【上月城】尼子家再興の夢が途絶えた西播磨の山城

上月城(こうづきじょう)は、播磨国周辺に大勢力を誇った赤松家の支城として兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)に築かれた山城です。

戦国時代末期には織田・毛利の戦いの最前線となって2度に亘る大きな戦いが行われ、中国地方に一大勢力を築いた尼子家が再興に失敗して滅亡に至った城でもあります。

上月城築城

立地

上月城がある播磨国は、建武政権の樹立に多大な功績を挙げて播磨国守護に補任されて播磨一国を治めることとなった赤松円心が力を持った国でした。

その後、赤松円心の長男・範資が摂津国、次男の貞範が美作国、三男の則祐が備前国の守護職に任じられたことから、赤松家は、その後に開幕された室町幕府でも京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職家の1つとなって播磨国を中心とする一帯で強大な権力を持つようになります。

そんな中で、この赤松家の支配地域である美作国・備前国・播磨国の結節点(中心部)近くにあり、交通の一大要衝地に築かれることとなったのが上月城でした。

上月城築城(1336年)

赤松家では、延元元年(1336年)、当初は上月城の東側にある太平山に砦(太平山上月城)を築かせた上で、赤松氏の一族・上月景盛(こうづき かげもり)を入れて防衛拠点としました(太平山は、第2次上月城の戦いの際に毛利軍が布陣して大規模な削平を行ったため、太平山上月城の遺構は失われており、その詳細は不明です。)。

もっとも、その後、時期は不明ですが、上月景盛の子孫のいずれかの代に、太平山から標高190m・比高110mの荒神山の尾根先端部に城を移したとされています。

こうして築かれたのが本稿で紹介する上月城です。

築城後の上月城

①嘉吉の乱(1441年)

播磨国を中心として大勢力を作り上げた赤松家でしたが、嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作守護であった赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を殺害した責めによって幕府方の山名宗全らの攻撃を受けて討ち取られ、赤松家も一旦滅亡します(嘉吉の乱)。

また、これに連座して、赤松満祐に加担した上月景則やその甥である上月景家らもまた幕府軍の追討を受けて上月家の嫡流もまた滅亡します。

②赤松家再興

赤松家を滅ぼしてその地位を引き継いだ山名家でしたが、大きくなり過ぎたその力を牽制するために幕府(細川家)主導の下で赤松家の再興がなされ、以降、一帯で山名家と赤松家での戦いが続くことととなりました。

そして、応仁の乱後には、赤松政則が播磨国内で勢力を盛り返し、播磨守護を山名家から奪い返した後、最終的には、播磨・備前・美作の守護、幕府の侍所所司に就任するなどして赤松家の再興を果たします。

③浦上家の台頭

ところが、赤松家の力が戻ってくるのに比例して、赤松家復興に尽力した守護代・浦上家が家中で大きな力を持つようになります。

そして、主家である赤松家を差し置いて侍所の所司代や山城国の守護代に就任した浦上則宗が、主家の赤松家の枠を超えた力をつけていったため、赤松政則が浦上則宗を抑えるために動き出し、これにより赤松家の内紛へとつながります。

赤松政則の死後、養子であった赤松義村が宗家を継いだのですが、浦上則宗の孫で播磨守護代の浦上村宗と対立し、敗れた赤松義村が敗れて子の赤松晴政に跡を譲らされてしまいます(なお、赤松義村は、引後に浦上村宗に殺害されています。)。

④赤松家の弱体化

他方、浦上村宗もまた、幕府管領の細川家の内紛にも介入して天王寺の戦いで敗死し、赤松家全体の力に陰りが見え始めます。

浦上宗村の死により復権を目指す赤松晴政でしたが、赤松家の弱体化を見てとった尼子晴久によって備前・美作の守護を奪われさらに力を落としていきます。

こうして赤松家の求心力が弱まっていった結果、残された領国である播磨国内でも国人領主が割拠していくようになります。

そして、浦上村宗の後を継いだ子の浦上政宗が、赤松家からの独立を果たし、赤松晴政を追い出してその子・赤松義祐を傀儡とすることに成功し、赤松宗家の力はほぼ失われます。なお、追い出された赤松晴政は、赤松氏庶流で龍野城主であった赤松政秀を頼ることになり、赤松宗家は親子で対立することとなりました。

そんな中、弘治3年(1557年)、赤松七条家の赤松政元が置塩城から上月城に入城してわずかに残る赤松領国の西端拠点とし、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し「西播磨殿」と呼ばれたその子の赤松政範によって防衛されました。なお、上月城は、利神城・高倉城・佐用城などの諸城と連携して防衛網を築いていました。

第1次上月城の戦い(1577年)

そして、天正5年(1577年)、織田信長配下の羽柴秀吉が毛利輝元と対峙し、周囲の国衆達を調略しながら播磨国にまで西進してきます。

このとき、西播磨における赤松七条家の居城となっていた上月城に入っていた赤松政範は、羽柴秀吉の調略を受けますが、織田方に下ることを良しとせず宇喜多直家から援軍を借り受けて羽柴秀吉と戦うことを選択します。

その結果、羽柴秀吉は、上月城の東側にある高倉山に本陣を置いて上月城を攻撃し、同年12月3日、上月城を落城させました。

なお、落城に際し、上月城の降将らは赤松政範の首を持参して羽柴秀吉に助命嘆願をしたのですが、羽柴秀吉はこれを拒否し、女子供200人を含めた籠城者を皆殺したと伝わっています。

その後、羽柴秀吉は、尼子勝久を上月城城代として入れ、上月城が織田軍の最前線拠点として機能することとなりました。

尼子勝久・山中鹿之助は、毛利家に強い恨みを持っているため毛利方に裏切る可能性の低く、出雲の雄であった尼子家の名で周囲の国衆の調略が期待でき、さらには新参者であるため討ち取られても大勢に影響しないため、最前線の城を任せるのに最適の人選でした。

上月城の縄張り

上月城は、標高190m・比高110mの荒神山の尾根先端部の自然地形を生かして、東西約200m・南北約80mの城域として築かれた連郭式山城です。

東西に延びる尾根筋の東側に主郭を、その西側に二郭が配され、この東西外側を堀切で遮断する構造となっています。

堀切

上月城は、その東西を堀切で遮断しているのですが、東側に存する堀切は一重のもので浅い構造となっています。

他方、西側に存するものは二重になっており、その2つの堀切のうち、西端のものは浅く、二郭の直下に位置するものは土塁を伴っています。

竪堀

西側の二郭直下の堀切は、北側の竪堀と連結されており、途中で横堀ともつなげて連続竪堀を形成しています。

二郭

二郭は、主郭の前(西側)にある曲輪ですが、尾根を削平しただけの単純な構造となっており、それほど高い防御力を有した曲輪ではなかったと考えられます。

主郭

主郭は、言わずと知れた上月城の最重要曲輪であり、遺物の分布状況から、主郭と判断されている曲輪です。

東南北に腰曲輪をはべらせ、これらと切岸による高低差によって区分することによって攻城方向を西側に集中させ、主郭西側に設置された虎口で殲滅する構造となっていました。

現在は、赤松氏将士の供養塔三基が残されています。

上月城廃城

織田方の対毛利最前線となる

上月城に入った尼子勝久は、山中鹿之介の補佐と羽柴秀吉の援助の下、尼子家滅亡後散り散りになっていた旧家臣の結集や周囲の協力勢力との調整を進め、織田軍の最前線の城として軍備を整えていきます。

上月城孤立(1578年2月)

ところが、上月城に入った尼子勝久を絶望させる事件が起こります。

天正6年(1578年)2月、東播磨の三木城主・別所長治が離反して毛利側についたのです。

このとき別所長治が離反した理由としては、加古川評定での争いだけでなく、毛利輝元の庇護下にいた足利義昭から織田信長討伐の御内書が届いていたこと、姻戚関係にあった丹波の波多野氏が織田氏から離反したこと、赤松氏の一族という別所氏の名門意識から百姓上がりの羽柴秀吉の命令に反目したこと、織田軍による上月城の虐殺への義憤などがあったなどと言われていますが、詳しいことはわかりません。

いずれにせよ、別所長治が織田信長から離反したことにより、その影響下にあった東播磨の諸勢力、御着城主・小寺政職、西播磨の宇野家などが次々とこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

この結果、姫路城の羽柴秀吉と上月城の尼子勝久が、西に宇喜多、東に別所、南に瀬戸内毛利水軍に囲まれ、最前線にて孤立してしまうことになりました。

苦しくなった羽柴秀吉は、畿内方面の織田軍との兵站を回復させるべく兵を東に向けたのですが、別所長治が三木城に籠って抵抗の姿勢を示したため羽柴秀吉軍は東播磨に釘付けとなります(三木合戦)。

第2次上月城の戦い(1578年4月~)

西播磨から羽柴軍が引いたのを好機と見た毛利輝元は、吉川元春・小早川隆景らを率いて自ら大軍を率いて出陣し、天正6年(1578年)4月18日、上月城を包囲します(第2次上月城の戦い)。なお、上月城の周囲には随所に大軍である毛利軍の陣所が築かれていたようであり、現在でも上月城周囲の尾根上に削平地と考えられる平坦面が多数確認できます。

羽柴秀吉は、やむなく三木城から一部の兵を割いて上月城救援に向かわせたのですが毛利軍の上月城包囲網を突破することはできず、織田信長からも三木城攻めを優先するよう指示がなされたことから、上月城は織田軍から見捨てられます。

その後、同年7月1日、孤立した尼子勝久は城兵の助命を条件として毛利輝元に降服し、一族と共に自害して果てました。

また、山中鹿之助は、捕らえられ備後国鞆に移送途中に備中国高梁で誅殺され、尼子家再興の道は完全に途絶えます。

上月城廃城(1578年)

こうして毛利方の手に落ちた上月城でしたが、その後の正確な歴史は不明です。

もっとも、その後宇喜多直家が調略により羽柴秀吉に下ったため、毛利家にとって戦略的価値を失った上月城はまもなく廃城とされたと考えられています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA