き悲しみ、その菩提を弔うために、大仏(京の大仏)のある方広寺の東側に臨済宗寺院の祥雲寺(祥雲禅寺)の建立を決め、文禄2年(1593年)に竣工します。

そして、南化玄興を開山として迎え入れ、棄丸人形像(豊臣鶴松像)を祀る菩提寺となりました。

なお、鶴松死後に創建された方広寺とそこに納められた大仏は、文禄5年(1596年)閏7月13日に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震(慶長伏見大地震)により被害を受け、大仏殿は倒壊を免れたものの大仏は開眼法要前に倒壊してしまいました。

このとき、豊臣秀吉は倒壊した大仏を見て、大仏なのに「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。

豊臣秀吉死去(1598年8月18日)

慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が、京の方広寺の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬した上で神として祀るようにとの遺言を残して死去します(奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣って自身を「新八幡」として祀るように遺言しました。)。

そこで、豊臣秀吉の死亡後まもなく、阿弥陀ヶ峰の麓に北野社に倣った八棟造りの廟所の建築が始まります(義演准后日記・慶長3年9月7日条)。

他方、慶長4年(1599年)、豊臣秀頼は、父豊臣秀吉が行っていた大仏造立事業を引継ぎ、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るものの、慶長7年(1602年)に流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏もろとも大仏殿が全て焼失してしまいました。

以上のとおり、相当の難事業であった大仏造立はうまく進まず、このときは一旦、豊臣秀頼による大仏造立計画が頓挫します。

阿弥陀ヶ峰中腹に豊国社創建(1599年)

豊臣秀吉の遺命に従い、豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内にしばらく安置された後、慶長4年(1599年)4月13日、高野山の木食応其による廟所(豊国廟)建立を待って方広寺大仏の東方に位置する阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました(義演准后日記・戸田左門覚書)。

そして、慶長4年(1599年)4月16日に朝廷から豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた後(押小路文書・宣命)、方広寺との間に位置する阿弥陀ヶ峰の中腹に豊臣秀吉を神として祀る神社として、30万坪(100万㎡)もの規模を誇る豊国社が創建されました。

また、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号(神号下賜宣命では兵威を異域に振るう武の神と説明)を賜り、同年4月18日に遷宮の儀が行われ盛大な鎮座祭が行われました(社は豊国社と命名されました)。

さらに、同年4月19日には豊臣秀吉に対して正一位の神階が与えられ(義演准后日記)、豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀されました。

これにより、豊国社の周囲は、豊臣秀吉を祀った豊国社を最東端として、その参道に祥雲禅寺・方広寺などが配され、さらにはその西側に西本願寺(西本願寺は、天正19年/1591年に浄土真宗本願寺派法主本願寺11世の顕如が豊臣秀吉から寺地の寄進を受け大坂天満から京都堀川六条に移転しています。)が存するという豊臣系の大寺院が集まる地となったのです。

高台寺創建(1606年)

また、慶長11年(1606年)には、豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)が、豊国秀吉の冥福を祈るために豊国社の北側約2kmの位置(応仁の乱で焼失していたかつての黄金八丈の阿弥陀如来像/大仏を安置する雲居寺の跡地)に高台寺を建立します。なお、高台寺の寺号は、慶長8年(1603年)北政所が後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されていたことにちなんでいます。

この高台寺の建立については、北政所を取り込むことによって豊臣家の武断派大名を取り込もうと試みた徳川家康がその支援を行っています。

完成した高台寺には、豊臣秀吉と北政所(ねね)の位牌を納める霊屋が設けられたのですが、この霊屋は豊臣秀吉の遺体が眠る阿弥陀ヶ峰の方向(南)を向くように建てられています。

徳川家による豊国社廃絶【江戸時代】

豊臣秀吉の神号剥奪(1615年)

慶長20年(1615年)に豊臣宗家を滅亡させた徳川家康は、京中から豊臣家の痕跡を徹底的に消し去るべく動き出します。

まず手始めとして、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号を剥奪します。

徳川の時代に、豊臣秀吉を神として祀る必要ないということです。

この結果、神ではなくなった豊臣秀吉に対しては、国泰院殿雲山俊龍大居士という仏教式の名が付され、その霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:豊国神社宝物館の後方)に遷されました。

そして、豊臣秀吉の遺体そのものは、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟にそのまま放置されました。

豊国社の物理的破却の断念

次に、徳川家康は、豊臣秀吉を祀る豊国社の廃絶に動きます。

ここで、徳川家康は、一旦は豊国社を物理的に破却するよう命じたのですが、神道家であり豊国廟の社僧でもあった神龍院梵舜(吉田兼見の弟)が、徳川家康のブレーンとなっていた金地院崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うなど豊国社維持の為に東奔西走します。

また、豊臣秀吉の正室であった北政所もまた、徳川家康に対して豊国社の取り壊しを止めるよう嘆願をします。

まだまだ豊臣恩顧の大名に影響力を持っていた北政所の意向を無視できなかった徳川家康は、豊国社の物理的破却を諦め、豊国社社殿の修理を禁止して崩れ次第とする決定を下します。

そして、その後は豊国社別当であった神龍院梵舜の役宅であった神宮寺の寺領は安堵されたため、梵舜は次第に崩れゆく社殿で豊臣秀吉を弔うための祭祀を継続したと言われています。

また、梵舜は、豊国社の御神体は梵舜が密かに持ち出し自宅に隠し祀ったのですが、後に妙法院へ移されています。

もっとも、修理が許されずに放置されるがままとなった豊国社は、時間の経過とともに朽ち果てていき遂には失われてしまいました。

豊国社の記憶風化策

さらに、徳川家康(及びその後の江戸幕府)は、人々から豊臣秀吉の記憶を忘れさせようとして、豊国社の存続を忘れさせるためのが施策を次々と実行していきます。

具体的な例としては、主なものだけでも以下のようなものが挙げられます。

①  豊国社の前面を徳川系寺院に入れ替える

豊国社の参道入口南側には、豊臣秀吉の子である鶴松の菩提寺である祥雲禅寺があったのですが、徳川家康は、同寺の敷地をかつて豊臣秀吉と対立した根来寺の僧・玄宥に与えます(なお、玄宥は、慶長6年/1601年に徳川家康の援助を受けて祥雲禅寺の東側に真言宗寺院である智積院を開山していました。)。

祥雲禅寺を譲り受けた玄宥は、智積院の敷地として吸収してしまいます。

この結果、鶴松の菩提寺であった祥雲禅寺は廃寺となりました。

祥雲禅寺の廃寺に伴って棄丸人形像は南化玄興ゆかりの妙心寺塔頭隣華院へ移され供養が続けられ、現在も妙心寺の鶴松霊廟(祥雲院霊廟)は玉鳳院の傍らに置かれています。

② 方広寺の改造

また、豊国社の参道入口北側には妙法院があったのですが、当時の妙法院門主であった常胤法親王が、豊臣家滅亡後の江戸幕府の政策に積極的に協力し、徳川系寺院として行動します。

具体的には、豊国社に保管されていた豊臣秀吉の遺品や、豊国社別当であった神龍院梵舜の役宅であった神宮寺の横領を行います。

また、妙法院は、豊臣系寺院であった方広寺の管理権を獲得し、以降、同寺を徳川系寺院として改造利用を行うことによって大きな力を獲得します。

③ 豊国社参道の封鎖(1640年)

さらに、江戸幕府は、寛永17年(1640年)、応仁の乱などにより廃絶状態にあった新日吉神社(いまひえじんじゃ)を復興させ、現在地のやや北東側に位置する豊国社と豊国廟の参道上に配置します。

この新日吉神社再建の結果、豊国社及び豊国廟への参道が封鎖され、その参拝が封じられることとなったため豊国社の朽廃が加速しています。

豊国社の事実上の消滅

以上の徳川家による様々な豊臣家の痕跡抹消政策により、次第に人々の記憶から豊国社の存在が失われていきます。

また、参道封鎖と社殿等の修復禁止により豊国社及び豊国廟は荒れ果て、もはやそこに行こうとする者すら現れなくなります。

その結果、江戸時代に入ってしばらくすると、もはや京から豊臣家の痕跡は認められなくなりました。

そして、豊国社と豊国廟は、人々に顧みられることなく200年以上に亘って朽ちるにまかされたのです。

江戸期における隠れた豊臣秀吉祭祀

余談ですが、前記のとおり、豊国社別当であった神龍院梵舜の手により持ち出された豊国社のご神体は、一旦は妙法院で祀られていたのですが、江戸時代中頃に新日吉社に移されます。

そして、天明5年(1785年)に新日吉社において豊国社の御神体を祀るために新たに樹下神(十禅師、鴨玉依姫神)を勧請して樹下社(このもとのやしろ)が創設され、その中で豊国秀吉も一緒に祀られることとなりました。

徳川系寺院であるはずの新日吉神社で密かに豊臣秀吉が祀られることとなった理由は、豊臣秀吉の旧姓である「木下」が「樹下」に通じ、また豊臣秀吉の幼名である「日吉丸」が「日吉社」に通じたためであったと言われています。

なお、この樹下社は、後に豊国神社(方広寺跡地の豊国神社とは別物)と改称されています。

天皇家による豊国神社再興【明治時代】

豊国神社再興を布告(1868年閏4月)

江戸時代にひたすら捨て置かれた豊国社ですが、明治維新を経て江戸幕府が滅亡すると風向きが変わります。

富国強兵政策を目指す明治維新政府が、海外進出を目指した豊臣秀吉の政策を高く評価したからです。

そして、慶応4年(1868年)閏4月、大阪に行幸した明治天皇が、「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとして豊臣秀吉を賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下し、明治6年(1873年)8月14日には別格官幣社に列格します。

方広寺大仏殿跡地に豊国神社再建(1880年)

以上の結果、明治政府によって豊国社の再興が認められることとなったのですが、かつての所在地であった阿弥陀ヶ峰中腹での再建がなされるということにはなりませんでした。

このとき、豊臣秀吉廟は阿弥陀ヶ峰に残されたまま、社殿のみが豊臣家ゆかりの大名家によって現在地である方広寺大仏殿跡地に再建されることとなりました。

これにより、阿弥陀ヶ峰は豊国神社飛地境内という扱いとなりました。

そして、明治13年(1880年)に現在地に豊国神社の社殿が完成し、遷座が行われました。

なお、方広寺境内収公に際し、寛政10年(1798年)の焼失後も残されていた方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用して豊国神社の参道に敷かれました。

また、敷地内に、南禅寺塔頭金地院にあった唐門(伏見城→二条城→金地院→豊国神社と移ったとされています。)が移設され、現在は国宝指定がなされています。なお、唐門の手前には、太平洋戦争中に製作された高さ約1.1mの陶製の豊臣秀吉像が置かれています。

豊国廟参道の整備(1897年)

豊国神社(豊臣秀吉を祀る神社)の再建に続き、続けて豊国廟(豊臣秀吉の墓)の整備に取り掛かります。

明治30年(1897年)、豊臣家ゆかりの旧大名家によって豊国廟の再興が行われることとなり、まずは豊国廟の参道を塞ぐ形となっていた新日吉神社の社地を南西(現在地)に移した上で、豊国廟までの参道を整備します。

豊国廟再建(1898年)

また、明治30年(1897年)、豊国神社飛地境内扱いとなっていたには阿弥陀ヶ峰山頂に至る上り坂を石段として整備します。

なお、この石段は麓から数えると563段ありますので、足に自信がある方は一度挑戦戦してみてください。登りきった先から北を向くと清水寺の舞台を寺を見下ろす絶景が見られます。

そして、その上で伊東忠太設計によって豊臣秀吉が葬られていた場所に巨大な石造五輪塔が建てられました。

この五輪塔工事の際、その土中から直径約1mの素焼きの壷に入った豊臣秀吉のものとおぼしきミイラ化した遺骸が発見されており、この遺骸は手足を組んで座る形で西方を向いて葬られていました。

もっとも、この遺骸は、風化が進んでいたこともあり運び出しの際に崩れ失われており、1本の歯だけが豊国神社・宝物館に残されています(なお、遺骸の調査結果により豊臣秀吉の血液型がO型であったこともわかっています。)。

そして、石造五輪塔完成後の明治31年(1898年)の豊太閤三百年祭が大々的に挙行されました。

また、かつての社殿があった太閤坦(豊国廟の西側下方の平坦地)に豊臣秀吉の孫である国松と豊臣秀吉の愛妾である松の丸殿の供養塔(五輪塔)が誓願寺から移されています。

【参考】大阪豊國神社建立

中之島に豊國神社創建(1879年11月)

前記のとおり、慶応4年(1868年)閏4月に豊国神社の再興を布告する沙汰書を下した明治天皇は、同時に大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豐國神社」建立の御沙汰を下します。

このとき、豊臣秀吉ゆかりの大阪城に創建することが検討されたのですが、大坂城が陸軍省の所管となっていたために大阪城内に創建することはできませんでした。

そこで、大阪市北区中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂所在地)に創建されることが決まり、明治12年(1879年)11月18日 、京の豊国神社の大阪別社となる社殿が落成し、同年12月28日に正遷宮祭がなされました。

なお、京の豊国神社が訓読みで「とよくにじんじゃ」と読んで豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対し、大阪豊國神社は音読み「ほうこくじんじゃ」と読み、豊臣秀吉のみならず豊臣秀頼及び豊臣秀長も配祀しています。

大阪豊國神社が京の豊国神社から独立

その後、明治24年(1891年)12月に豊國神社の東隣りに中之島公園が開園し、明治37年(1904年)3月に豊國神社の西隣りに大阪府立図書館が開館します。

その後、大正元年(1912年)に中央公会堂が建設されることとなり、豊國神社は図書館の西隣りへに遷座します。

大正10年(1921年)、大阪豊國神社が京都・豊国神社から独立し、府社に列格します。

豊國神社が大阪城二の丸南側に移転

その後、大正10年(1921年)5月に北区堂島浜通2丁目(現・堂島3丁目)から豊國神社の西隣りへと移転してきた大阪市庁舎が手狭となり、昭和10年(1935年)ころから豊國神社移転計画の検討が始まります。

もっとも、昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まったため、豊國神社移転計画はいったん中断されます。なお、太平洋戦争の際の金属類回収令によって豊國神社内にあった豊臣秀吉像が供出されて失われています。

その後、昭和31年(1956年)に再び大阪市から大阪市庁舎増築のため豊國神社移転の要望が出されて大阪城二の丸への移転が決定し、昭和36年(1961年)1月、豊國神社は現在地へ遷座されました。

なお、遷座前の社殿は大阪府豊中市内の服部住吉神社に移築されたのですが、敷地内にあった木村重成表忠碑は移転せず中之島に残されたままとなっています。

また、平成19年(2007年)4月17日、境内に豊臣秀吉像が復元されています。

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