【九戸政実の乱】豊臣秀吉による天下統一戦の最後の戦い

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は、天正19年(1591年)に、南部家のお家騒動に敗れて弟を南部家の当主の座に就けることができなかった九戸政実が、南部家当主となった南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。

東北地方の大名家のお家騒動から発展した内乱であり、歴史の教科書などでもほとんど紹介されないため知名度がイマイチですが、実は豊臣秀吉の天下統一戦の最後を飾る戦いです。

九戸政実の乱に至る経緯

南部晴政による南部家の躍進

永正14年(1517年)に陸奥国を治める南部安信の嫡男として生まれ、南部家24代当主となった南部晴政は、「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われるほどの広範囲に領土を拡大させるなどして南部家の最盛期を築きます。

ところが、南部晴政にはなかなか男児ができなかったため、広大な南部領を引き継ぐ嫡子がいませんでした。

お家の将来を憂いた南部晴政は、永禄8年(1565年)、石川高信の子・石川信直(南部晴政の従兄弟)を長女の婿養子にして三戸城に迎え、世子としました。

その上で、南部晴政は、次女を一族の中で有力者である九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせ、石川信直(南部信直と改名)を南部家当主とし、これを九戸家を筆頭とする一族・家臣団で支えるというお家体制を確立させます。

南部家中の火種

ところが、一旦作り上げた体制を覆すことが起こります。元亀元年(1570年)、南部晴政に待望の男子(後の南部晴継)が生まれたのです。

次期当主を南部信直と決めていた南部晴政でしたが、実子の誕生により次期当主の座を誰が引き継ぐのか(南部信直か南部晴継か)という問題の火種が発生します。

さらに悪いことに、天正4年(1576年)に、南部信直の妻(南部晴政の長女)が死去したため、南部信直の立場が微妙になります。

立場が悪くなった南部信直は、嗣子を辞して三戸城から出る決断をします。

こうして、表向きには南部晴政の嫡男が南部家次期当主となることとなったのですが、南部晴政は、南部信直が次期南部家当主への野心を捨てていないのではないかと疑い続けます。

しかも、南部家家臣団の中にも、幼い南部晴継よりも南部信直こそが次期当主として相応しいと考える者(南長義、北信愛など)も多く、南部家家督承継問題をきっかけとして南部家家臣団が二分して対立していくようになります。

南部家のお家騒動

この南部家のお家騒動の火種は、カリスマ南部晴政の死をきっかけとして燃え上がります。

天正10年(1582年)に南部晴政が没すると、南部晴継を推す九戸政実らと、南部信直を推す北信愛、南長義らとが対立の様相を呈していきます。

そして、南部晴政の死により、その嫡男である南部晴継が、13歳の若さで南部家の家督を相続したのですが、南部晴政の葬儀後に三戸城に戻る際に、何者かに暗殺されます(病死説あり)。

南部晴政・南部晴継と立て続けに南部家当主が死亡したことで家中は混乱し、急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われます。

そこでは、次期南部家当主として、九戸実親(南部晴政の二女の婿で一族の有力勢力である)と、南部信直(南部晴政の二女の婿でかつての南部晴政の養嗣子)が候補に挙がります。つまり、南部晴政の娘婿の2人が南部本家の家督相続を巡って争う形となったのです。

評定では九戸実親を推す声も強かったのですが、南部信直を推す北信愛が、有力勢力であった根城南部氏の八戸政栄を調略し、その発言力等によって最終的には南部信直が後継者に決定します。

九戸政実としては、南部晴継暗殺の容疑者である南部信直が南部宗家を継いだことに大きな不満を抱きながら、自領へと帰還します。

豊臣秀吉による奥州仕置への不満

そんな中、南部家当主となった南部信直が、兵1000人を連れて豊臣秀吉による小田原征伐(及び、それに続く奥州仕置)に参戦すると、不満を抱いていた九戸政実は、天正18年(1590年)6月、手薄となった三戸南部側である南盛義を攻撃し、これを討ち取ります。

他方、このころ、豊臣秀吉の奥州仕置軍が平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行った後、奉行・浅野長政らが郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げます。

この奥州仕置の中、天正18年(1590年)7月27日、豊臣秀吉が、元々三戸南部氏を中心とした八戸氏・九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族連合であったはずの「郡中」南部家について、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認して豊臣政権の近世大名として組み込み、それ以外の諸勢力は例え有力一族であっても独立性を認めることなく宗家の「家中」あるいは「家臣」として服属することを求めます。

この結果、九戸政実は、南部信直の配下と扱われることとなりました。

弟を南部家の当主にできなかった上、新当主となった政敵・南部信直の臣下に下れという命令に、九戸政実の怒りが爆発します。

また、この豊臣秀吉の奥州仕置は、九戸政実のみならず、奥州各地に不平不満が高まり、奥州仕置軍が領国へ戻った同年10月頃から、陸奥国各地で大規模一揆が続発します(葛西大崎一揆・仙北一揆など)。

南部領内でも一揆が発生し、南部信直が和賀・稗貫一揆に兵を出すが稗貫氏の元居城である鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を、南部家居城である三戸城に兵を出すだけで精一杯でという状況に陥ります。

九戸政実の乱

九戸勢の南部本家への反意(1591年1月)

南部信直の臣下に下ることに納得がいかない九戸政実は、南部家が一揆鎮圧に手間取っていることを好機と見て、南部本家への反意を決断します。

そして、九戸政実は、天正19年(1591年)の三戸城への正月参賀を拒絶して南部本家への反意を周囲に示します。

この九戸政実の行為を無礼と見た南部家当主・南部信直は、同年正月17日、世子利直・南康義・七戸直勝・東重政らを率いて九戸政実の居城・宮野城を攻撃しますが、失敗に終わります。

九戸勢挙兵(1591年3月)

南部信直に攻撃された九戸政実は、天正19年(1591年) 3月に5000人を率いて兵を挙げ、櫛引清長による苫米地城攻撃を皮切りに周囲の城館を次々に攻撃し始めます。

同年3月13日には九戸政実自身も出陣して全面戦争となったのですが、根城の八戸氏・剣吉城の北氏・名久井城の東氏・野田城の野田氏などは南部信直につき、鹿角・閉伊・志波方面の館主らが九戸政実に味方して戦力が拮抗し、また家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考えて態度を保留する者も多かったため、戦線が膠着します。

奥州再仕置軍出陣(1591年6月)

南部信直は、南部家の力だけで九戸政実を討伐することは困難であると考え、豊臣秀吉に助けを求めるために、天正19年(1591年)4月13日、嫡子・南部利直と北信愛を豊臣秀吉のいる京に向かわせます。

南部利直は、同年5月18日に京に到着し、浅野長政と前田利家を通じて同年6月9日に豊臣秀吉と謁見して助けを求めます。

九戸勢の反乱を聞かされた豊臣秀吉は、自身が決定した奥州仕置に九戸政実が反したこと、奥州に大規模な一揆が起きていたことを併せ考え、奥州の総鎮圧を決断します。

そして、豊臣秀吉は、同年 6月20日、以下のとおりの奥州再仕置軍を編成します。そして、東北諸将である伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信はこれら諸将の指揮下に入るよう指示され、蠣崎氏までもアイヌ兵も率いて蝦夷から参戦しています。

①白河口方面軍:総大将・豊臣秀次、徳川家康

②仙北口軍:上杉景勝、大谷吉継

③相馬口軍:石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱

奥州再仕置軍の進軍

前記のとおり、奥州再仕置軍は三方面に分かれて北進し、相馬口軍は海道を進んで本吉・気仙方面を鎮圧、仙北口軍は胆沢・和賀に進み、一揆を平定しながら北進していきます。

大軍である奥州再仕置軍は、危なげなく進軍を続け、天正19年(1591年) 7月には葛西・大崎一揆を平定し、8月下旬には南部領近くまで到達します。

同年8月23日、九戸政実配下の小鳥谷摂津守が50名の兵を引き連れて、美濃木沢まで進軍してきた奥州再仕置軍に奇襲をかけて戦いが始まります。

その後も奥州再仕置軍の足は止まらず、同年9月1日には九戸方の前線基地である姉帯、根反城が落城します。

九戸城の戦い(1591年9月2日〜9月4日)

次々と支城を攻略していった奥州再仕置軍は、天正19年(1591年)9月2日、ついに九戸政実の居城・九戸城にとりつきます。

九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれていたのですが、総勢6万の兵で九戸城にとりついた奥州再仕置軍は、南側に蒲生氏郷・堀尾吉晴を、猫淵川を挟んだ東側に浅野長政・井伊直政を、白鳥川を挟んだ北側に南部信直を、馬淵川を挟んだ西側に津軽為信・秋田実季・小野寺義道、・松前慶広を布陣させて完全にこれを包囲します。

後がなくなった九戸政実は包囲する奥州再仕置軍に対して、かかんに反撃を加えるも多勢に無勢で勝負となりませんでした。

ここで、奥州仕置軍の浅野長政が、九戸家の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者に立て、「開城すれば残らず助命する」と述べさせて九戸政実に城を明け渡すよう説得させます。

城兵の命が助かるのであればと考えた九戸政実は、この降伏勧告を受け入れることとし、同年9月4日、弟の九戸実親に後を託して、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと共に、剃髪した上で白装束姿という出家姿で奥州再仕置軍の下に下り、降伏します。

ところが、奥州再仕置軍は、城兵の助命の約束を反故にし、九戸実親以下の城内に残った者を二の丸に入れて惨殺し、火をかけます(九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる女性の人骨などが発掘されています。)。

そして、奥州仕置軍は、同年9月20日、総仕上げとして、九戸政実を奥州再仕置軍の総大将であった豊臣秀次の本陣であった栗原郡三迫(宮城県栗原市)まで引っ立て、そこで主要家臣もろともこれを処刑して奥州再仕置(九戸政実の乱)が終結します。

九戸政実の乱の後

九戸城落城後、奥州仕置軍の軍鑑であった蒲生氏郷が現地に残ってこれを接収し、九戸城の不振と城下町の回収をした後にこれらを南部信直に引き渡します。

そして、南部信直は、南部家の本城を三戸城から九戸城に移って福岡城と改名しています(その後、盛岡城に移るまでの間、この福岡城が南部池の居城とされました。)。

九戸政実の乱の際の豊臣家の力を見せつけられたため、この地域で豊臣政権に対し組織的に反抗する者がほとんどいなくなったため、これをもって豊臣秀吉の天下統一が完成します。

また、南部家も、九戸政実の乱をきっかけに豊臣家重臣である蒲生氏郷との関係を強め、南部家の次期当主となる南部利直の室として蒲生氏郷の養女である源秀院(お武の方)をもらい受けています。


なお、歴史小説ではありますが、高橋克彦先生の「天を衝く」でこの九戸政実の乱をとても面白く描かれていますので、興味がある方は是非。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。