【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足による蘇我入鹿を暗殺したクーデター

乙巳の変(いっしのへん)は、皇極天皇4年(645年)に大極殿の中かつ天皇の面前で起こった暗殺劇です。

中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼした政変として余りにも有名ですが、起きた理由や首謀者については諸説あり、古代ロマンを掻き立てるクーデター劇です。

乙巳の変の後に、中大兄皇子が体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行していますので、大化の改新の第一段階とも言えるかもしれません。

乙巳の変に至る経緯

蘇我氏への権力集中

推古天皇30年(622年)、推古天皇の摂政であった聖徳太子が死去すると、朝廷内で蘇我氏を抑える者がいなくなり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになります。

その結果、蘇我氏の専横は甚だしいものになっていき、推古天皇34年(626年)5月20日、蘇我馬子が死去して蘇我蝦夷がその後を継ぐと、その傾向はさらに顕著になります。

推古天皇の後継者争い

推古天皇36年(628年)3月7日、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御すると、蘇我蝦夷は、田村皇子を次期天皇に推します。

そして、蘇我蝦夷は、田村皇子の対抗馬であった山背大兄王(聖徳太子の子)を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼし、舒明天皇元年(629年)1月4日、強引に田村皇子を第34代舒明天皇として即位させます。

なお、血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いのですが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹です。)、蘇我蝦夷は、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌ったと言われています。

蘇我氏の横暴

こうして皇位継承までも思い通りに進むようになった蘇我氏の勢いはますます盛んになります。

その結果、豪族達は、朝廷に出仕せずに専ら蘇我家に出仕する有り様になります。

舒明天皇13年(641年)10月9日、舒明天皇が崩御して、その皇后であった宝皇女が皇極天皇として即位すると、蘇我氏の専横は更に甚だしくなります。

そして、蘇我氏を継いだ蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと考え、対抗馬となる山背大兄王を亡き者にしようと考えます。

そして、蘇我入鹿は、巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻め、一族もろとも死に追い込み、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡させるに至ります。

反蘇我氏勢力の勃興

大和政権内で専横を極める蘇我氏ですが、当然反発が起こります。

この反発勢力のうち、神祇を職とする一族の中臣鎌足が蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めます。

中臣鎌足は、まず軽皇子に接近したのですがその器量に飽き足らず、クーデターの中心にたりえる人物を探します。

ここで中臣鎌足が目をつけたのが中大兄皇子でした。

中臣鎌足は、中大兄皇子に接近する機会をうかがい、ついに法興寺の打毬の際に中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げたのをきっかけとして縁を持ちます。

中臣鎌足が中大兄皇子を取り込む

中大兄皇子と中臣鎌足は、共に南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上、中臣鎌足が中大兄皇子に対して山背大兄王の次は中大兄皇子の番であると脅しながら、反蘇我氏の計画を練り上げて行きます(このとき計画を練った場所が談山と言われています。)。

中臣鎌足は、さらに蘇我一族の長老ともいえる立場であった蘇我倉山田石川麻呂にもアプローチをし、娘を中大兄皇子の妃とすることを条件として同志に引き入れます。

蘇我入鹿暗殺計画

皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)からの進貢(三国の調)の使者が来日したことから、中臣鎌足と中大兄皇子は、これを好機として暗殺決行を決めます(大織冠伝では、三韓の使者の来日自体が蘇我入鹿をおびき寄せる偽りであったとされていますが、真偽は不明です。)。

三国の調の儀式は朝廷で行われるために大臣である蘇我入鹿も必ず出席すること、儀式の進行を同志となった蘇我倉山田石川麻呂が行うこと、儀式の間蘇我入鹿を丸腰にできることから、暗殺劇の条件として十分だったからです。

具体的な暗殺方法としては、三国の調の儀式の中で蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げたのを合図として、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の2人を実行者として蘇我入鹿を斬殺することに決まります。

乙巳の変

三国の調の儀式

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、ついに三国の調の儀式が行われることとなります。

同日、大極殿に皇極天皇が出御し、古人大兄皇子が側に侍して待機し、ここに蘇我入鹿が入朝してきます。

このとき、中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、中臣鎌足は弓矢を取って潜んでいました。

他方、蘇我入鹿は、猜疑心が強い人物であったため、いつもは剣を手放さなかったのですが、皇極天皇の御前であること、儀式の間だけであることなどと俳優(道化)に言い含めて、大極殿に入る前に剣を預けていたため丸腰でした。

中大兄皇子は、蘇我入鹿が大極殿に入ったのを見計らい、衛門府に命じて宮門を閉じさせたことにより、準備が整います。

その後、三国の調の儀式が始まり、予定通り蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げ始め、蘇我入鹿暗殺の機会が来ます。

ところが、この大事な場面で、蘇我入鹿を斬る役目を任された佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田 の2人が恐怖のあまり動くことができません(飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すような状態でした。)。

上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、いつまで経っても蘇我入鹿暗殺劇が行われないことに焦りを感じ始めます。

計画が露見しているのではないかと考え始めた蘇我倉山田石川麻呂は、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えていきます。

この蘇我倉山田石川麻呂の状況を不審に思った入鹿が、「なぜ震えるのか」と問い、蘇我倉山田石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えたと言われています。

蘇我入鹿暗殺(645年6月12日)

三国の調の儀式が進行しても佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の2人が現れないことから、同人らが蘇我入鹿を恐れて暗殺を実行できないのだと判断した中大兄皇子は、自らの手でこれを成し遂げる決断を下します。

そして、中大兄皇子は、傍に置いていた長槍を持って蘇我入鹿に切り掛かります。

この中大兄皇子の行動を見た佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田もようやく動き出し、2人して蘇我入鹿の頭と肩に斬りかかります。

驚いた蘇我入鹿は、起き上がってこれらに対抗しようとしたのですが、ここで佐伯子麻呂に片足を切られて転倒します。

地に付した蘇我入鹿は、倒れながら皇極天皇の御座へ叩頭し、私に何の罪があるのというのか、すぐに襲撃者を裁いて下さいと懇願します。

これに対し、中大兄皇子が、蘇我入鹿が皇族を滅ぼして皇位を奪おうとした罪人であると答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退き、蘇我入鹿が1人残されます。

そして、蘇我入鹿は、そのまま佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に惨殺され、大雨が降る中、その死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられて捨て置かれます。

蘇我宗家の滅亡(645年6月13日)

蘇我入鹿を討ち取った中大兄皇子は、そのまま法興寺へ入り周辺豪族勢力等の取り込みを始めます。

蘇我入鹿を討ち取ったとはいえ、蘇我氏には、まだ先代の蘇我蝦夷が残っていたからです。

蘇我入鹿が死亡したことにより権力者が変わったことを敏感に察知した諸皇子、諸豪族は、こぞって中大兄皇子の下に集います(なお、蘇我入鹿が暗殺されたことにより後ろ盾を失った古人大兄皇子は、身の危険を感じ、すぐに私宮へ逃げ帰ります。)。

僅かに帰化人の漢直の一族が蘇我氏に味方するために蘇我氏の舘に集まったのですが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得したために蘇我氏の下を去ります。

これを見た蘇我氏の軍衆も離散し、蘇我氏にはもはや中大兄皇子らに対抗する力が失われます。

一族の終焉を悟った蘇我蝦夷は、皇極天皇4年(645年) 6月13日、舘に火を放ち『天皇記』、『国記』などの貴重な文献や、その他の珍宝を焼いて自殺します。なお、この内『国記』については、船恵尺が火中から拾い出して中大兄皇子へ献上しています。

これにより、大和政権内で長年に亘って権力を我が者にしてきた蘇我宗家が滅亡します。

その後、蘇我氏は、勝者の側について右大臣に任じされた傍流の蘇我倉山田石川麻呂の家系となりますが、蘇我倉山田石川麻呂も後に中大兄皇子に粛清されています。

乙巳の変後の政治改革(大化の改新)

乙巳の変を間近で見てしまった皇極天皇は、皇極天皇4年(645年)6月14日、軽皇子へ譲位します。

そして、軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子となって権力をふるいます。

その後、中大兄皇子は、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行していきます。

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