藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。
壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。
それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。
また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。
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藤原京遷都
藤原京の立地
藤原京は、平城京造営前のヤマト政権(倭国)の政治的中心地である飛鳥に建設された都です。
飛鳥が当時の政治的中心地であった理由は、当時の陸上・海上物流路の要衝だったからです。
現在ではイメージが付きにくいかもしれませんが、縄文時代前期は現在よりも海面が5m程高かったところ、その後海水面が低下したものの飛鳥時代頃になっても現在の大阪平野部には大きな池と湿地帯で埋め尽くされているような状況でした
そして、そのような大阪平野の池を縫うように大和川がこれを横断し、その後、大和川が飛鳥川・佐保川へと繋がっていたため、飛鳥が水上交通の一大拠点だったのです。
そのため、飛鳥には、シルクロードの終着点(ユーラシア大陸→東シナ海→玄界灘→関門海峡→瀬戸内→河内湾→大和川奈良盆地)となり、シルクロードを東進してきた世界文明が届けられたのでした。
このような恵まれた立地から飛鳥は、ヤマト政権の政治の中心として大発展を遂げたのでした。
天武天皇による新都造営計画
藤原京は、それまでの大王(天皇)一代毎に行われていた遷都の慣例を覆し、以降の代々の天皇に引き継がれていく恒久的な都とするべく計画され、天武天皇11年(682年)に建設場所が決定され、天武天皇13年(684年)にはそのうちの宮室=藤原宮の地も決定されたとされています。
朱鳥元年(686年)の天武天皇崩御により一時造営が中断された後、持統天皇4年(690年)に造営が再開され(「日本書紀」持統天皇4年10月条)、持統天皇6年(692年)には地鎮祭が行われています。
なお、藤原京は、天武天皇時代の都であった飛鳥浄御原宮のすぐ北側に築かれており、新たに築かれた都ではなく飛鳥浄御原宮を拡張した都とも考えられることから、日本書紀などでは、「新たに増した京」として新益京(あらましのみや)という名で表記されています(「日本書紀」持統天皇6年正月12日条)。
藤原京遷都(694年)
そして、新都建設工事が進められた後、持統天皇8年12月(695年1月)、完成した藤原京に持統天皇が移り、藤原京遷都がなされます(「日本書紀」持統天皇8年12月条)。
なお、「藤原」京という名は、その名のとおり藤原という場所(律令制施行後は大和国高市郡藤原)にあったためにその名が付されることとなり、また藤原「京」という名は、大正2年(1913年)に執筆された喜田貞吉の論文である「藤原京考証」にて使用されてその後に多用され定着した学術用語です。
日本書紀では藤原宮と呼ばれています。
藤原京の構造
残された文献は多くない上、現時点では発掘調査もそれ程進んでいないため、藤原京についての詳しい構造・京域については必ずしも明らかとなっていません。
藤原京
藤原京は、藤原宮を中心に、古道に沿って約5.3km四方で配された都です。
少なくとも25k㎡を超える広さを誇り、藤原京の南側は以前の都であった地域にかかるほどの巨大な都であり、後に築かれた平城京(約24k㎡)や平安京(約23k㎡)を超える古代日本最大規模を誇っています。
京域には、官人やその関係者、さらに夫役として徴集された人や百姓が居住しました。
そして、藤原京は4~5万人もの人口を抱える大都市となり、自給自足では賄いきれない食料や生活物資が生じたため、物資を他の地域に依存する日本初の都市となったと言われています。
この藤原京には、それまでの都と異なる2つの大きな特徴があります。
それは、都城制と条坊制です。
(1)都城制
都城制とは、宮の周囲に京を配置する(京の中に宮を置く)構造を持った都であり、中国の都市を参考にされています。
もっとも、中国の都市では、天子南面の思想から宮殿は京の北端に設けられることが一般的なのですが、藤原京では、そのほぼ中央に宮が配されているのがその特徴です。
また、中国の都市では都城の外側は城壁で覆われているのが通常なのですが、藤原京には外壁が存在しておらず、外的防衛機能はありませんでした。
(2)条坊制
条坊制とは、京内に東西南北に亘る碁盤目状の直線道路(東西道路=条、南北道路=坊)を配置するという構造の都であり、藤原京では東西5.3km(20坊)・南北4.8km(18条)の街路が配されていました。
そして、藤原宮から南北方向にメインストリートとなる側溝中心間幅約24mの朱雀大路が配され、これを境に東側を左京、西側を右京と呼ぶようになりました。
また、条坊で区切られた空間には貴族の邸宅・寺院などが置かれ、 宮の北方には市が存在したことも明らかになっています。
藤原宮
藤原宮は、藤原京内における大王(天皇)の居所・執務スペースです。
高さ5mの塀で囲まれた約1km四方(東西約927m・南北約906m)の空間であり、その中で天皇が生活し、さらに政務・儀式を行っていたため、藤原京の最も中心的な場所でした。
各豪族の邸宅で行われていたそれまでの都と政務方式が一変されて藤原宮内で執務が行われることとなったため、各豪族は藤原宮(天皇の下)に毎日出仕する必要が生じるようになりました。
これは、持統天皇という大きな権力を持った天皇により築かれた都であったために出来たことであり、中央集権化を象徴する配置と言えます。
(1)外周
藤原宮の周囲は、太さ40~50cmの柱が約2.7m間隔で立てられ、その間に設けられた高さ約5.5m瓦屋根造・厚さ約25cmの土塀で囲まれていました。
また、藤原宮を取り囲む土塀には、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。
(2)官衙群
官衙群は、藤原宮の中東西に配された官庁群です。
現在でいうところの霞が関のようなイメージです。
(3)朝集殿
(4)朝堂院
朝堂院は、国政の最高審理機関として政務を行う場所であり、現在でいうところの国会議事堂の役割のようなイメージです。
(5)大極殿
大極殿は、天皇の権威を高めるための国家的儀式が行われる場所です。
基壇部が東西約52m・南北約27mの礎石建築建物が建てらており、日本の宮殿建築初の中国風の瓦葺建築であったとされています。
大極殿の周囲を回廊で囲んで大極殿院が構成されていました。
(6)内裏
内裏は、天皇の邸宅です。
約150m四方規模であったと考えられているのですが発掘調査未了であるため、その詳細は不明です。
藤原京廃都
藤原京の不都合性
都城制・条坊制を駆使した恒久的な都として築かれた藤原京は、694年の遷都以降、持統・文武・元明の3代に亘って使用されました。
もっとも、藤原京は、唐の都であった長安を模して築いたはずだったのですが、当時は遣唐使が派遣されていなかったことから実際には新羅による誤った情報に基づいて築かれたため、宮が京の中心に配置されるなど中国式ではない誤った構造で築かれてしまっていました。
ところが、大宝4年(704年)に遣唐使として派遣されていた粟田真人が日本に戻ってきて、唐の都であった長安の発展ぶりや優れた政治制度をときの朝廷に報告します。
このとき、聞かされた内容から、藤原京の構造が誤りであることがわかります。
話を聞いた文武天皇は、この都に唐の使節を案内すると日本の恥であると考え、唐の都である長安を正確に模した都の造営が必要であると考えます。
また、藤原京は、南東が高く北西が低い地形を掘削せずにそのまま造営しているため、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたことも藤原京からの遷都を要する理由となりました。
そこで、文武天皇は、慶雲4年(707年)、新たな律令国家にふさわしい都市計画を命じ、次の都候補地としての平城京への遷都についての審議が始まります。
遷都についての審議は、文武天皇が崩御された同年6月15日以降も続けられ、和銅元年(708年)2月、次代の元明天皇によって平城京遷都の詔が出されます。
その上で、同年3月に造営卿の任命、同年9月に造平城京司の任命、同年12月に宮域の地鎮祭が行われた上で、いよいよ平城京の建都が始まります。
なお、平城宮の発掘調査において藤原宮から再利用したものが発見されていることから、藤原京から解体された相当量の資材が平城京に運ばれたものと考えられます。
平城京遷都(710年)
そして、和銅3年(710年)、平城京遷都に伴い藤原京は廃都となり、翌和銅4年(711年)の火災により藤原宮も焼失したといわれています(扶桑略記)。
なお、藤原宮の遺構から平城京遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを記載した木簡が出土されていることから、藤原京が未完成のまま放棄された可能性が推認されています。
余談(藤原氏の名乗りの基となる)
前記のとおり、藤原京は、その名のとおり藤原という場所(律令制施行後は大和国高市郡藤原)にあったためにその名が付された都です。
この地において、後に天智天皇の腹心となって日本の政治の中心人物の祖となる中臣鎌足が生れており(藤氏家伝)、同人の死に際して天智天皇から大織冠を授けられた上で内大臣に任ぜられると共に、同地にちなんで「藤原」の姓を賜っています。