【三木合戦(三木の干殺し)】羽柴秀吉の別所長治に対する兵糧攻め

攻城戦の名手として知られる羽柴秀吉の攻城戦歴の中でも、トップクラスに知名度があるのが、三木合戦です。

三木の干殺し(みきのひごろし/ほしごろし)と言われる約1年10ヶ月もの長い兵糧攻めが行われたことで有名です。第2次鳥取城の戦い(鳥取城の飢え殺し)の前哨戦でもあります。

本稿では、この悲惨な兵糧攻めとなった三木合戦について、その発生経緯から見ていきます。

三木合戦に至る経緯

中国路攻略戦前の東播磨の情勢

播磨国は、室町時代に足利尊氏の下で活躍した赤松氏が守護を務めて統治していたのですが、嘉吉の乱で赤松氏が没落し、その後一族や家臣の台頭を許します。

戦国時代になると、各勢力が半独立状態となって数郡ごとを領するようになり、群雄割拠状態となりました。

そして、播磨国の東部では、赤松氏の一族でもあった別所氏が力を持つようになりました。

もっとも、東播磨で大きな力を持つとはいえ、西の毛利氏や東の織田氏に対抗する程の力まではなく、別所氏は、これらの大勢力に対してうまく立ち回って友好関係を保っていました。

また、毛利氏や織田氏も、播磨国を緩衝地帯と考えていたため、互いに播磨国に手を伸ばすことはしていませんでした。

中国路攻略戦(1577年10月23日)

ところが、天正5年(1577年)になると、この状況が一変します。

天正5年(1577年)10月23日、織田信長の麾下の武将・羽柴秀吉が、毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道攻略のために播磨国に進軍してきたのです。

羽柴秀吉は、播磨国に入ると、出雲街道・西国街道へ行くことができる交通の要衝に位置する姫路城の城主であった黒田孝高から姫路城の本丸の拠出を受け、ここを播磨国攻略の拠点とします。なお、黒田孝高は、このときに羽柴秀吉に臣従し、以降参謀として活躍しています。

その後、羽柴秀吉は、臣下に下った黒田孝高の策や人脈を利用して調略を進め、また西播磨の上月城や福原城など力攻めで攻略するなどしてかつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを服従させていき、一旦播磨国全域を支配下に治めます。

こうして播磨国を掌握した羽柴秀吉は、姫路城を拠点とし、さらに宇喜多直家の治める備前国への侵攻準備に取り掛かります。

加古川評定(1578年2月)

羽柴秀吉らは、備前国侵攻準備のため、天正6年(1578年)2月に加古川城で傘下に下った播磨国の国衆達と評定を行うこととなったのですが、ここで事件が起こります。

播磨国三木城主・別所長治の代理として、その叔父の別所吉親が評定に出席していたのですが、この評定の場で羽柴秀吉と別所吉親が口論となり、怒った別所吉親が途中で帰ってしまったのです。

羽柴秀吉としては、播磨国の統治が進んでいないことを思い知らされることとなったのですが、さらに備前国侵攻に東播磨勢の加勢が得られない結果となり、手痛い失敗となります。

しかも、これが更なる面倒を引き起こします。

別所長治離反(1578年2月)

天正6年(1578年)2月、別所長治が離反して毛利氏側についたのです。

このとき別所長治が離反した理由としては、前記加古川評定の争いだけでなく、毛利の庇護下にいた足利義昭から織田信長討伐の御内書が届いていたこと、姻戚関係にあった丹波の波多野氏が織田氏から離反したこと、赤松氏の一族という別所氏の名門意識から百姓上がりの羽柴秀吉の命令に反目したこと、織田軍による上月城の虐殺への義憤などがあったなどと言われていますが、詳しいことはわかりません。

いずれにせよ、別所長治が織田信長から離反したことにより、その影響下にあった東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

また、東播磨の別所長治が離反したことにより、毛利攻めを行うはずの羽柴秀吉は、西に宇喜多、東に別所、南に瀬戸内毛利水軍に囲まれ、完全に孤立してしまうことになりました。

三木合戦

三木城への籠城(1578年2月)

反織田の意思を表明した別所長治でしたが、単独で羽柴秀吉軍と一戦交える戦力はありません。

そこで、別所長治は、居城の三木城とその支城群に籠城し、毛利家からの援軍を待って羽柴秀吉を挟撃する作戦をとります。

そのため、別所長治は、三木城に東播磨一帯から、同調する国人衆、織田方に対抗する一向宗門徒など約7500人を籠らせます。

そして、籠城兵のための食糧や武器などの兵站は、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏を通じた海上輸送に委ねられました(海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げし、加古川や陸路を通って三木城などに運び込まれました。)。

加古川城・糟屋武則調略

別所長治の離反により挟撃の危険が生じた羽柴秀吉軍は、三木城を残して毛利攻めなどできなくなりました(西国街道を失ったことによる補給線の遮断も問題となりました。)。

そこで、羽柴秀吉は、すぐさま三木城への対応に追われます。

まず、黒田孝高の調略により、別所長治に同調して三木城に入っていた加古川城の糟屋武則を織田方に下らせて加古川城に戻します(なお、糟屋武則は、黒田孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となり、支城である野口城の攻略戦(初陣)に参加して、また三木城攻防戦では箕谷ノ上付城を守り包囲網の一翼を担っています。)。

また、備前国からの侵攻を封じるため、宇喜多直家に調略をしかけます。

西国街道の回復

次は、東側の補給路の回復です。

毛利水軍に瀬戸内海を制圧されているために制海権のない羽柴秀吉軍にとっては、陸路である西国街道のみが唯一の補給路となっており、これを失っては戦えません。

そこで、羽柴秀吉は、西国街道沿いの高砂城・魚住城などを次々と攻略し、荒木村重が治める花隈城までの西国街道上の兵站を繋ぎます。なお、この羽柴秀吉の西国街道確保は、逆に三木城の海上補給路が封鎖されたことを意味します。

三木城包囲準備(1578年3月29日)

(1)三木城包囲開始

補給路を回復した羽柴秀吉は、いよいよ三木城攻略に取り掛かります。

もっとも、三木城は東播磨国の重要拠点の堅城であり、ここを力攻めすれば損害が大きくなり過ぎます。

先にある毛利本軍との決戦を考えると、いたずらに兵を失う力攻めは得策ではありません。

そこで、羽柴秀吉は、三木城に心理的圧力をかけて下らせることを目標と定め、三木城の包囲した上で三木城の支城群攻略作戦を展開します。

そして、羽柴秀吉は、天正6年(1578年)3月29日に三木城の包囲を開始した上、周辺の支城を攻略していきます。まずは、同年4月6日、野口城を攻略します。

(2)上月城の戦い

ところが、ここで羽柴秀吉方の西側の守りを担う上月城が毛利方の3万の大軍により包囲されます(上月城の戦い)。

羽柴秀吉は、やむなく三木城攻略作戦を中断して上月城東側の高倉山に布陣したのですが、上月城に取り付いた毛利軍を追い払うには兵が不足していたため毛利軍に手出し出来ず膠着状態に陥ってしまいます。

天正6年(1578年)5月に入り、織田信忠率いる2万の軍勢が到着して三木城の支城包囲に加わりますが(織田信忠は、織田信雄織田信孝と共に姫路城から順に三木城との間にある神吉城・志方城・高砂城の包囲に向かいます。)、上月城の後詰に向かったのは丹羽長秀・滝川一益・明智光秀らのみであったため、上月城の状況を打破するには至りませんでした。

膠着状態を打破できない羽柴秀吉は、三木城攻略を優先し、上月城を放棄する決断をし撤退をします。

羽柴秀吉は、このときに上月城を守る尼子勝久に退却を命じますが、尼子勝久はこれを拒否して抗戦を選択したため、同年7月に上月城は陥落して尼子勝久が自害、重臣・山中鹿介も誅殺されて尼子家が滅亡します。

なお、上月城を攻略した毛利方は、補給路の問題を苦慮したのか、それ以上の東進しませんでした。

三木城包囲戦

上月城を捨てて東播磨に戻った羽柴秀吉は、西の毛利方の動きを注視しつつ三木城包囲・支城攻略作戦を再開します。

そして、援軍に来た織田信忠らが、天正6年(1578年)7月に神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略します(なお、織田信忠らは支城陥落後に引き上げています。)。

この後、羽柴秀吉が、同年8月、三木城の北東約2kmの位置にある平井山に本陣を置き、40箇所とも言われる大量の陣城(付城)を築いて三木城を完全に包囲します(なお、この陣城のうち20箇所は現存していますので興味のある方は是非。)。

荒木村重離反

ところが、ここでまたもや一大事件が起こります。

摂津国を治める荒木村重が織田信長に反旗を翻したのです。

これにより、羽柴秀吉は、またもや西国街道を押さえられて兵站が閉ざされます。

また、摂津国が三木城から六甲山地を挟んで南側に位置するために摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹生山方面を通って三木城へ行く新たな補給路ができることとなり、三木城包囲網に穴が開きます。

一気に苦しくなった羽柴秀吉方では、翻意を求めるべく黒田孝高が有岡城にいる荒木村重の説得に向かったのですが、逆に荒木村重に捕らえられて有岡城に幽閉されてしまいます。

別所軍の羽柴秀吉本陣攻撃

その後、天正6年(1578年)11月6日に起こった第二次木津川口の戦いで織田水軍が毛利水軍を撃破したことにより、織田方が瀬戸内海での制海権を得たため、物資の補給も容易となった羽柴秀吉方は一気に勢い付きます。

他方、再び兵站を失った別所長治は、天正7年(1579年)2月6日、三木城の包囲を解いて戦局を打破するべく、2500人の兵で羽柴秀吉が本陣を置く平井山に攻撃をしかけたのですが失敗し、別所長治の弟別所治定が討死しています(平井山合戦)。

三木城包囲網の再構築(1579年5月)

羽柴秀吉は、荒木村重の離反により空いた三木城包囲網の穴を埋めるべく、天正7年(1579年)5月、摂津国からの兵糧輸送の中継地点となる丹生山明要寺と淡河城を攻略し、再び三木城への補給を遮断します。

また、同年6月、明智光秀が、反織田の共同戦線の一角を担う波多野秀治が守る八上城を攻略したため、北側の脅威も取り払われます。なお、同年6月13日、羽柴秀吉配下の竹中半兵衛(重治)が平井山の陣中で没しています。

苦しくなった別所長治は、毛利方に援助をもとめ、同年9月10日、毛利・別所の共同による三木城への兵糧運び込み作戦が行われますが、これも失敗に終わります(平田合戦・大村合戦)。

これにより、三木城への補給の可能性が完全に閉ざされます。

宇喜多直家調略(1579年10月)

そして、天正7年(1579年)10月には、備前・美作を治める宇喜多直家が、羽柴秀吉の調略に応じて毛利方から離反したため、三木城の別所長治は、毛利からの援軍の可能性もなくなります。

ここで、羽柴秀吉が、万策尽きた別所長治に対して降伏勧告を行ったのですが、別所長治はこれを拒否します。

三木城支城群の陥落

そして、同年11月19日には、織田軍の攻撃により、共同戦線を張っていた有岡城が陥落し、三木城は完全に孤立します。

また、天正8年(1580年)1月6日に別所長治の弟の別所友之が守る宮ノ上砦が、同年1月11日に別所吉親が守る鷹尾山城か陥落し、ついに三木城を守る支城がなくなります。

いよいよ三木城の別所長治の後がなくなりました。

三木合戦の決着(1580年1月17日)

食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた三木城は、全ての支城群の陥落により完全に孤立します。補給・援軍の可能性もありません。

そして、天正8年(1580年)1月14日、再び羽柴秀吉から別所長治に対し、城主一族の切腹で城兵の命を助けるという降伏勧告がなされます。

勝ち目のなくなった別所長治は、ついにこれを受け入れて同年1月17日、別所一族が切腹し(別所吉親は抗戦しようとして城兵に殺害されています。)、1年10ヶ月に及ぶ三木合戦が終結します。

辞世の句は、「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば(自分の命で様々な人の命が助かるのであれば恨みなどない。)」です。

この後、城に残った兵については、助命されたとする史料がある一方で、一定人数を殺害したとする羽柴方の書状もあり、事後処理についての詳細は不明です。

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