【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦

羽柴秀吉の四国攻めは、戦国時代末期に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下統一事業の一環として行った長宗我部元親軍との一連の戦いです。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれます。

長宗我部元親が、織田信長時代から羽柴秀吉と敵対していたこと徳川家康と接近していたことなどから羽柴秀吉との関係は従前から劣悪だったのですが、天正13年(1585年)に伊予国の河野通直を降伏させたことにより四国をほぼ統一した時点で、羽柴秀吉が長宗我部元親に自身への服属を命じます。

ところが、長宗我部元親がこれを拒否したため、羽柴秀吉が10万人を超える兵をもって三方面から四国に侵攻し、長宗我部元親を降伏させたというのが羽柴秀吉による四国攻めの概略です。

この戦いにより、敗れた長宗我部元親が四国全域支配から土佐一国20万石に減らされて豊臣政権下の一大名に成り下がり、他方羽柴秀吉方としては四国平定により次に九州征伐に向かうという天下統一戦の終盤に差し掛かるという転機となる戦いでした。

豊臣秀吉の四国攻めに至る経緯

織田信長と長宗我部元親との手切れ

土佐国人の立場から守護を排除してのし上がった長宗我部元親は、天正3年(1575年)に土佐を統一した後、畿内で勢力を伸ばす織田信長に接近して良好な関係を構築し、「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状を得ます。

ところが、その後も四国で急速に力をつけていく長宗我部家の力を危惧した織田信長は、羽柴秀吉を三好康長に接近させて織田家の四国政策の協力者を長宗我部家から三好家に変更した上、長宗我部元親に対して土佐及び阿波南半分の領有のみを許し他の占領地は返還するよう命じます。

これに対し、長宗我部元親は、四国征服は織田信長が認めたこと、獲得した領地は自力で切り取ったものであり織田信長の力を借りたものではないことを理由として織田信長の命令を拒絶したため、織田信長と長宗我部元親との関係は完全に手切れとなります。

なお、この手切れに際し、羽柴秀吉が三好氏に接近して長宗我部元親に敵対したのに対し、明智光秀が関係改善に奔走したことから、長宗我部元親は明智光秀との関係は良好であり、羽柴秀吉との関係は劣悪でした

織田家による四国派兵計画のとん挫

長宗我部元親と手切れとなった織田信長は、天正10年(1582年)5月上旬、三男・織田信孝を総大将、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として、四国方面軍を編成し四国攻めを命じます。

そこで、同年5月29日、織田信孝が摂津国・住吉に、織田信澄・丹羽長秀が摂津国・大坂に、蜂谷頼隆が和泉国・岸和田にそれぞれ集結し、総勢1万4000人の軍勢にて渡海準備を整え、同年6月2日に四国に向かって出港することとなりました。

ところが、四国方面軍出港予定であった同年6月2日朝、本能寺の変が起こって織田信長が横死したため織田家中が大混乱に陥り、織田軍・四国方面軍の副将であった津田信澄が明智光秀の女婿であったとの理由で誅殺され、また集まった軍勢も勝手に離散をし始め、織田軍の四国攻めどころではなくなります。

また、阿波国でも、後ろ盾の織田信長を失った三好康長が勝瑞城を捨てて逃亡します。

こうして、長宗我部元親は、本能寺の変の発生によりお家存亡の危機を脱したのみならず、一転して阿波国・讃岐国侵攻の機会を得ることとなりました。

長宗我部元親は、この機を利用して、天正10年(1582年)8月に阿波国を平定します(中富川の戦い)。

羽柴秀吉と長宗我部元親の対立

羽柴秀吉が一貫して長宗我部元親との対決路線をとっていたこともあり、長宗我部元親は羽柴秀吉と敵対する道を選び、山崎の戦いに際しては明智光秀と結ぶなど、徹底して反羽柴秀吉勢力と同盟する道を選びます。

そして、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに際しても、長宗我部元親は柴田勝家・織田信孝と結んで羽柴秀吉を西側から牽制したため、羽柴秀吉は仙石秀久を淡路洲本城に配置してこれに備えています。

同年春、長宗我部元親が再度讃岐国に出陣して十河城・虎丸城を包囲したため、仙石秀久が援軍に向かったものの、長宗我部元親軍に大敗しています(引田の戦い)。

加えて、同年冬から天正12年(1584年)ころに、毛利輝元と羽柴秀吉との間に和睦が成立したことに伴い、毛利・長宗我部の関係が冷却化したため、長宗我部元親は、毛利家と友好関係にある伊予国の河野通直・西園寺公広への攻撃を始めます。

天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄との間で小牧・長久手の戦いが勃発すると、長宗我部元親は徳川家康・織田信雄や紀伊の根来衆・雑賀衆と協力して西側から羽柴秀吉方を脅かす姿勢を見せます。

そして、長宗我部元親は、天正12年(1584年)6月に讃岐国・十河城(第二次十河城の戦い)・虎丸城を攻略して讃岐国を平定した後、同年10月19日に西園寺公広の守る黒瀬城を攻略するなどして、四国統一に近づいていきます。

もっとも、長宗我部元親の快進撃も、同年11月、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉との間で和議が結ばれたことにより陰りを見せます。

東側の安全が確保された羽柴秀吉が、西側に目を向け始めたからです。

羽柴秀吉は、西側の抵抗勢力を駆逐するため軍を西側に動かし始めます。

そして、羽柴秀吉軍は、天正13年(1585年)3月から4月にかけて紀州攻めを行い、長宗我部元親の同盟勢力であった根来衆・雑賀衆を壊滅させます。

この結果、長宗我部家は、完全に孤立状態となります。

長宗我部氏による四国統一(1585年春)

もっとも、四国では敵なしの長宗我部元親は、天正13年(1585年)春、伊予国・湯浅城の河野通直を降伏させて伊予国を平定し、これをもって四国統一を果たします。

羽柴秀吉の四国攻め

羽柴秀吉と長宗我部元親との事前協議

羽柴秀吉は、未だ本州に残る諸勢力の平定に奔走していたのですが、その際に度々背後を脅かしてくる長宗我部元親に対する対応を先行することとします。

羽柴秀吉は、一旦は、長宗我部元親との和睦を模索し交渉を開始したのですが、羽柴秀吉が長宗我部元親に対して讃岐国・伊予国の返還を求めたのに対し、長宗我部元親は伊予国一国の返還との回答をしたため(長元記)、この領土配分問題が解決できずに和睦交渉が決裂します。なお、小早川文書では、一旦、阿波国・讃岐国返還、伊予国・土佐国安堵という条件で和睦が成立したがその後ご破算になったともされているため、正確な交渉経緯は不明です。

羽柴秀吉と長宗我部元親の戦争準備

(1)羽柴軍の準備

和睦交渉が決裂したために解決手段が武力対決によるほかなくなり、羽柴秀吉は、四国に軍を派遣して、軍事力によって長宗我部元親を屈服させるとの決断を下します。

まず、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)5月4日、一柳直末には明石で待機するよう命じた上で、黒田孝高に四国攻めの準備として淡路国に派遣し、その上で羽柴秀長に和泉国・紀伊国の船舶調査をさせた上、出兵準備を命じます。

このとき、羽柴秀吉は、自ら兵を率いて、同年6月3日に四国に向かって出陣する予定としたのですが、越中国の佐々成政がなお健在であったこと、病を得たことなどから、羽柴秀吉自身の出陣は諦めます。

そこで、、弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め、①羽柴本軍が淡路から阿波へ、②宇喜多軍が備前から讃岐へ、③毛利軍が安芸から伊予へ進行するという3方向作戦にて四国へ進軍するという作戦を立案し、3軍に対して四国侵攻を命じます。

(2)長宗我部軍の準備

羽柴軍の動きを見た長宗我部元親は、四国全域から4万人(または2万人)の軍勢を動員し、侵攻が予想される伊予国・讃岐国を中心に軍を振り分けます。

その上で、長宗我部元親自身は、四国4ヶ国の境に位置する阿波国の西端に位置する白地城に本陣を置き、指揮を執ります。

伊予の陣(毛利軍VS金子・河野軍)

毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万~4万人が、一旦、備後国・三原に集まります。

そして、天正13年(1585年)6月下旬、総大将の毛利輝元を備後国・三原に残し、小早川隆景が第一軍を率いて三原・安芸忠海の港を発して今治浦に上陸します。

続いて、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊ら率いる第二軍が、同年7月5日、今治浦(または、新間・新麻・新居浜)に上陸します。

伊予国に上陸した毛利軍が、まず攻撃目標としたのは、石川虎千代が治める高峠城と、長宗我部元親の同盟者であった金子元宅が治める高尾城でした。

同年7月14日には、高尾城の出城であった黒川広隆が守る丸山城を攻略した上(丸山城の戦い)、高尾城を包囲し、同年7月17日には高尾城を落城させます。

そして、高尾城を落とした毛利軍は、続いて高峠城に取りついて、これを攻略します。

その後、新居郡の諸城はことごとく陥落し、金子氏の本拠地であった金子元春の守る金子山城も陥落し、毛利軍が同郡を制圧します。

毛利軍は、金子山城を攻略した後、さらに東進して妻鳥氏が守る宇摩郡川之江の仏殿城を攻撃します。

もっとも、仏殿城を攻撃している間に、長宗我部元親が阿波方面軍の羽柴秀長・羽柴秀次軍に降伏し、南伊予から長宗我部軍が撤退します。

こうして東予二郡を制圧した毛利軍は、進路を西に転じ、周敷・桑村・越智・野間・風早郡を制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直の湯築城を攻略し、桂元綱が喜多郡の諸将を帰順させます。

その後、西園寺公広・大野直昌らが小早川隆景の元に降伏したため、毛利軍による伊予国全域の制圧が完了します。

讃岐の陣(宇喜多軍VS戸波軍)

宇喜多秀家率いる備前国・美作国の兵に加え、播磨国から蜂須賀正勝・黒田孝高・仙石秀久が加わり2万3000人または1万5000人となった讃岐方面軍は、天正13年(1585年)6月、屋島方面から四国に上陸します。

四国に上陸した宇喜多秀家軍は、まず高松頼邑が200人の兵で守る喜岡城(当時の高松城)を攻略し、続いて香西城・牟礼城を陥落させます。

その後、戸波親武の守る植田城(戸田城)の攻略を考えたのですが、同城の守りの堅さを見てとった黒田官兵衛が、時間をかけて同城の攻略をするよりこれを放置して阿波国を攻略する方が得策であると主張したため、淡路から阿波国に入る予定の羽柴秀長軍と合流するため、同軍が上陸予定の阿波国・土佐泊へ向かいます。

阿波の陣(羽柴本軍VS長宗我部本軍)

天正13年(1585年)6月16日、羽柴秀長率いる大和国・和泉国・紀伊国の軍勢3万人が堺から船出して海路で洲本に至ります。

また、羽柴秀次率いる摂津国・近江国・丹波国の軍勢3万人が明石から淡路へ渡り、両軍が福良(現南あわじ市)で合流します。

こうして、大小800余艘・兵数6万人というの大軍が、鳴門海峡を越えて阿波国・土佐泊に上陸し、さらに同地で讃岐方面から四国に上陸していた宇喜多軍と合流します。

そして、これらの軍を率いる羽柴秀長は、まず東条関兵衛が守る木津城に攻撃を仕掛けます。

海と川で守られた木津城の守りは固く、なかなか攻略できませんでしたが、蜂須賀正勝によって水の手を絶つことに成功したため、同年7月8日、羽柴方に下った叔父・東条紀伊守の説得に応じて東条関兵衛が木津城を開城します(敗れた東条関兵衛は土佐へ退いた後、立腹した長宗我部元親によって切腹を命じられています。)。

その後、羽柴秀長は、香宗我部親泰の守る牛岐城・吉田康俊の守る渭山城に攻め寄せますが、いずれも城主が城を捨てて逃亡したため、難なくこれを接収します。

また、羽柴秀長軍の副将・羽柴秀次軍が、宇喜多秀家・黒田官兵衛らと共に、比江山親興の守る岩倉城、長宗我部親吉の守る脇城を相次いで攻略し、長宗我部元親が本陣を置く白地城に迫ります。

さらに、羽柴秀長は、谷忠澄が9000人とも5000人とも言われるの兵で守る一宮城に攻めよせ、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛などによる5万人の兵でこれを包囲して兵糧を絶ち、また城への坑道を掘って水の手をも断ったことにより、谷忠澄が降伏し、7月中旬にこれを落城させます。

この結果、白地城にいる長宗我部元親は、東から羽柴秀長・羽柴秀次軍に、西から毛利軍に挟撃されることとなり、絶体絶命となります

長宗我部元親降伏(1585年8月6日)

一宮城を明け渡して白地城へ戻った谷忠澄は、豊臣軍との長宗我部軍との軍勢・装備・士気の差を示して長宗我部元親に降伏をするよう勧めます(南海治乱記)。

これに対して、長宗我部元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦する、一度も決戦をすることなく降伏などできないと述べて、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒して切腹を命じます(元親記)。

もっとも、谷忠澄のみならずその他の重臣も降伏を強く勧めたため、長宗我部元親も、家中の士気が降伏に傾いている状態では戦いを維持できないと考えるようになり、天正13年(1585年)8月6日までに羽柴秀長の示す停戦条件(羽柴方の仲介者は蜂須賀正勝)を呑んで降伏したます。

羽柴秀吉の四国攻めの後

四国国分(1585年8月)

長宗我部元親の降伏により羽柴秀吉の四国平定が完了し、天正13年(1585年)8月に羽柴秀吉による四国「国分(くにわけ)」が行われます。

敗れた長宗我部元親は、土佐一国20万石のみ安堵とされ、阿波国・讃岐国・伊予国を割譲して豊臣政権下の一地方大名に成り下がり、四国は以下のとおりの国分けがなされます。

(1)土佐国

①土佐を旧領として安堵すること、②「惣領」が以後の合戦に毎回兵3000人を率いて参戦すること、③惣領の弟が人質として大坂城に来ること、④徳川家康との同盟禁止という条件の下、長宗我部元親に安堵。

(2)阿波国

蜂須賀家政に阿波一国を与える(ただし、赤松則房領の住吉1万石と毛利重政領の板東郡内1082石を除く)。

なお、羽柴秀吉は、蜂須賀正勝(小六)に阿波一国約18万石を与えようとしたのですが、蜂須賀正勝がこれを辞退したため、その子息である蜂須賀家政がこれを得ています。

(3)讃岐国

仙石秀久に10万石に加増の上で淡路国5万石より転封とします。

また、讃岐国・十河3万石は、阿波国守護代を世襲した三好氏出身の十河存保に復されました(もっとも、十河孫六郎としての所領とされ、十河存保の三好氏継承は否定されました。)。

(4)伊予国

小早川隆景に伊予一国35万石を与えて独立直臣大名として扱うこととされたのですが、小早川隆景は一旦毛利家に与えられた伊予一国をあらためて主家より拝領するという形をとったため、毛利氏の一武将としての体裁を保っています。

なお、このほか、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊に中予和気郡に3万3000石、村上水軍出身の来島通総に中予風早郡1万4000石、得居通幸に3000石が与えられています。

(5)その他

脇坂安治が津名郡3万石(洲本城)、加藤嘉明が津名・三原郡1万5000石(志知城)に封じられました。

九州征伐の準備

羽柴秀吉の四国攻めに際して、西国の大国・毛利家が、実質上、羽柴秀吉の傘下に下ることとなっています。

また、四国国分により、四国全域にも検地と動員に代表される羽柴政権による近世的統治が始まります。

また、旧世代の中世城郭が破却・整理され、他方で、瀬戸内一帯で播磨国明石城(高山右近)・室津城(小西行長)、淡路国洲本城(脇坂安治)・志知城(加藤嘉明)、阿波国徳島城(蜂須賀家政)、讃岐国聖通寺城(仙石秀久)、伊予国湊山城(小早川隆景)などの織豊系の築城・修築されるなどして九州征伐への準備が進められていきます。

 

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