【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名

荒木村重(あらきむらしげ)は、摂津国の有力国人の池田家に仕える武士の子として生まれ、後に織田信長に下った上で池田家を乗っ取り摂津国全域を支配するに至った戦国武将です。

その才覚を高く評価されて織田政権下で重用されながら、織田信長に反旗を翻し敗れ全てを失った武将でもあります。

また、織田信長との戦いでは、妻を残して居城であった有岡城から脱出しこれを見殺しにしたため、後世すこぶる評判の悪い人物でもあります。

本稿では、その後に茶人として生き、利休十哲の1人にもなった波乱万丈の戦国大名・荒木村重の生涯について簡単に紹介していきたいと思います。

荒木村重の出自

出生(1535年)

荒木村重は、天文4年(1535年)、摂津国の有力国人であった池田家に仕える荒木義村の子として生まれたといわれています。

なお、荒木家は、藤原秀郷の子孫であり、また丹波波多野一族であるとされていますが、正確なところは不明です。

幼名は十二郎(十次郎)といい、通称として弥介または弥助を名乗りました。

池田勝正に仕える

成長した荒木村重は、池田家当主であった池田長正娘を妻に貰い受けて池田家一門衆となり、池田長正嫡男である池田勝正に仕えます。

永禄6年(1563年)に池田長正が死去したことにより、池田勝正が池田惣領家の家督を継いだのですが、このころの池田家は、畿内全域に勢力を及ぼす三好家の支配下に入っていました。

永禄7年(1564年)に三好長慶が死去したことによって三好家中が分裂すると、池田家当主であった池田勝正は三好三人衆に与して松永久秀と対立するようになります。

織田信長上洛(1568年9月)

その後、足利義昭を擁して上洛してきた織田信長が、永禄11年(1568年)9月28日(ないし同年9月30日)から摂津国への侵攻を開始します。

このとき、三好三人衆は織田信長に抵抗したため、三好三人衆方に与する池田勝正もまた織田信長に抵抗し、足利義昭方(織田方)につく茨木重朝・伊丹親興連合軍と戦うも敗れ(猪名寺の戦い)、追い詰められた池田勝正は池田城に籠城します。

もっとも、織田軍の勢いを止めることが出来なかった池田勝正は、池田城下を焼かれたところで織田信長に降伏します。

この後、京に入った足利義昭・織田信長は、摂津国の安定のために、池田勝正(池田城)・伊丹忠親(伊丹城)の支配権を安堵した上で新たに和田惟政に芥川山城を与え、池田勝正・伊丹忠親・和田惟政の3人で摂津国を統治させます(いわゆる摂津三守護「続応仁後記」)。

なお、このとき池田勝正は抵抗の責めを負わされなかったばかりか、織田信長から6万石を賜るという破格の待遇をうけています。

そして、この結果、池田勝正の家臣であった荒木村重もまた、陪臣として織田方の将となり、永禄11年(1568年)10月14日に起こった三好三人衆による足利義昭襲撃事件(本圀寺の変)の際には、摂津衆を引き連れてその救援に向かうなどしています。

池田知正の家臣として織田信長と敵対

池田勝正を追放(1569年6月)

池田勝正の下で織田家に仕えることとなった荒木村重でしたが、本心としては反織田の意向を持っていました。

そこで、荒木村重は、永禄12年(1569年)6月19日、三好三人衆の援助を受けて同じく池田勝正の家臣であった中川清秀(荒木村重の従兄弟であったとする説もあります。)を調略し、池田知正(池田勝正の弟)を擁立して織田信長に下った池田勝正に反旗を翻します。

そして、池田知正・荒木村重・中川清秀らは、元亀元年(1570年)、池田四人衆の池田豊後守・周防守らを殺害した上で池田勝正を大坂に追放します(荒木略記)。

第一次信長包囲網に参加(1570年4月)

こうして池田家を掌握した池田知正・荒木村重・中川清秀らは、三好三人衆側に与して織田信長と対立する立場となります。

そして、元亀元年(1570年)4月、織田信長が朝倉討伐のため越前への侵攻を開始したところで織田信長の義弟であった浅井長政が織田方から離反したことをきっかけとして六角義賢・本願寺・長島一向宗などが次々に蜂起して畿内の織田領を取り囲む事態に発展します(第一次信長包囲網)。

白井河原の戦い(1571年8月28日)

この状況を好機と見た三好長逸が、元亀元年(1571年)7月、阿波国から畿内に再上陸し、畿内全域で三好三人衆方と幕府・織田方との勢力争いが繰り広げられていくようになります。

池田知正が当主となった池田家及びその重臣である荒木村重もまた三好三人衆と共に反織田勢力としてこれに参加したため、この時点で、畿内における織田信長方の勢力は高屋城の畠山秋高、高槻城の和田惟政、茨木城の茨木重朝、伊丹城の伊丹忠親だけの状態となりました。

この対立は、摂津国内でも織田方対反織田方として具現化し、ついに元亀2年(1571年)8月28日、西国街道上の白井河原を挟んで、織田方(和田惟政・茨木重朝連合軍約500人)が耳原古墳西側の糠塚(幣久良山)に、反織田方(荒木村重・中川清秀連合軍2500人)郡山北側の馬塚に約2500人でそれぞれ布陣して対峙する事態に発展します。

この圧倒的な戦力差の状況下で、織田方の和田惟政が200騎を引き連れて馬塚に突撃を仕掛けたのですが、反織田方の中川清秀に討ち取られてしまいます。

続いて、もう1人の将であった茨木重朝もまた荒木村重軍に取り囲まれ討ち取られたため、大将を2人とも討ち取られた和田惟政・茨木重朝連合軍は壊滅し、白井河原の戦いは荒木村重・中川清秀軍の大勝利に終わります。

勢いに乗る荒木村重・中川清秀は、そのまま城主茨木重朝を失った茨木城に向かってこれを攻め落とし、続けて和田惟長・高山友照・高山重友(右近)父子が守る高槻城を囲みます。

この後、松永久秀・松永久通・篠原長房も高槻城攻囲に加わったのですが、同年9月24日に明智光秀が1000人の兵を率いて調停に乗り出したため、荒木村重らは高槻城の包囲を解いて撤退し、一連の戦いが終わります。

摂津国全域が反織田勢力となる

前記一連の戦いの結果、池田方が茨木城を獲得し、織田方に残ったた高槻城には和田惟長と高山友照父子とが入ることとなりました。

ところが、元亀3年(1572年)4月、高槻城の和田惟長や伊丹城の伊丹忠親までもが織田信長方から離反します。なお、後元亀4年(1573年)4月、高山友照・高山右近父子が荒木村重と通じて和田惟長を追放し、高槻城を乗っ取っています。

この結果、摂津国全域が反織田勢力となりました。

池田知正を見限る(1573年)

ところが、天正元年(1573年)頃になると、池田知正が、織田信長と対立するようになっていた室町幕府15代将軍・足利義昭に接近し始めます。

他方、この時点で足利義昭が織田信長に勝てるはずがないと確信していた荒木村重は、池田知正の判断に苦慮し、次第に距離を置き始めます。

池田家を出て織田信長に下る

織田信長に下る(1573年)

足利義昭が元亀4年(1573年)2月に挙兵したため、これを討伐するため織田信長が京に軍を進めます。

もはや織田信長に敵対しても勝ち目がないと悟った荒木村重は、元亀4年(1573年)、細川藤孝らと共に逢坂(現在の滋賀県大津市)に向かい、織田信長と対面して織田信長に下ります。

なお、後世、このとき荒木村重が織田信長に対して命令してくれれば摂津国を鎮めて見せると豪語したのに対し、織田信長が腰刀を抜いてその剣先に饅頭を突き刺し荒木村重に対して食べろと命令するという事態となったのですが、荒木村重が全く動じずに剣先の饅頭を一口で食べたため、織田信長が荒木村重の胆力を評価して摂津国切り取りを許したとの逸話が創り上げられました(絵本太平記など)。

この話が何らかの史実に基づいているのかは不明ですが、荒木村重の人となりを垣間見ることはできそうです。

茨木城主となる(1573年)

いずれにせよ、対面の結果として織田信長に気に入られることとなった荒木村重は、池田家を出て織田家家臣となり、織田信長から茨木城を与えられます。

そして、その後の織田信長による足利義昭討伐線に従軍し、元亀4年(1573年)3月に始まった二条城の戦いや若江城の戦いで功を挙げるなどしています。

摂津国平定

下克上

荒木村重は織田信長から摂津国切り取りを許されていたため、その後は摂津国内の平定戦を進めていきます。

荒木村重は、手始めに足利義昭に与して敗れた旧主・池田知正を追放してその所領を奪いとります。なお、池田知正は、後に織田信長に降って、荒木村重の家臣となっています(知行は2780余石)。

有岡城築城

その上で、荒木村重は、織田信長の助けも借りながら残る摂津国内の敵対勢力の排斥に取り掛かります。

天正2年(1574年)11月15日、摂津国人である伊丹氏が支配する伊丹城を落とし、伊丹城を獲得します。

これにより摂津国内の最大勢力となった荒木村重は、伊丹城の大改修を行い、本城・侍町・城下町を掘りと土塁で囲み川で守られた東側を除いた北側・南側・西側に砦を配して惣構え構造の城を完成させた上で有岡城と名を改めて摂津国支配の拠点とします。

摂津国支配体制確立(1575年)

また、天正3年(1575年)、有馬郡の分郡守護であった有馬国秀を自害に追い込んで摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定すると、かつての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃してその機能を有岡城に集中させ、新たな摂津国支配体制を構築します。

その上で、荒木村重は、有岡城の周囲に、高槻城(高山右近)・茨木城(中川清秀)・吹田城・大和田城・能勢城・多田城・池田城・大物城(荒木村次・嫡男)・三田城(荒木重堅・一門)・花隈城(荒木元清・一門)等を配するなどして摂津国全域にその支配を及ぼしていきます。

なお、荒木村重は、同年の11月ころから「摂津守」を名乗っているため、同年7月に織田家重臣らが任官した際に正式に摂津守に任官したものと考えられます。

織田方の将として転戦

摂津国をほぼ制圧した荒木村重は、その後、織田信長の戦いに従軍し、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐などで武功を挙げています。

また、摂津国が毛利戦線の橋頭堡となり得る位置関係にあったことから、播磨国人への調略にも活躍していました。

織田信長からの離反

羽柴秀吉による毛利攻め

天正5年(1577年)10月23日、織田信長の麾下の武将・羽柴秀吉が、織田信長の命により毛利攻めの総司令官となって毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道攻略のために進軍を開始します。

このときの羽柴秀吉の総司令官任命は、山陰方面の橋頭堡たる明智光秀、山陽方面の橋頭堡たる荒木村重を飛び越えての抜擢人事であったため、明智光秀のみならず荒木村重にとっても屈辱的人事であったとも考えられます(羽柴秀吉が総司令官となることは、明智光秀や荒木村重がその指揮下に入ることを意味するためです。)。

いずれにせよ、荒木村重が治める摂津国を通過して播磨国に入った羽柴秀吉は、出雲街道・西国街道へ行くことができる交通の要衝に位置する姫路城の城主であった黒田官兵衛から姫路城の本丸の拠出を受け、ここを播磨国攻略の拠点とします。

その後、羽柴秀吉は調略を進め、また西播磨の上月城や福原城など力攻めで攻略するなどしてかつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを服従させていき、一旦播磨国全域を支配下に治めます。

なお、このときの羽柴秀吉の調略は、臣下に下った黒田官兵衛の策や人脈を利用して行ったのはもちろんですが、それまでに荒木村重が行っていた調略活動の成果でもありました。

別所長治離反(1578年2月)

その後、天正6年(1578年)2月に別所長治が離反して毛利側についたため、東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

そのため、対毛利の最前線にいた羽柴軍は、西に宇喜多、東に別所、南に瀬戸内毛利水軍に囲まれ完全に孤立することとなったのです。

困った羽柴秀吉は、戦局を打開し兵站を回復させるため、別所長治が守る三木城への攻撃を開始しますが、三木城の守りは堅く攻城戦は長期化していきます。

荒木村重離反(1578年10月)

ところが、この羽柴秀吉による三木城攻めの最中である天正6年(1578年)10月、荒木村重が、突如織田方から離反して毛利方に与します。

このときの荒木村重の離反理由については、①毛利・本願寺・足利義昭の調略説、②羽柴秀吉の下につけられたことへの怨み説、③織田信長による摂津国への介入を嫌ったとする説、④黒田官兵衛との共謀説など様々な説があるのですが、その本当の理由は不明です。

荒木村重離反の意味

このときの荒木村重の離反は、羽柴秀吉を絶対絶命の立場に追い込みます。

なぜなら、このとき毛利戦線の最前線にあった羽柴軍はその補給線は摂津国の荒木領の花隈城からの西国街道経由のものだけであったからです(第一次木津川口の戦いで制海権を失っていた織田方は海路での補給ができなかったため、播磨国に物資を届けるためには摂津国から西国街道を通る陸上ルートしかなかったのです。)。

すなわち、荒木村重の離反につい対応を早急になさなければ、兵站が失われた羽柴軍は全滅することになるのです。

織田信長としても、この荒木村重離反の意味を熟知しており、直ちに明智光秀・松井友閑・万見重元らを派遣して荒木村重に翻意を促します。

これらの糾問の使者の説得により、一旦は翻意して織田信長に釈明に向かうこととした荒木村重ですが、織田信長がいる安土城に向かう途中で立ち寄った茨木城にて、中川清秀から織田信長は裏切者は許さないと言われたため、翻意を再び翻して織田家と対立することを決めます。

困った羽柴秀吉は、荒木村重と旧知の仲である黒田官兵衛を有岡城に派遣して荒木村重の翻意を促したのですが、荒木村重は黒田官兵衛を拘束して土牢に監禁してしまいます。

第二次木津川口の戦い(1578年11月)

以上の理由から、荒木村重の離反は羽柴軍(織田軍)の敗北を決定付けるものだったはずなのですが、これを一変させる事態が起こります。

織田軍により包囲されていた石山本願寺に物資を運ぶために出陣した毛利水軍が、天正6年(1578年)11月6日、木津川口において織田水軍(九鬼水軍)の鉄甲船により壊滅されたのです(第二次木津川口の戦い)。

これにより、多くの船と水夫を失った毛利水軍は、瀬戸内海の制海権を失います。

このことは、その反射効として織田方が瀬戸内海の制海権を得たことを意味し、対毛利の最前線にあった羽柴秀吉軍に海路での物資搬入が可能となったことを意味します。

こうなると、戦局は戦力に優る織田方の圧倒的優位に進んでいくこととなります。

逆に対織田の最前線に取り残されることとなった有岡城は絶対絶命の危機に陥ります。

有岡城の戦い

有岡城籠城戦

その後も荒木村重は、有岡城に篭城した上で、毛利方の援軍を頼りに徹底抗戦します。

もっとも、明智光秀が、天正7年(1579年)2月に八上城を、同年8月9日に黒井城を落城させて丹波国を平定し、そのまま丹後国も平定をしたことから、有岡城は北側を織田勢により封鎖されます。

南側の瀬戸内海は既に織田水軍に押さえられ、西には羽柴秀吉軍・東には織田本軍がいるという状態となっていましたので、明智光秀による丹波国攻略は荒木村重が四面楚歌に陥ったことを意味しました。

こうなると、荒木家中の動揺も大きくなり、中川清秀(茨木城)や高山右近(高槻城)までもが離反して織田方に与したため、荒木方の戦況は絶望的となります。

それでも、その後も有岡城に攻め寄せる織田方の万見重元らの軍を打ち破るなど善戦しますが、毛利援軍もなく、また兵站の困難さから兵糧も尽き始めます。

有岡城からの脱出(1579年9月2日)

以上の絶望的な状況下において、荒木村重は、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城から脱出し嫡男である荒木村次の居城であった大物城へ移ります。

この有岡城脱出劇については、周囲を取り囲まれて絶体絶命となったことによる敵前逃亡とする説や、毛利水軍の補給路が僅かながらも生きていた大物城・花隈城で毛利方との連携を維持するためであったとする説などがあり、その理由は必ずしも明らかではありません。

宇喜多直家が毛利家から離反

ところが、ここで荒木村重をさらに絶望に陥れる事態が起こります。

天正7年(1579年)10月、毛利軍の最前線の守りを担っていた備前国・美作国を治める宇喜多直家が羽柴秀吉に寝返ったのです。

この結果、毛利軍と羽柴軍の前線が一気に宇喜多領の西側である備前・備中国境地帯に移動したため、毛利家から荒木村重方への補給と毛利家の参戦は絶望的となります。

荒木村重方の敗北が決定した瞬間でした。

有岡城開城(1579年11月19日)

もはや荒木村重方に戦う力がないと判断した織田信長は、天正7年(1579年)11月19日、満を持して荒木村重方に降伏勧告を行います。

このとき織田信長は、まずは荒木村重不在の有岡城を守っていた荒木久左衛門(池田知正)らに対して大物城と花隈城の開城を条件として城兵の助命を約束したため、有岡城内に残った荒木家家臣団との間では降伏勧告の受け入れが決まります。

これにより有岡城は開城され、有岡城の戦いが終わります。

その後、荒木久左衛門(池田知正)が、降伏報告のために大物城の荒木村重の下へ赴いたのですが、荒木村重は自らが織田信長に降伏して大物城・花隈城を明け渡すという条件を拒絶します。

荒木一門衆などの処刑

困った荒木久左衛門(池田知正)は、そのまま有岡城に戻ることなく妻子を見捨てて出奔してしまいました。

荒木村重に降伏勧告を拒絶され、また荒木久左衛門(池田知正)が出奔したと聞いた織田信長は激怒します。

織田信長は、見せしめのため、有岡城に残った荒木一門衆、女房衆、重臣家族などの処刑を命じます。

そして、天正7年(1579年)12月13日、まずは有岡城女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀にて惨殺されます(信長公記)。

また、荒木村重一族とその重臣家族の36人は京に護送された後、同年12月16日、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後六条河原で斬首されました(立入左京亮宗継入道隆佐記)。

花隈城の戦い(~1580年7月2日)

有岡城に残された者たちが次々と処刑されていったことを聞いた荒木村重は追い詰められ、大物城を出て花隈城に移ります。

そして、荒木村重を追って織田方の池田軍が追撃し、池田恒興・池田元助が諏訪山に、池田輝政が生田神社の森に、援軍の雑賀衆が大倉山にそれぞれ入って花隈城を包囲します。

その後、花隈城籠城戦が続けられたのですが、天正8年(1580年)7月2日、織田方の物量に耐え切れず、花隈城に籠っていた荒木村重・荒木村次・荒木元清らが同城を脱出し、毛利領の備後国・鞆城へ逃走し花隈城の戦いが終わります。

荒木村重の最期

堺にて茶人として活動(1583年ころ)

花隈城から落ち延びた荒木村重は、その後毛利領にて隠遁生活を続け、本能寺の変により織田信長が横死したことを見届けに移ります。

有岡城主時代に津田宗及・今井宗久・千利休などの堺の茶人と茶会を重ねて利休十哲の一人に選ばれるほど茶道の腕を磨いていた荒木村重は、天正11年(1583年)初めには津田宗及の茶会に出席していることが記録されています。

その後、道薫(どうくん)と名乗った荒木村重は、お伽衆となって羽柴秀吉に近侍します。

なお、道薫の名乗りについては、荒木村重が過去の過ちを恥じて自らを陥れるために「道糞」と名乗ったところ、羽柴秀吉にたしなめられて「道薫」に改めたとの説があるのですが、荒木村重が「道糞」を名乗ったとする一次史料が見られないことからず事実ではないと考えられています。

死去(1586年5月4日)

そして、荒木村重は、そのまま堺で生活を続け、天正14年(1586年)5月4日に堺で死去しています。享年は52歳でした。

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