飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つであり、推古天皇が即位して飛鳥豊浦宮に都が置かれた推古天皇元年(593年)から奈良盆地に平城京を造営して遷都する和銅3年(710年)までの117年間を飛鳥時代と言うのが一般的です。
この117年の間には、一時的に難波宮・大津宮に都が置かれていたことがあるものの、主に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に都が置かれていたことからその名称が付されました。
飛鳥時代は、大別すると蘇我氏独裁政権時代(前期)・唐と新羅からの侵攻対策に追われた混乱時代(中期)・律令国家形成時代(後期)の3つの時代に区分されます。
以下、これらを順に見ながら飛鳥時代の概要について説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
飛鳥時代以前(古墳時代・大王時代)
蘇我氏の台頭
飛鳥時代は、中国王朝に朝貢・冊封して「倭」と呼ばれていた古代日本からの脱却期にあたります。
倭と呼ばれていた古墳時代までの日本は、豪族の集合体を大王が取りまとめるという連合政権体制が取られており(ヤマト政権、その支配域は前方後円墳の分布域である九州から東北地方中域までと同一推定)、大王がその代表者となっていました。
正確な時期は不明ですが、この豪族連合政権が近畿地方(現在の大阪→奈良)に政権の中心を置き、国家(ヤマト政権)を形成していきました。なお、5世紀以降も大和では巨大な前方後円墳が造られていたのに対し地方ではこれらの造営がなくなっていることから、5世紀頃にヤマト政権の中枢が近畿地方の中の大和に置かれて集権化していったと推測されています。
そして、このヤマト政権に対する貢献度やそれまでの一族の政治上の地位に応じて、政権より氏や姓と共に特権的地位が与えられて一族内で世襲されていきました(氏姓制度)。
こうして、ヤマト政権内で成長し、特権を得た一族の1つが蘇我氏でした。
蘇我氏は、曽我の地を本拠として王権のクラや財政に携わり、王権の職業奴属民としての役割を担っていた氏族の管理や国外との外交に対する権益を持っていたと考えられる一族です。
外交を担当していたことから文字が扱え、また渡来人と交流することによって当時の大陸先端技術を吸収することによってその勢力を高めた推測され、石川などに進出するなどして経済力・軍事力も高めていきました。
そして、ヤマト政権内において葛城氏や平群氏の勢力が衰えていったのに代わって蘇我氏が政権内の有力一族となり、蘇我稲目の代の頃までには蘇我氏が大連の大伴氏・物部氏にならぶ三大勢力の一角となっていきます
そして、欽明天皇元年(540年)、新羅が任那地方を併合する事件が起こり、大伴金村が物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾することにより失脚して大伴氏が衰退すると、蘇我氏(稲目)が大連の物部氏(尾輿)に並ぶ二大勢力の一角となりました。
蘇我氏の外戚化
ヤマト政権内で強い力を持つに至った蘇我稲目は、娘である蘇我堅塩媛及び小姉君を欽明天皇に嫁がせて大王家(天皇家)の外戚となることにより、さらにその権勢を高めていきます。
こうして高めていった権勢を用い、蘇我氏は、6世紀後半には飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に進出して勢力下に置きました。
物部氏滅亡(587年7月)
欽明天皇31年(570年)3月1日、蘇我稲目が没して蘇我馬子が後を継ぐと、2大勢力の争いは、蘇我馬子と物部守屋の対立として次世代に引き継がれます。
そして、敏達天皇12年(583年)に朝鮮半島の百済から仏教が入ってくると、仏教の思想とあわせて大陸の進んだ文化を取り入れることができるので国が発展すると主張する蘇我氏と(崇仏派)、この国には元々八百万の神がいるためそこに異国の仏を入れると災いが起きると主張する物部氏と(廃仏派)の間で激しい論争となりました。
この論争は、大王家(天皇家)の皇位継承争いとなって具現化します。
また、敏達天皇14年(585年)に30代敏達天皇が崩御された際、その弟であった穴穂部皇子(小姉君の子・蘇我稲目の孫)が継承候補者となったのですが、蘇我氏の圧力によりもう1人の蘇我稲目の孫である用明天皇が即位することとなります。
ところが、この結果に納得できなかった穴穂部皇子が、物部守屋に接近して蘇我氏と距離を置くようになります。
そして、用明天皇2年(587年)5月21日に用明天皇が崩御したのですが、後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となったところで、物部守屋がそして、この対立は、大王家(天皇家)の皇位継承争いとなって具現化します。を天皇として擁立し、自身はその下で権力を振おうと画策します。
ところが、同年6月7日、蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)が、この計画を事前に察知して先回りして穴穂部皇子を殺害したことにより、物部守屋と穴穂部皇子よるクーデター計画は失敗に終わります。
そして、蘇我馬子は、物部守屋のクーデター計画を糾弾し、同年7月、厩戸皇子・泊瀬部皇子・竹田皇子らと協議の上で物部守屋追討軍の派遣して物部氏を滅ぼしてしまいます(丁未の乱)。
蘇我氏一強体制(587年)
物部氏が滅んだことによりヤマト政権内に蘇我氏に対抗できる勢力はなくなり、以降、蘇我氏以外からは大連に任じられることもなくなったことによりヤマト政権は蘇我氏の一強体制となります。
こうしてヤマト政権内で唯一無二の権力を手にした蘇我馬子は、用明天皇2年(587年)8月2日、丁未の乱で蘇我氏側についた欽明天皇の第十二皇子である泊瀬部皇子を擁立して第32代崇峻天皇として即位させます。
親蘇我政権樹立(592年)
ところが、即位後に蘇我氏が実権を持つ政治形態に不満を抱く崇峻天皇が倉梯に宮を造営して蘇我氏と距離を取り始めると、これを嫌った蘇我馬子は、崇峻天皇5年(592年)11月3日に東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺するという暴挙に出ます。
その後、蘇我馬子は、同年12月8日(593年1月15日)、第29代欽明天皇と蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)と間に産まれた額田部王を傀儡として擁立し、日本最初の女帝となる第33代推古天皇として即位させました。
そして、蘇我馬子は、厩戸皇子(蘇我稲目の孫)を立太子させた上で(異論あり)、摂政に任じて推古天皇を補佐させます。
この結果、蘇我馬子・推古天皇・厩戸皇子の三者による親蘇我政権が誕生するに至りました。
飛鳥時代のはじまり
豊浦宮遷都(593年)
第33代天皇として即位した推古天皇は、推古天皇元年(593年)に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)の地にある豊浦宮に遷都します。
ここで問題となるのは、なぜ遷都が行われたのかということと、なぜ遷都先が飛鳥だったのかということです。
まず、推古天皇即位に従って遷都がなされた理由は、死の穢れから逃れるためです。
このころまでの都とは、倭国王の王宮(邸宅)であり、そこの近くに臣下となっていた有力王族・豪族が集まることによって構成されていました(そのため、「京」ではなく「宮」と言われます)。なお、この時代はまだまだ統一的な国家意思形成がなされておらず、各有力者が自らの所有地を統治する構造となっていたため、各有力者によりその支配地域の政務が行われており、当然その統治機構は有力者一族の世襲構造となっていました(氏族制)。
そして、世代交代によって王の邸宅(王宮)は変更されたため、王の継承がある度に王宮の場所が移され(遷都)た上で、新たな場所で政治機構を作り直すということが繰り返されてきました。
王の邸宅が一代ごとに変更された最大の理由は、かつての日本では死は恐怖の対象であり、死体は死穢に染まっている上にその穢れが伝染する性質のものであると考えており、死の穢れは能力・身分の高い者ほど強く発現すると考えられていたために最高権力者である王(大王・後の天皇)の死による穢れは、その周囲に広く伝播すると考えられたためでした。
大王の死という強い死の穢れから逃れるために、大王の崩御の度にその者が治めていた都を捨て、新たな場所に移り住むことが必要と考え、国家レベルで遷都を繰り返してきたのです。
この考え方は推古天皇にも踏襲されており、崇峻天皇の死の穢れから逃れるために推古天皇即位にあわせて崇峻天皇がいた倉梯柴垣宮が廃棄されることとなったのです。
「飛鳥」時代と呼ばれる理由
では、なぜ推古天皇が遷都した地が飛鳥・豊浦宮だったのでしょうか。
答えは簡単です。
このときのヤマト政権における政治の実権を掌握していた蘇我氏の本拠地が飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)だったため、飛鳥の地に遷都されたのです。
言うなれば、飛鳥時代(の前半)は蘇我時代なのです。
そして、その後も飛鳥の地の中で都が移され、後に奈良(平城京)に都が遷るまで同地を中心として政治が行われたため、この頃の時代区分を飛鳥時代と呼ぶようになったのです。
なお、「飛鳥時代」という時代区分は、元々は20世紀初め頃に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案された美術史・建築史用語であったのものが、後に歴史用語として使用されるに至っています。
【飛鳥時代前期】蘇我氏独裁期
蘇我氏独裁政権確立期
推古天皇を擁立した蘇我馬子は、厩戸皇子と協力して大王(及びそれを実質的に操る蘇我氏)中心の国家体制を築いていき、国内豪族を官僚化するなどして、大王の権威を高めていきました。
また、推古2年(594年)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始め、その際に造寺・造仏を担った渡来人やその子孫達によって伝えられた中国大陸の南北朝・インドなどの国際性豊かな文化が流入したことから飛鳥の地において仏教文化が勃興します(飛鳥文化)。
第1回遣隋使派遣(600年)
蘇我氏によって豪族の官僚化が進められた結果、ヤマト政権としては、国内に点在する諸豪族を統合するために中国皇帝の権威の必要性が薄れていきます。
また、対外的に見ても、当時のヤマト政権は、前哨基地として有していた任那や加羅(加耶)諸国の滅亡により朝鮮半島南部への影響力を失っており、中国皇帝の権威をもって朝鮮半島を支配するという政策目標も失われていました(もっとも、内政改革の成功により軍事力を巨大化させた推古朝では、再び朝鮮半島に進出してこれらを従わせようという野望も抱いていました。)。
その結果、この頃になると、ヤマト政権にとって中国から冊封を受ける実益がなくなります。
他方で、中国との貿易は経済的利益獲得や新技術導入をもたらしますのでこれを失わせることは妥当ではありません。
そんな状況下において、朝鮮北部の高句麗と敵対した隋が、ヤマト政権が高句麗と結ぶことを危惧して、ヤマト政権にそれまでのような強圧的態度をとらなくなりました。
ヤマト政権としては、この隋の外交態度の軟化を利用し、それまでのような従属外交ではなく(冊封を受けることなく)対等外交を指向するようになります。
そこで、隋との対等外交のため、推古天皇8年(600年)に倭の五王以後の約120年振りに中国に遣使が派遣されました(第1回遣隋使)。
もっとも、この当時のヤマト政権は外交儀礼に疎く、国書を持たない遣使であったため第1回遣隋使は門前払いとされてしまいました(隋書・倭國伝)。なお、この失敗を恥じたためか、日本書紀にはこの第1回遣隋使の記載はなされていません。
政治制度の大改革
ヤマト政権としては、第1回遣隋使外交の失敗を反省し、隋との国家レベルの差を少しでも埋めるべく、厩戸皇子の指導の下、推古天皇11年(603年)に冠位十二階を、推古天皇12年(604年)に十七条の憲法を定めるなどして中央政治制度の改善を図っていきます。
また、地方においても、ヤマト政権が区分した行政範囲にて氏姓制に基づく官職を定め、その長として国造を置き、これに軍事権(国造軍)・行政権・裁判権などを担わせました。
2回目以降の遣隋使派遣(607年)
以上の政治改革を経たヤマト政権は隋との関係を見直すため再度遣隋使の派遣にチャレンジすることし、推古天皇15年(607年)、摂政・厩戸皇子が、「日出処天子至書日没処天子無恙云々」と記載した国書を遣隋使の小野妹子に預け、再び隋の皇帝・煬帝に届けさせます(隋書倭国伝)。
これは、中国との対等外交を求めるヤマト政権として、天子は中国皇帝しか認めないとする中華思想を否認してヤマト政権にも天子が存在するという内容であり、中国に対する挑戦的内容ともいえる書面でした。
当然ですが、この国書を受け取った隋の煬帝は激怒します。
もっとも、前記のとおり、高句麗との敵対関係を考えると、これと結びつく可能性があるヤマト政権を邪険に扱うことはできませんでした。
そこで、煬帝は、直ちにヤマト政権に対して敵対行動を取ることはせず、一応、礼を尽くして答礼使として裴世清を派遣しています。
なお、この後複数回の遣隋使派遣がなされ、留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて国家の政治・文化の向上が図られたのですが、推古天皇26年(618年)、中国において隋王朝が滅亡し、唐が建国されると、中国に対する遣使はしばらく中断されています。
歴史書編纂(620年)
古墳時代頃までは日本では文字が使われていなかったのですが、民間交流や遣隋使の派遣などにより中国から文字の文化が入っており、飛鳥時代の頃になると日本国内でも様々な用途で文字が使われていきます。
そして、文字はヤマト政権の権威を高めるためにも利用され、蘇我馬子と厩戸皇子の協力により、推古天皇28年(620年)、皇室の系譜を記した「天皇記」・歴史書「国記」及び「臣連伴造国造百八十部併公民等本記」などが編纂されました(日本書紀・推古28年是歳条)。
なお、これらの書物は、記紀より前に記された最古の歴史書であったと考えられるのですが、乙巳の変後の皇極天皇5年(646年) 6月13日に蘇我蝦夷によって放たれた火により焼失しています。
蘇我氏専横期
その後、推古天皇29年(621年)に摂政であった聖徳太子が、推古天皇34年(626年)には蘇我馬子が、さらには推古天皇36年(628年)には推古天皇がそれぞれ死去し、飛鳥時代を創り上げた世代から次世代への世代交代が起こります。
この世代交代の結果、それまで共同して政権を担っていた大王家・上宮王家・蘇我氏の人間関係が希薄となり、これら相互間で内部分裂が生じて争いになっていきます。
この争いは、蘇我蝦夷が、田村皇子の対抗馬であった山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼし、舒明天皇元年(629年)1月4日、強引に田村皇子を第34代舒明天皇として即位させることにより、蘇我蝦夷とその子である蘇我入鹿が皇位継承にまで介入できるに至っていることを知らしめた結果、蘇我氏が最有力となります。
その結果、蘇我氏が大王家を超える権力を手にし、豪族達が大王家に出仕せずに専ら蘇我氏に出仕するという事態になるなどして蘇我氏が権力を独占するに至りました。
ヤマト政権内の争いと上宮王家の滅亡
このような蘇我氏の専横を嫌った舒明天皇は、舒明天皇11年(639年)、蘇我氏の支配下にある飛鳥を離れて百済宮に遷都することにより蘇我支配体制からの脱却を図ったのですが大きな効果を挙げることはできず、舒明天皇13年(641年)10月9日に崩御されます。
舒明天皇には皇后であった宝皇女との間に中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)、蘇我馬子の娘である法堤郎女との間に古人大兄皇子という皇位継承候補者がいたため、舒明天皇崩御により、①大王家の中大兄皇子・大海人皇子、②蘇我家の血を引く古人大兄皇子、③上宮王家の山背大兄王(厩戸皇子の子)という3パターンの皇位継承候補者が存在するに至ってしまいました。
こうなると、ヤマト政権内で三つ巴の争いとなることは明らかです。
そこで、ヤマト政権では皇位継承争いを避けるため、中継ぎとして舒明天皇の皇后であった宝皇女を第35代皇極天皇として即位させ、その間にこの政争を解決する手段を模索することとなりました。
ところが、蘇我氏では、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期大王(天皇)に擁立するために画策を始め、まずは山背大兄王を亡き者にしようと考えます。
そして、蘇我入鹿は、皇極天皇2年(643年)11月11日、山背大兄王の住む斑鳩宮に向かって巨勢徳多・土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王を一族もろとも死に追い込み、厩戸皇子の血を引く上宮王家を滅亡させるに至ってしまいました。
蘇我氏と大王家との対立
上宮王家の滅亡により、ヤマト政権内の対立は、大王家(中大兄皇子・大海人皇子)と蘇我氏(古人大兄皇子)との対立に一本化されます。
このとき、大王家は百済と親交を深める一方で、蘇我氏は高句麗と親交を深めていたため、朝鮮半島の情勢と相まって豪族たちもこれらのどちらを支持するかということを決めようとしているような状況でした。
以上のような状況下で、反蘇我氏の急先鋒であった神祇を職としていた一族である中臣鎌足が蘇我氏打倒の計画を進め始めたことから時代が大く動きます。
反蘇我氏運動を進める中臣鎌足は、中大兄皇子を取り込んで反蘇我氏の神輿として担ぎ上げた上、さらに蘇我一族の長老ともいえる立場であった蘇我倉山田石川麻呂にも接近して同人の娘を中大兄皇子の妃とすることを条件として同志に引き入れ、反蘇我氏クーデター決行の準備を整えます。
【飛鳥時代中期】対唐・新羅対応期
蘇我時代の終焉(乙巳の変)
そして、皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢(三国の調)の使者が来日したことから、中臣鎌足と中大兄皇子は、これを好機として暗殺決行を決めます(大織冠伝では、三韓の使者の来日自体が蘇我入鹿をおびき寄せる偽りであったとされていますが、真偽は不明です。)。
三国の調の儀式が、朝廷で行われるために大臣である蘇我入鹿も必ず出席すること、儀式の進行を同志となった蘇我倉山田石川麻呂が行うこと、儀式が執り行われている間は蘇我入鹿を丸腰にできることなどから、暗殺劇の条件として十分だったからです。
そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、ついに三国の調の儀式が行われることとなります。
同日、大極殿に皇極天皇が出御し、古人大兄皇子が側に侍して待機し、ここに蘇我入鹿が入朝してきます。
このとき、中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、中臣鎌足は弓矢を取って潜んでいました。
他方、蘇我入鹿は、猜疑心が強い人物であったため、いつもは剣を手放さなかったのですが、皇極天皇の御前であること、儀式の間だけであることなどと俳優(道化)に言い含めて、大極殿に入る前に剣を預けていたため丸腰でした。
そして、中大兄皇子は、蘇我入鹿が大極殿に入ったのを見計らい、衛門府に命じて宮門を閉じさせたことにより、準備が整います。
その後、三国の調の儀式が行われている最中に、中大兄皇子が、傍に置いていた長槍を持って蘇我入鹿に切り掛かり、その後、蘇我入鹿は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に惨殺されてしまいました(乙巳の変)。
蘇我宗家の滅亡(645年6月13日)
蘇我入鹿を討ち取った中大兄皇子は、そのまま法興寺へ入り周辺豪族勢力等の取り込みを始めます。
蘇我入鹿を討ち取ったとはいえ、蘇我氏には、まだ先代の蘇我蝦夷が残っていたからです。
ここで、蘇我入鹿が死亡したことにより権力者が変わったことを敏感に察知した諸皇子、諸豪族は、こぞって中大兄皇子の下に集います(なお、蘇我入鹿が暗殺されたことにより後ろ盾を失った古人大兄皇子は、身の危険を感じ、すぐに私宮へ逃げ帰ります。)。
一族の終焉を悟った蘇我蝦夷は、皇極天皇4年(645年) 6月13日、舘に火を放ち『天皇記』、『国記』などの貴重な文献や、その他の珍宝を焼いて自殺します。なお、この内『国記』については、船恵尺が火中から拾い出して中大兄皇子へ献上しています。
これにより、ヤマト政権内で長年に亘って権力を我が者にしてきた蘇我宗家が滅亡します。
その後、蘇我氏は、勝者の側について右大臣に任じされた傍流の蘇我倉山田石川麻呂の家系となりますが、後に蘇我倉山田石川麻呂も後に中大兄皇子に粛清されています。
大化の改新(646年1月)
皇極天皇は、皇極天皇4年(645年)6月14日、軽皇子へ譲位して、軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位します。
そして、クーデターを成功させて孝徳天皇即位のお膳立てした中大兄皇子が、皇太子となって権力を手にします。
その後、中大兄皇子は、阿倍内麻呂を左大臣・蘇我倉山田石川麻呂を右大臣・中臣鎌足を内臣に任じ、大化元年(645年)12月に都を蘇我氏勢力範囲下であった飛鳥から離れるために難波長柄豊碕宮(現在の大阪市中央区)の造営を開始した上で、大化2年(646年)1月に改新の詔を出し、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行していきます
なお、かつては、日本書紀の記載から改新の詔によって公地公民制・国県郡の再整備・班田収授法・租庸調税制についての諸改革がなされたと考えられていたのですが、昭和42年(1967年)12月に藤原京北面外濠から発掘された木簡により日本書紀における改新の詔の文書が日本書紀編纂の際に書き替えられていたことが明らかとなっていますので、大化の改新がなされたことは間違いないものの正確な改革の内容は明らかとなっていないことに注意が必要です。
中大兄皇子称制
孝徳天皇は、白雉2年(651年)に完成した難波長柄豊碕宮に遷都したのですが、孝徳天皇と仲違いをした中大兄皇子が白雉4年(653年)に皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)・大海人皇子・臣下の大半を引き連れて飛鳥に戻ってしまっため、そのまま中大兄皇子が政治の実権を独占してしまいました。
その後、白雉5年(654年)11月24日に孝徳天皇が崩御されたのですが、その後も中大兄皇子は大王位には就かず、退位して皇祖母尊と称していた母親・皇極天皇を、斉明天皇として再度即位(重祚)させました。
そして、中大兄皇子は、斉明天皇7年(661年)7月24日に斉明天皇が崩御された後も皇位に就かず、皇太子の地位で政務を執り続けました(称制)。
白村江の戦い惨敗
中大兄皇子がヤマト政権内で独裁を強めていた頃、朝鮮半島では中国の超大国・唐が朝鮮半島北部を支配する高句麗への侵攻作戦を進めていました。
唐が朝鮮半島北部(高句麗)へ侵攻したことにより、朝鮮半島南部に位置する諸国でも動揺が広がり、新羅は唐に接近することで、また百済は百済太子豊璋を人質として差し出すことによりヤマト政権(倭国)に接近することでその生存を図ったため、朝鮮半島南部では、新羅・唐VS百済・倭という構造が出来上がります。
そして、660年3月、唐・新羅は、朝鮮半島侵攻の障害となる百済を滅ぼすための兵を挙げ、同年7月18日にこれを滅ぼしてしまいます。
百済を滅ぼした唐軍は、方向転換して本来の攻略目標であった高句麗に向かったのですが、占領軍が去ったことを好機と見た百済遺民の鬼室福信や黒歯常之らが、人質として倭国にとどめ置かれていた百済太子豊璋を擁立して百済復興運動をしたいとしてヤマト政権に救援を求めてきます。
この求めに応じたヤマト政権は、唐・新羅連合軍に対抗するために大軍を編成して朝鮮半島へ出兵したのですが、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗します。
唐・新羅対策に忙殺される
白村江の戦いに敗れたヤマト政権では、唐・新羅軍からの報復による追撃攻撃を受ける危機が生じます。
ところが、白村江の戦いで主力軍を失ったヤマト政権に唐・新羅と正面から戦う水上・陸上戦力は残されていません。
そこで、中大兄皇子は、急ぎ防衛施設の整備を行い、唐・新羅側の予想進軍ルートを遮断する必要に迫られます。
このとき、中大兄皇子は、都を本丸と見立て、その上で北九州を第1次防衛拠点(外曲輪)、瀬戸内海を第2次防衛拠点(内曲輪)と定め、これらに様々な防衛策をとっていきました。なお、これ以降のヤマト政権の国防策は、別稿:白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策をご参照ください。
中大兄皇子は、まずは朝鮮半島から侵攻してくるであろう唐・新羅軍に対する防衛拠点となる大宰府の防衛を強化から始めます。
具体的には、北九州単独で防戦できるよう、第1防衛拠点の本丸を大宰府に定め、いち早く進軍状況を確認した上で、大宰府の周囲に出城として配した朝鮮式山城と城壁と見立てた連山と水城で守るという一体的な防衛構造を作り上げました。
また、大宰府が陥落した後の唐・新羅軍に対する防衛構想として、瀬戸内海を第2次防衛拠点とします。
その上で、大宰府と瀬戸内を突破された場合に備えて抜本的な内政改革を行うと共に、畿内の防衛構造を整備します。
大津京遷都
以上の結果、中大兄皇子は、飛鳥の朝倉橘広庭宮から大津の近江宮へ遷都し、天智天皇7年(668年)に天智天皇として即位します。なお、即位に際して都が近江国大津に移された理由は、抵抗勢力の多い飛鳥を脱する必要があったためと言われていますが、その理由は不明です。
また、新都の場所として近江国大津が選ばれた理由としては、琵琶湖南岸の大津は、東山道・北陸道などの交通路が交わる陸上交通の要衝である上、琵琶湖に面していることから唐・新羅軍の攻撃を受けた場合に船で北陸方面に向かって脱出できるためであったとも考えられています。
その上で、天智天皇7年(668年)に近江令を制定し(「藤氏家伝」大織冠伝・「弘仁格式」序)、天智天皇9年(670年)には動員可能兵力を算出するために全国的な戸籍(庚午年籍)編纂事業に取り掛かるなどして、様々な法令を制定することにより中央集権化による挙国一致体制の新たな政治体制(律令国家)の整備を急ぎます。
【飛鳥時代後期】律令国家形成期
天智天皇崩御
天智天皇は、天智天皇10 年(671年)9月に当時の都であった近江国・大津宮で病に倒れ、同年12月3日(672年1月7日)に崩御されます。なお、朝廷編纂の歴史書にも死因が書かれていないため、天智天皇の真因は暗殺説を含めて諸説あります。
天智天皇の崩御に伴って、その子である大友皇子(弘文天皇)が後を継いだのですが、その後すぐ、白村江の戦いや大津宮遷都などの多大な負担を強いた天智天皇の独裁政治に不満を持っていた豪族らが大友皇子に対して反乱を繰り返すようになります。
壬申の乱
この大友皇子政権の混乱ぶりを見た大海人皇子は、妻・鸕野讃良の説得もあって、自身の有する領地である美濃国へ行き大友皇子と戦うことを決めます。
そして、大海人皇子が挙兵して大友皇子を打ち滅ぼします(壬申の乱)。
なお、壬申の乱は、反乱者である大海人皇子が勝利し天皇として即位するという、極めて珍しい結果に終わっています。
天武天皇即位・飛鳥浄御原宮遷都
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇2年(673年)2月27日に天武天皇として即位し、天智天皇色を廃するため、大津宮を廃都とした上で飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)を造営して遷都します。
中央集権国家体制の構築
大王として即位した天武天皇は、軍事政権として中央集権的な国家体制の整備に努めていきます。
まずは、天武天皇10年(681年)に国家体制の基本となる飛鳥浄御原令の編纂を開始し、続けて人民支配強化のための本格的な戸籍作りを開始します。
また、それまでの大王(天皇)一代毎に行われていた遷都の慣例を覆して以降の代々の天皇に引き継がれていく恒久的な都を造営する計画が立案し、天武天皇11年(682年)に当時の都であった飛鳥浄御原宮のすぐ北側に新都建設場所が決定されます。
なお、このとき定められた新都予定場所が飛鳥浄御原宮に隣接していることから新都建設というよりは新都拡張と言えるため、日本書紀などでは「新たに増した京」として新益京(あらましのみや)という名で表記されています(日本書紀・持統天皇6年正月12日条)。
もっとも、天武天皇は、天武天皇14年(685年)ころに体調を崩して執務が困難となったため、その皇后であった鸕野讚良と次期天皇候補者であった草壁皇子の共同で政務が執られるようになります。
そして、その後、天武天皇は朱鳥元年(686年)7月に天武天皇が重態に陥いり、同年9月9日に崩御されました。
持統天皇即位(690年1月1日)
天武天皇の崩御により事実上皇位を継承した草壁皇子でしたが、まだ年が若かったこと、大津皇子の手段に消極的意見も多かったことなどから、すぐに大王(天皇)として即位することはできませんでした。
そこで、2年3ヶ月にも亘る皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼が繰り返されて時間が稼がれ、その間に鸕野讚良の指導の下で草壁皇子のイメージアップ活動が行われます。
具体的には、持統元年(687年)正月に都には住む老人・病人・貧民に絁綿を施し、同年6月には罪人を赦し、同年7月には天武14年以前の負債の利子を免除し、持統天皇2年(688年)6月にはふたたび罪人の赦免と全国の調半減を令しするなど、なりふり構わないご機嫌取り政策が繰り返されます。
こうして、草壁皇子に対するイメージ改善がなったと判断した鸕野讚良は、ようやく天武天皇を葬ることとして、草壁皇子の即位に向けて動き始めます。
ところが、ここで鸕野讚良の予期せぬ事態が起こります。
いよいよ即位秒読みとなった段階である持統天皇3年(689年)4月13日、草壁皇子が27歳の若さで薨去してしまったのです。
皇太子であった草壁皇子薨去により深く悲しんだ鸕野讚良は、草壁皇子の子(天武天皇と鸕野讚良の孫)である軽皇子に皇位を継がせようとしたのですが、この時点での軽皇子はまだ7歳であり、天皇として即位させるのははばかられる年齢でした。
そこで、持統天皇(690年)1月1日、やむなく鸕野讚良が、軽皇子が成長するまでの中継ぎとして、第41代・持統天皇として即位することとなりました。
律令国家体制の整備
女性天皇として即した持統天皇ですが、名目天皇に過ぎなかった他の女性天皇とは異なり実際に権力を持って自ら政権を担当した天皇(女帝)でした。
持統天皇は、天武天皇の長男である高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命して補佐をさせた上で、まずは自らの権威を高める施策を行った上、高めた権威を基に政治を行っていくこととしました。
そして、天武天皇によって行われていた中央集権体制構築をさらに進めるため、以下のような律令国家確立事業を進めていきます。
① 飛鳥浄御原令施行(689年)
天智天皇が始めた律令整備作業(近江令)は、一旦これを廃して新たな律令編纂作業を行う形で天武天皇に引き継がれ、その後さらに持統天皇に引き継がれます。
そして、持統天皇の代の持統天皇3年(689年)6月、令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令として諸官司に頒布されました。
もっとも、律は制定されておらず令のみが唐突に頒布されるという形で行われていることから、草壁皇子の死による政府内の動揺を抑えて天武天皇の施策を継承したことを明示するために、完成を待たずして令のみを急遽公布したと考えられています。
そのため、飛鳥浄御原令施行後も律令の編纂作業は継続され、最終的に大宝元年(701年)の大宝律令完成によってようやく律令編纂事業が完成するに至っています。
② 庚寅年籍編纂(690年)
また、持統天皇は、天智天皇が始め、天武天皇が引き継いだ戸籍編纂事業を引き継ぎ、首長や豪族の支配下にある農民を含めた全ての階層の農民を把握する庚寅年籍を完成させます。
そして、持統天皇6年(692年)、完成した庚寅年籍に基づいて農民に対する口分田の班給が開始され、豪族を介した間接支配を脱し、ヤマト政権による令に則った戸籍を介しての直接農民支配が始ました。
藤原京遷都(694年)
また、朱鳥元年(686年)の天武天皇崩御により一時中断されていた藤原京造営工事が、持統天皇4年(690年)に再開され(日本書紀・持統天皇4年10月条)、持統天皇8年12月(695年1月)に完成します。
そして、持統天皇が藤原京に移る形で、藤原京遷都がなされます(日本書紀・持統天皇8年12月条)。
藤原京は、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都であり、それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な唐風の都として遷都以降、持統・文武・元明の3代に亘って使用されました。なお、「藤原」京という名は、その名のとおり藤原という場所(律令制施行後は大和国高市郡藤原)にあったためにその名が付されることとなり、また藤原「京」という名は、大正2年(1913年)に執筆された喜田貞吉の論文である「藤原京考証」にて使用されてその後に多用され定着した学術用語です。日本書紀では藤原宮と呼ばれています。
当時の陸上・海上物流路の要衝として政治的中心地に位置していた(現在ではイメージが付きにくいかもしれませんが、縄文時代前期は現在よりも海面が5m程高かったところその後海水面が低下したものの飛鳥時代頃になっても現在の大阪平野部には大きな池と湿地帯で埋め尽くされているような状況であり、大阪平野の池を縫うように大和川がこれを横断した後、大和川が飛鳥川・佐保川へと繋がっていたため、飛鳥が水上交通の一大拠点でした。)、ヤマト政権の政治の中心として大発展を見越して後の平城京や平安京よりも大きな規模で造営されました。
また、この頃になると、藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな仏教文化である白鳳文化が最盛期を迎えていきました。
大宝律令完成(701年)
文武天皇元年(697年)、持統天皇は、成長した孫・軽皇子に譲位し、文武天皇として即位させます。
その後、文武天皇は、文武天皇5年(701年)、唐の律令制度を基本にした大宝律令を制定し、天皇を頂点とした貴族・官僚による二官八省制度に基づく中央集権支配体制を完成させました。
また、地方行政組織としては日本全国を国に分け、都(難波宮、平城宮、平安宮)周辺を五畿(畿内)、それ以外の地域を七道のいずれかに配置して区分され(なお、この行政区画としての五畿七道は、江戸時代になっても変更がなされることはなく、その後現在に至る日本各地の地方名の由来となっています。)、国制度・郡制度・里制度による上命下達制度が確立されました。
さらに、大宝2年(702年)には大宝令にもとづいた造籍が行われて、各国民が政府に把握され、租・庸・調といった税が付加されました。
国号を日本に変更
大宝律令編纂によって律令国家としての体裁を整えたヤマト政権は、大宝元年(701年)に当時の国内情勢に適合させた法令である大宝律令を編纂し、その上で、国号を「倭・和(ヤマト)」から「日本(ヤマト)」へ改めます。
そして、ヤマト政権は、これらの成果を唐に報告するため、大宝2年(702年)、30年ぶりに遣唐使(第8回遣唐使・大宝の遣唐使)を派遣します。なお、この第8回遣唐使は、粟田真人大使により日本の国号変更が報告されることにより、初めて対外的に「日本」という国号を使用したことでも有名です。
このときの唐は、周囲の国々を敵に回した外交不振時期であったために日本からの遣唐使を積極的に歓迎し、則天武后が日本という国号使用を承認したのですが(新唐書・東夷伝日本条)、律令が天下に君臨する皇帝の定める帝国法であるとして周辺諸国に過ぎない日本の律令導入と編纂自体は認めなかったと考えられています。
飛鳥時代の終焉
第8回遣唐使派遣(702年)
大宝4年(704年)に遣唐使・粟田真人が唐から戻ってきて、唐の都であった長安の発展ぶりや優れた政治制度をときの朝廷に報告したのですが、このとき文武天皇は、宮を京の中心に置く藤原京の構造が誤りであったことを聞かされます。
そこで、文武天皇は、藤原京に唐の使節を案内することは日本の恥であると考え、唐の都である長安を正確に模した新たな都の造営が必要であると考えます。
平城京造営工事開始(707年)
また、藤原京は、南東が高く北西が低い地形を掘削せずにそのまま造営しているため、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたことも藤原京からの遷都を要する理由となりました。
そこで、文武天皇は、慶雲4年(707年)、新たな律令国家にふさわしい都市計画を命じ、次の都候補地としての平城京への遷都についての審議が始まります。
遷都についての審議は、文武天皇が崩御された同年6月15日以降も続けられ、和銅元年(708年)2月、次代の元明天皇によって平城京遷都の詔が出されます。
その上で、同年3月に造営卿の任命、同年9月に造平城京司の任命、同年12月に宮域の地鎮祭が行われた上で、いよいよ平城京の建都が始まります。なお、平城宮の発掘調査において藤原宮から再利用したものが発見されていることから、藤原京から解体された相当量の資材が平城京に運ばれたものと考えられます。
なお、平城京造営中の和銅元年(708年)に武蔵国から銅が献上されたことにより、改元の上で和同開珎の発行がなされています。
平城京遷都(710年3月10日)
平城京の建築が始まり、内裏・大極殿・その他の官舎の一部が整備された程度の段階であったと考えられる和銅3年(710年)3月10日、藤原京から平城京への遷都が行われます。
この平城京遷都により飛鳥時代は終了し、奈良時代に入りました。
そして、その後も平城京内では貴族の邸宅や寺院などの造営が進められ、徐々に発展をしていきました。
他方、藤原京は、和銅4年(711年)に発生した火災により焼失し、このときに藤原宮も焼失したといわれています(扶桑略記)。