【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の実弟

豊臣秀長(とよとみひでなが) は、豊臣秀吉の実弟です。

短期間で異例の出世を遂げる豊臣秀吉の傍らにあって、軍事・政治面で天下統一事業に大きく貢献しただけではなく、温厚な人柄によって家臣団や諸大名との調整役を務めるなど豊臣政権にとってなくてはならない立場にあった人物です。

また、豊臣秀吉に異を唱え、その制動を制御できる唯一の人物でもありました。

最終的には、大和国・紀伊国・和泉国と河内国の一部に及ぶ110万石を超える石高を領する大大名となり、また従二位権大納言となって大和大納言と尊称される出世を遂げています。

豊臣秀長の出自

出生(1540年)

豊臣秀長は、天文9年(1540年)、豊臣秀吉の父である竹阿弥の子として、尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)にて生まれます。

そのため、豊臣秀長は、豊臣秀吉の異母弟にあたると考えられるのですが、実際は豊臣秀吉の異母弟とする説もあり、本当のところはわかっていません。

文献上で確認されているわけではないものの、通説では幼名は小竹(こちく)であったとされ、通称は小一郎(こいちろう)といいました。なお、この後、小一郎→木下長秀 → 羽柴長秀→羽柴秀長 → 豊臣秀長と名を改めていくのですが、本稿では便宜上豊臣秀長の表記で統一します。

兄弟姉妹として、姉(智・日秀尼)・兄(豊臣秀吉)・妹(旭)がいたとされているのですが、実際には他にも兄弟姉妹がいた可能性が指摘されています。

豊臣秀吉に仕官する

豊臣秀吉(このころは木下藤吉郎と名乗っていたのですが、本稿では便宜上豊臣秀吉名で統一します。)の3歳年下であった豊臣秀長は、幼い頃は豊臣秀吉と一緒に育ったはずなのですが、豊臣秀吉が幼少期に家を出てしまっていますので、深く関係があったというわけではありません。

その後、時期は不明ですが、織田家中で出世を重ねて数十人の足軽を率いる足軽組頭に出世した豊臣秀吉が、信用できる親族をヘッドハントするために実家に戻ってきます。

ここで、豊臣秀吉は、豊臣秀長を武士の身分として取り立てた上で、自身の家臣を統率する立場に据えてしまいます。

このとき、豊臣秀吉に仕官するに至った豊臣秀長は、木下小一郎長秀(「秀長」ではなく「長秀」であることに注意)に名乗りを変えます。

もっとも、武士として仕官したといっても、それまで農民であった豊臣秀長がいきなり武士として活躍できるはずがありません。

そこで、豊臣秀長は、仕官当初は、自らが戦場に出て活躍したわけではなく、このとき豊臣秀吉の家臣団の面々から教えを請い、少しずつ内政・外政・軍事などを勉強していきました。

その後は、織田家中で活躍していたために領地を不在としがちな豊臣秀吉に代わって領内の政治を滞りなく取り仕切って聞くことに尽力していくこととなったのです。

羽柴家の政治に関わるようになる

また、豊臣秀長は、豊臣秀吉が織田信長の無茶振りをこなすために奔走していたために疎かになっていた家臣団の面倒見や諍いの仲裁を行うなどすることに尽力します。

豊臣秀長は温厚な性格であったために家臣団の信望が厚く、次第に、家を空けがちな豊臣秀吉に代わって家中を取りまとめるキーマンとなっていきます。

また、次第に政治・軍事にも関わっていくようになり、織田家による美濃国平定戦の1つである鵜沼城の戦いで初陣を果たした後、天正元年(1573年)以降には長浜城主となった豊臣秀吉の代わりに城代を務めることが生じるようになり、また天正2年(1574年)には豊臣秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣したりするなどしています(信長公記)。

羽柴姓を与えられる(1575年)

そして、天正3年(1575年)には、羽柴の名字を与えられ、兄に倣って羽柴小一郎長秀に名を改めます。

なお、豊臣秀長が発給した文書のうちで天正3年(1575年)11月11日付の発給文書で初めて羽柴姓を使用していることから、この頃に羽柴姓を与えられたと考えられます。

藤堂高虎を家臣に迎える(1576年)

羽柴姓を与えられ、自らの家臣団も有するようになった豊臣秀長は、天正4年(1576年)、後に自身の右腕となる藤堂高虎を300石で雇い入れています。

羽柴秀吉の中国攻めに従軍

豊臣秀吉が中国方面軍司令官となる

毛利輝元が足利義昭を庇護し(鞆幕府)、また反信長勢力となっていた石山本願寺と同盟したことなどによって、元々良好な関係にあった織田家と毛利家との関係が悪化していきます。

そして、この関係は、天正4年(1576年)7月15日、織田信長による石山本願寺包囲戦の際に、毛利家が石山本願寺に補給物資を搬入するために勃発した第一次木津川口の戦いによって決定的に決裂します(石山合戦)。

ここで織田信長は、羽柴秀吉を中国方面軍司令官に任命して毛利軍との戦いに向かわせます。

これにより、羽柴家をあげて毛利家討伐に向かうこととなったため、豊臣秀長もまたこの戦いに従軍します。

但馬方面侵攻軍を任される

天正5年(1577年)10月、播磨国御着城主であった小寺政職が、重臣であった黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を人質として差し出して織田信長に下ると、豊臣秀吉がこれを受け取ると共に黒田官兵衛からその居城であった姫路城を受け取って同城本丸に入ります。なお、豊臣秀吉から黒田官兵衛に宛てられた直筆の書状において、その信頼の代名詞として「小一郎」(豊臣秀長の通称)の名が出されています(黒田侯爵家文書)。

そして、豊臣秀長もまた兄に従って播磨国に入ります。

この後、宇喜多直家を調略した織田家中国方面軍は、但馬国・因幡国・美作国への3方面同時作戦を展開し、豊臣秀長には3000人の兵を与えて但馬方面侵攻作戦を任せます(なお、因幡方面は豊臣秀吉が、美作方面は宇喜多直家が担当)。

このときの豊臣秀長隊の狙いは、但馬方面の制圧と、毛利家の財源となっていた生野銀山の制圧でした。

そして、この当時は竹田城が生野銀山を管轄していたため、竹田城が豊臣秀長隊の第一目標として定められます。

同年11月、真弓峠を越えて但馬国に入った豊臣秀長隊は、まず岩洲城を攻略した後、竹田城を陥落させて生野銀山を確保し、豊臣秀長が攻略した竹田城代に任じられています(信長公記)。

もっとも、天正6年(1578年)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻すと但馬方面の支配領域後退し、さらに天正7年(1579年)5月には織田信長の命により、豊臣秀長は明智光秀支援のため竹田城から丹波国へ攻め入いることとなり、その後、豊臣秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げ、竹田城は毛利方の太田垣輝延に接収されています。

その後、天正8年(1580年)1月に三木城が陥落すると(三木合戦)、同年4月、豊臣秀長が再び6400人の兵を率いて但馬攻めを開始し、竹田城・水生城・有子山城(城主は山名祐豊)などの諸城を次々と攻略しながら北上していきます。

そして、同年5月、豊臣秀長は攻略した有子山城主に任じられて但馬国の鎮静化に努め(なお、戦後、豊臣秀長は但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられています。)、また竹田城には豊臣秀長の臣下となっていた桑山重晴を入れて但馬方面の制圧を概ね完了させます。

因幡国へ向かう

但馬国の制圧を進める豊臣秀長は、並行して因幡国平定を進める豊臣秀吉に合流するため、西に向かって軍を進めて行きます。

そして、豊臣秀長は、鳥取城の兵糧攻めを行う豊臣秀吉軍に加わり、鳥取城の東側の包囲を担当します(第二次鳥取城の戦い・鳥取の渇え殺し)。

天正9年(1581年)10月25日に城将であった吉川経家の切腹により鳥取城が陥落により毛利直轄領の東側が完全制圧されたため、ついに織田家中国方面軍による毛利直轄領への進軍準備が整います。

備中高松城水攻め(1582年5月)

羽柴秀吉は、天正10年(1582年)3月15日、毛利直轄領へ侵攻すべく2万人の兵を動員して姫路城を出て西に向かって進軍し、途中で宇喜多家のかつての居城であった亀山城(現:岡山市東区)に入って宇喜多秀家が味方することを確認した上で、宇喜多勢1万人を加えて総勢3万人で毛利直轄領へ向かっていきます。

山陽道を西進して備中七城にたどり着いた羽柴軍3万人は、備中七城を北から順に攻撃していき、宮路山城・冠山城を陥落させた後、天正10年(1582年)4月15日、小早川隆景の忠臣であった清水宗治率いるが5000人が籠る備中高松城に取りつきます。

その後、同城に対する力攻めに失敗した豊臣秀吉は、低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取り、足守川をせき止めて水を引き入れるという方法により備中高松城を水攻めにすることとします。

このとき、豊臣秀長は、鼓山付近に陣を張り、南側の守りを担当しています。

豊臣秀吉の天下取りの戦いに従軍

中国大返し

以上のとおり、終始戦局を有利に進めていた羽柴秀吉でしたが、事態が一変する事件が起こります。

織田家重臣であった明智光秀の謀反により、天正10年(1582年)6月2日に織田信長が京の本能寺で横死したとの報が届いたのです(なお、豊臣秀吉が本能寺の変の発生をいつ・どのようにして知ったのかについては諸説あります。)。

真偽不明情報である上、目の前に布陣している毛利軍への対応も必要となるため、羽柴秀吉は、羽柴秀長と黒田官兵衛を集めて軍議を開いた結果、織田信長横死の事実を隠して即座に毛利方と和睦して陣を払い、明智光秀を討つために京に戻るとの決断をします。

そこで、豊臣秀吉は、同年6月4日に毛利方の交渉窓口であった安国寺恵瓊を呼び寄せ、河辺川(高梁川)及び八幡川以東の割譲と清水宗治の切腹を条件として和睦を結び、6月6日昼頃に高松城に杉原家次を残して陣を払い、全軍をもって山陽道を東進させて京に向かって行軍を開始します(中国大返し)。

山崎の戦い(1582年6月13日)

大急ぎで畿内へ引き返してきた豊臣秀吉は、堺から戻ってきた織田信孝を迎えて外形を整え、淀古城・勝竜寺城に入った明智光秀と対峙します。

このとき、豊臣秀長は、先行隊が占拠した天王山に黒田官兵衛隊と共に布陣し、山崎城に入って天王山麓の宝積寺に陣を敷いた豊臣秀吉軍の一隊として山崎の戦いに挑み、明智光秀軍に勝利しています。

賤ヶ岳の戦い

明智光秀討伐後には、織田家中が豊臣秀吉派(織田信雄派)と柴田勝家派(織田信孝派)に分かれて対立し、天正11年(1583年)には両雄が激突することとなります(賤ヶ岳の戦い)。

余呉湖を挟んで両軍が対峙していたところで、同年4月16日、織田信孝が伊勢の滝川一益と結んで挙兵し、岐阜城下へ進出していたため、豊臣秀吉が兵を割いて迎撃向かうこととなりました。

このとき、木ノ本に布陣していた豊臣秀長が対柴田勝家戦線の総大将を引き継ぎ、猛攻を仕掛けてくる柴田方の佐久間盛政隊への対応に追われます。

もっとも、この後、大垣まで進んでいた豊臣秀吉本隊が木ノ本までの13里(52km)もの距離をわずか5時間で戻ってきて(美濃大返し)、佐久間盛政隊を撃破し、この戦いに勝利しています。

この後、北之庄城まで追撃して柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は、事実上、織田信長の後継者の地位に上り詰めます。

播磨国・但馬国を拝領

また、豊臣秀長は、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞として、播磨・但馬の2ヶ国を与えられます(播磨・但馬の2ヶ国を拝領して播磨国では姫路城を、但馬国では有子山城を居城としました。)。

また、あわせて美濃守に任官し、以降、通称もそれまでの小一郎から美濃守に変更しています。

なお、豊臣秀長発給文書では、天正10年(1582年)12月25日付文書までは小一郎と表記され、天正12年(1584年)5月4日付文書以降は美濃守と表記されています。

小牧・長久手の戦い

織田信雄を擁して柴田勝家を排除し、織田家臣団の頂点に登り詰めた豊臣秀吉は、実質上の織田家当主となっていた織田信雄の排除に取り掛かります。

この動きを察知した織田信雄は、徳川家康に支援を求め、徳川家康がこれに応じたため、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康との戦いが勃発します(小牧・長久手の戦い)。

この戦いでは、豊臣秀長は、伊勢方面軍を担当し、守山に進軍して織田信雄を監視して局地戦を経た後の講和交渉では、豊臣秀吉の名代として織田信雄との直接交渉に赴いています。

長秀から秀長に改名(1584年)

なお、豊臣秀長は、天正12年(1584年)6月8日から9月12日までの間に、「長秀」から「秀長」に改名しています。

このときの改名の正確な理由は不明ですが、小牧・長久手の戦いを経て、豊臣秀吉(秀吉の「秀」)が、織田信長(信長の「長」)よりも上になったことを内外に示すためであったとも言われています。

紀伊国・和泉国で64万石を得る

紀伊国・和泉国を与えられる

豊臣秀長は、天正13年(1585年)3月から始まった紀州征伐では、豊臣秀次と共に副将を務めてこれを成功させ、戦後の論功行賞において、紀伊国・和泉国など計64万石余の所領を与えられます。

紀伊国に入った豊臣秀長は、紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置して統治を始めます。

和歌山城築城

また、紀伊国を与えられた豊臣秀長は、藤堂高虎を普請奉行として和歌山城の築城を開始します。

もっとも、本格的な紀伊国・和泉国の統治を開始する前に、豊臣秀長は次なる戦にかりだされます。

四国征伐(1585年6月~8月)

また、天正13年(1585年)6月、豊臣秀吉は、長宗我部元親が勢力を広げる四国の平定を決めます(四国征伐)。

そして、自ら兵を率いて四国に渡る予定だった豊臣秀吉でしたが、越中国の佐々成政がなお健在であったこと、病を得たことなどから、豊臣秀吉自身の四国出陣は取りやめとなります。

代わって、豊臣秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め、①豊臣本軍が淡路から阿波へ、②宇喜多軍が備前から讃岐へ、③毛利軍が安芸から伊予へ進行するという3方向作戦にて四国へ進軍することとなりました。なお、この戦いは、小牧・長久手の戦いで大失態を犯した羽柴秀次の汚名返上のために豊臣秀長が尽力した戦いでもあります。

同年6月16日、豊臣秀長率いる大和国・和泉国・紀伊国の軍勢3万人がから船出して海路で洲本に至り、明石から淡路へ渡った羽柴秀次率いる摂津国・近江国・丹波国の軍勢3万人と福良(現南あわじ市)で合流します。

こうして、大小800余艘・兵数6万人もの大軍が、鳴門海峡を越えて阿波国・土佐泊に上陸し、さらに同地で讃岐方面から四国に上陸していた宇喜多軍と合流します。

そして、これらの軍を率いる総大将の豊臣秀長は、まず東条関兵衛が守る木津城に攻撃を仕掛け、同年7月8日に同城を攻略します。

続いて、豊臣秀長は、香宗我部親泰の守る牛岐城・吉田康俊の守る渭山城に攻め寄せますが、いずれも城主が城を捨てて逃亡したため、難なくこれを接収します。

さらに、豊臣秀長軍の副将であった羽柴秀次軍が、宇喜多秀家・黒田官兵衛らと共に、比江山親興の守る岩倉城、長宗我部親吉の守る脇城を相次いで攻略し、長宗我部元親が本陣を置く白地城に迫ります。

また、豊臣秀長軍も、谷忠澄が9000人とも5000人とも言われるの兵で守る一宮城に攻めよせ、同年7月中旬にこれを落城させます。

この結果、白地城にいる長宗我部元親は、東から羽柴秀長・羽柴秀次軍に、西から毛利軍に挟撃されることとなり、絶体絶命となります。

そして、家中の士気が降伏に傾いている状態では戦いを維持できないと考えた長宗我部元親が、天正13年(1585年)8月6日までに豊臣秀長が示した停戦条件を呑んで降伏し、四国征伐が終わります。

110万石の大名となる

河内国・大和国加増

四国征伐を成功させた豊臣秀長は、天正13年(1585年)閏8月、その論功行賞によって大和国を加増され(この結果、大和国を治めていた筒井定次は伊賀国に転封となっています。)、それまでの所領とあわせて計110万石を擁する大大名になります。

また、天正13年(1585年)10月4日には従四位下参議に叙任されています。

大和郡山城を本拠とする

大領を治めることとなった豊臣秀長は、本拠地を大和国に定め、大和郡山城に入ります。

なお、豊臣秀長が、本拠を大和国に定めた理由は、東国から大坂城に攻めてくる敵(おそらく、仮想敵国は徳川家康)が、逢坂関を越えた後で軍を北側と南側に分け、北軍は淀川沿いを、南軍は奈良盆地を南下して王子・道明寺を越えてくることが想定されるため、分かれた南軍を迎え打つために大和郡山城が重要な場所にあったためです。

信用できない者に任すことはできない重要な場所なのです。

豊臣秀長は、大和国に入ると、直ちに大和郡山城の城郭拡大・大規模改修と、城下の整備を行います。

また、このとき、大和郡山城に5重6階(または5重5階)の2代目望楼型天守が築かれています。

現在残る大和郡山城の遺構の多くは、このときに豊臣秀長によって整備されたものです。

なお、豊臣秀長が治めることとなった紀伊・大和・河内地方は寺社勢力の影響力が強く、統治に困難を極める土地だったのですが、豊臣秀長は大きな問題を生じさせずにこれを滞りなくこなしており、優れた内政力を持っていなことがわかります。

体調悪化(1586年)

天正14年(1586年)ころになると、豊臣秀長の体調悪化が見られるようになります。

同年2月8日に摂津国有馬湯山へ入ったとの記録が残されており(多聞院日記)、この後も数度にわたり湯治に訪れるようになります。

このときの湯治中、金蔵院・宝光院や本願寺顕如の使者などが豊臣秀長の見舞いに訪れています。

豊臣政権の外交官として活躍

天正14年(1586年)4月5日、島津軍の侵攻によって危機に陥った大友宗麟が豊臣秀吉の援助を求めるために大坂城に上ってきます。

このとき、豊臣秀吉は、大友宗麟に対して援助を応諾すると共に、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べており、豊臣政権での外交権限が豊臣秀長に委ねられていたことがわかります(大友家文書録)。

また、豊臣秀長は、天正14年(1586年)10月4日、従三位権中納言に任じられ、同年10月26日、上洛を拒み続けた徳川家康が大坂に到着した際には豊臣秀長邸に宿泊させています(なお、このときに豊臣秀吉自ら徳川家康の下に赴き、臣従を求めたとの記録が残っています。家忠日記・徳川実紀)。

九州征伐(1587年)

島津家の攻撃を受けていた大友宗麟の救援のため、豊臣軍先鋒隊である仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らが九州に渡ったのですが、天正14年12月12日(1587年1月20日)に島津軍の攻撃によって壊滅させられてしまいます(戸次川の戦い)。

この大敗によって低下した威信を取り戻すため、豊臣秀吉は、天正15年(1587年)元旦の年賀祝儀の席で、九州侵攻の部署を諸大名に伝えて軍令を下します。

そして、同年2月10日に豊臣秀長が、また同年3月1日には豊臣秀吉自ら九州に向かって出陣していきます。

九州に入った豊臣軍は、豊臣秀吉が肥後方面軍を、豊臣秀長が日向方面軍を担当します。

同年3月上旬に小倉に到達した豊臣秀長は、一旦、府内城に入っていた島津義弘に対して僧木食応其を使者として送り、豊臣秀吉との講和を勧めたのですが、島津義弘に拒否されます。

豊臣方との講和を拒否した島津義弘でしたが、占領直後の豊後国では豊臣軍とは戦えないと判断し、備後松尾城に入っていた島津家久と共に日向方面への撤退を始めます。なお、この撤退に際し、同年3月18日、豊後・日向国境付近において大友家臣であった佐伯惟定の追撃を受けています(梓越の戦い)。

そして、豊臣秀長は、先着していた毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤らと合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て、同年3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を陥落させます。

また、豊臣秀長は、同年4月6日、耳川を渡河して山田有信の守る高城(木城町)を包囲して兵糧攻めにした上、都於郡城から後詰を防ぐために根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築きます。

孤立した高城の救援のため、同年4月17日、島津義久・島津義弘・島津家久らが2万の大軍を率いて高城に向かったため、その迎撃のために豊臣方も藤堂高虎・黒田孝高・小早川隆景らが後詰として加わり、後に「根白坂の戦い」と称される激戦となります。

激しい戦いは、根白坂を突破できなかった島津方の大敗に終わり、島津義久・島津義弘は都於郡城に、島津家久は佐土原城(宮崎市佐土原町)にそれぞれ兵を引いたのですが退却する島津軍を負って豊臣方が猛攻を仕掛け、豊臣秀次が都於郡城を攻略した上で岩牟礼城にまで侵攻していったため、島津義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠ることとなります。

その後、豊臣方の猛攻をしのぎ切れないと判断した島津家久は、豊臣秀長の下に赴き講和の話し合いをすることとなったため、日向方面作戦は一旦停止されます。

他方、計20万人もの圧倒的な人員と物量を擁した豊臣軍では、豊臣秀吉率いる肥後方面軍もまた破竹の勢いで島津家の本拠地に向かって進んでいきます。

そして、同年4月29日、島津義久の命を受けた桂忠詮が脇坂安治の陣を訪れて降伏の意思を伝え、その後の同年5月8日、島津家当主であった島津義久が泰平寺に滞留していた豊臣秀吉の下を訪れて正式に降伏し九州征伐が終わります。

豊臣姓を与えられ大納言となる

九州征伐の功績により、豊臣秀長は、天正15年(1587年)8月8日に従二位権大納言(徳川家康と同位同日に任官)に昇進し、以降、大和大納言と称されます。

また、このころに豊臣姓を与えられています(天正16年/1588年4月15日付で聚楽第へ行幸した天皇宛に諸大名が提出した起請文において、豊臣秀長が唯一豊臣姓をもって署名しています。)。

豊臣秀長の最期

最後の大坂城出仕(1589年1月1日)

天正17年(1589年)1月1日、豊臣秀長は、諸大名と共に大坂城に出仕し、豊臣秀吉に対して新年祝賀の太刀進上を行ったのですが(後編旧記雑録)、これが豊臣秀長が大坂城に出仕した最後の記録となっています。

天正18年(1590年)1月頃には病が悪化して政務を行うことができなくなり、同年2月に始まった小田原征伐には参加できませんでした。

なお、同年10月頃には、豊臣秀次が豊臣秀長の病気回復の祈願のため談山神社に訪れるほど豊臣秀長の体調は悪化しています(談山神社文書)。

豊臣秀長死去(1591年1月22日)

その後も豊臣秀長の体調は改善せず、豊臣秀長は、天正19年(1591年)1月22日、居城である大和郡山城内で病死します。享年は52歳でした。

なお、豊臣秀長死去時、居城である大和郡山城には、金子として5万6000余枚・銀子として2間四方の部屋に満杯になる程の大量の金銀が備蓄されていたと言われています(多聞院日記)。

また、明治天皇の建立の沙汰により明治12年(1879年)に京都・豊国神社の大阪別社として創建された豊國神社(ほうこくじんじゃ)において、兄の豊臣秀吉・甥の豊臣秀頼と共に祭神として祀られています。

豊臣秀長死亡後の豊臣家

豊臣政権は、豊臣秀吉をアクセル・豊臣秀長をブレーキとして、兄弟が協力して成り立っていたのですが、豊臣秀長の死によりブレーキを失って迷走を始めます。

温厚な性格を持って家臣団・大名間の調整役をこなし、また豊臣秀吉の行き過ぎを制することが出来る唯一の存在であった豊臣秀長を失ったことにより豊臣秀吉の暴走を止められなくなり、朝鮮出兵を強行したり後継者として定めた豊臣秀次を粛清したりなどした豊臣秀吉は人心を失っていきます。

歴史にifは禁物なのかもしれませんが、豊臣秀長が長命であれば、豊臣政権が継続できたかもしれないとも評価されています。

お家断絶(1595年)

豊臣秀長には後を継ぐ男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥・豊臣秀保(姉である智の息子、豊臣秀次の弟)が継ぐこととなったのですが、文禄4年(1595年)4月16日に豊臣秀保が17歳の若さで死去したため、豊臣秀長の家は断絶しています。

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