【御着城】播磨三大城の1つである小寺家の居城

御着城(ごちゃくじょう)は、播磨守であった赤松家の一族として力を持っていた小寺家の居城として築かれた城です。

戦国期には、別所家の三木城、三木家の英賀城とあわせ、播磨三大城と称された堅城であり、若き日の黒田官兵衛(当時は小寺孝高と名乗っていました。)が家老として在城していたことでも知られ、織田信長の中国征伐軍として西進してきた羽柴秀吉に抵抗して落城し廃城に至っています。

現在は、ほぼ遺構が残されていませんが、土塁や堀の遺構を偲び、往時に思いをはせながら観光してみると楽しいかもしれませんので、観光の際の参考にしていただければ幸いです。

御着城築城

御着城の立地

御着城がある播磨国飾磨郡御着(現在の兵庫県姫路市御国野町御着)は、山陽道沿いにある交通の要衝地でした。

御着城は、この山陽道交通を掌握するため、茶臼山と呼ばれた小山の上に、山陽道を取り込む形で築かれました(そのため、別名として茶臼山城とも呼ばれます。)。

城の南西部を流れる天川を天然の堀として用い(そのため、別名として天川城とも呼ばれます。)。

御着城築城(1519年)

元々、御着の地には赤松家の守護所や納所が設けられていたため柵を巡らせた砦規模の建物があったと考えられているのですが、永正16年(1519年)に赤松家の一族として佐用荘の地頭を務め、姫路城代でもあった小寺政隆が御着の茶臼山と呼ばれる小丘に移って城郭化していったのが御着城の始まりです。

小寺政隆が御着城を築いた理由としては、主君赤松義村との対立、浦上村宗への備え、小寺政隆の隠居城など諸説あり、正確なところはわかっていません。

御着城拡張

いずれにせよ、小寺政隆によって城郭化が始まった御着城は、小寺政隆(小寺村職)→小寺則職→小寺政職へと時代が経るに従って共に拡張が行われ、最終的には山陽道を取り込んみ、本格的な土塁と堀で囲んだ惣構え構造に至りました。

戦国期には、別所家の三木城、三木家の英賀城とあわせ、播磨三大城と称されるまでの大規模な堅城に成長します。

また、小寺家では、御着城を本城とした上で、姫路城を支城と位置づけ、姫路城には家老の八代道慶や黒田家を城代として派遣していました。

御着城の縄張り

御着城の城郭構造は、天川を防衛構造に取り込んだ梯郭式平城です。

御着城の縄張りについては、宝暦5年(1755年)に描かれた絵図である「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に詳しく記載されています。

なお、この絵図は、御着城廃城の約175年後に描かれたものですので、その正確性については疑問もあるのですが、近年の発掘調査により絵図内の基本的縄張りの正確性が確認されています(細部については不明です。)。

この絵図によると、御着城は、西側と南側を天川で、また北側と東側を3重の外堀で守る構造をしており、これらの天川と外堀とで山陽道や城下町まで含めた城域全体を取り囲む総構構造をしていたことがわかります。

外堀

御着城の南西部は天川に守られていますが、北東部は開けた構造となっていたため、御着城の北東部は3重の外堀を設けて防衛に用いていました。

二の丸

外堀の内側に設けられた曲輪が二の丸です。

二の丸跡については、跡地に設けられていた御国野小学校の移転に伴い昭和52年(1977年)に発掘調査が行われ、蔵と想定される塼列建物、石垣、石積井戸、礎石の遺構が確認され、また瓦が出土したため瓦葺建物が存在したことが確認されています。

二の丸跡は現在、御国野市民広場として使用されています。

内堀

内堀は、本丸の外周に巡らされた堀です。

本丸

本丸北側から東側にかけては、その外側と比して1~3mの段差が設けられており、これらは本丸防衛のための土塁跡であると考えられています。

往時の本丸の内部構造については、詳しいことはわかっていません。

現在の本丸跡中心部は国道2号線により南北に分断され、本丸北側には石碑と天守を模した姫路市役所東出張所が建てられています。

また、同出張所の北側には江戸時代に天川に架けられていた石橋が移築されています(この石橋下の窪みは、内堀の一部です。)。

さらに、黒田官兵衛の祖父である黒田重隆と黒田官兵衛の生母の墓が御着集落の東にあった佐土の心光寺に置かれていたのですが、天正5年(1577年)に現在の城址公園西側移されました。そして、その後、享和2年(1802年)に筑前福岡藩10代目藩主であった黒田斉清により廟所が再建され、昭和43年(1968年)に再び修復され現在に至っています。

他方、本丸南側は小寺家当主を祀った祠がある小公園になっています。

御着集落

本丸・二の丸から内堀(現在も暗渠として残され水路利用されています。)で遮断された南側に広がる御着集落は、東西に伸びる山陽道沿いに広がっています。

もっとも、「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」によると、山陽道が本丸内を横断しているかのような記載となっているものの、さすがに本丸内を山陽道が通っていたとは考えられませんので、戦国期の山陽道は、本丸の南北のどちら側か(おそらく南側)を通っていたのではないかと考えられます。

また、必ずしも明らかではありませんが、総構外の山陽道沿い西側に御着西市、東側に佐土市があったとする説もあり、この説によると総構の内外に二元的城下町を構成していたこととなります。

御着城廃城

御着城廃城(時期不明)

小寺家の居城として発展を続ける御着城でしたが、天正5年(1575年)に織田信長の配下であった羽柴秀吉が中国地方に侵攻してきたことにより、歴史が動き始めます。

織田と毛利の間で器用に立ち回って生き延びてきた播磨国衆は、どちらにつくかの選択を迫られたからです。

ときの小寺家当主であった小寺政職は、家老の黒田官兵衛の進言もあって当初は織田家に与したのですが、別所長治や荒木村重の反乱に同調して織田家に対して反旗を翻します。

その結果、天正7年(1579年)、羽柴秀吉による三木城の周囲の諸城攻撃の一環として御着城攻撃がなされて落城します。

その後、御着城には蜂須賀正勝が入ったのですが、時期は不明ですが、その後間もなく行われた城割が行われ廃城となりました。

江戸時代の御着

江戸時代に入ると、御着集落・山陽道沿いに御着本陣が置かれ栄えていました。

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