【津田信澄】謀反人の子ながら織田家一門衆ナンバー5となった織田信長の甥

津田信澄という名前を聞いたことがありますか。

この名を聞いてすぐにピンときた方は相当の歴史通ですね。はっきり言ってマイナー武将です。

ただ、織田信長家臣団の中で相当の位置におり、また織田信長からも重用された武将なのでもっと名が知られてもいいんじゃないかと思っています。

そこで、本稿では、そんなマイナー武将の津田信澄について紹介していきます。

津田信澄の出自

津田信澄(つだのぶずみ)は、織田信長の同母弟である織田信行の嫡男として生まれます。幼名はお坊(坊丸)です。

正確な生年は不明すが、生まれたのは弘治元年(1555年)から元治(1558年)ころと言われ、織田信長の嫡男である織田信忠(津田信澄から見ると従兄弟)と同年代であったと考えられています。

もっとも、津田信澄は実父を知りません。

津田信澄に物心がつく前の弘治3年(1557年)11月2日、津田信澄の父である織田信行が、織田弾正忠家の家督を巡る2度目の謀反の疑いで織田信長によって粛清されたからです。

戦国の常識では、家督を巡る争いが起こった場合には禍根を断つため謀反人の血族男子は皆殺しにされるのが通常であったために謀反人織田信行の嫡男である津田信澄は当然に粛清対象となるはずだったのですが、織田信長は、なぜか織田信行の子らを粛清しませんでした。

織田信長は、他の兄弟とともに津田信澄を柴田勝家に預け、その下で養育させることとします。

成長した津田信澄は、元亀2年(1571年)に織田家に下った旧北近江浅井氏家臣の佐和山城主・磯野員昌の養嗣子となります。もっとも、津田信澄が磯野姓を名乗ったかどうかは不明です。

そして、このとき佐和山城には丹羽長秀が入城し、磯野員昌が近江国高島郡の新庄城に入封されたことから、津田信澄も連れられて高島郡に入りました。

その後、正確な時期は不明ですが、天正2年夏から翌年夏までの間に、津田信澄は元服したと推測されます。

天正3年(1575年)7月、津田信澄は、初陣として、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍します。

また、天正4年(1576年)1月には、丹波・八上城の波多野秀治が織田家から離反した際、黒井城の戦いで苦戦していた明智光秀の援軍として参戦しています。

近江国・大溝城主となる(1579年)

天正5年(1577年)閏7月ころになると、津田信澄が所領の安堵状などを発行していることから、津田信澄が磯野家の実権を握っていてことがうかがえます。

そして、磯野員昌が織田信長の叱責を受けて高野山へ出奔したため、天正6年(1578年)2月3日、その所領であった近江国高島郡が正式に津田信澄に引き継がれます。

そして、このころから津田信澄の名を名乗り始めたようです。

近江国高島郡を得た津田信澄は、織田信長の命を受けて明智光秀の4娘(名前不明)を正室に迎え、織田家中の結束強化に努めます。

さらに、津田信澄は、天正7年(1579年)、義父明智光秀の縄張りによって新たに大溝城を築き、新庄城から大溝城に本拠を移します。

大溝城は、織田家による琵琶湖水運ネットワークの一翼を担う重要拠点であり、織田信長の「安土城」、明智光秀の「坂本城」、羽柴秀吉の「長浜城」とともに、琵琶湖の水上水運を牛耳る拠点とされ、また相互の後詰めを可能とする一大支城ネットワークとしても機能していました。

このことからも、津田信澄がいかに織田家中で重用されていたかがわかります。

織田連枝衆(一門衆)として重用される

津田信澄は、天正6年(1578年)10月から天正7年(1579年)11月までの荒木村重討伐に従軍し、開城した摂津伊丹城に津田信澄が置かれて、荒木村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を負います。

また、10年に亘る石山戦争の終結による天正8年(1580年)8月の石山本願寺からの一向宗退城の際に大坂に下向して検使・矢部家定を警固し、以後大坂に常駐して政務にあたります。

さらに、津田信澄は、天正9年(1581年)2月27日に織田信長によって開催された京都御馬揃えにも参加します。

このとき、津田信澄は、連枝衆(一門衆)の参加者の中でで、織田信長の嫡子織田信忠、織田信雄、織田信長の弟織田信包、信長の庶子の織田信孝に次ぐ5番目に名前が挙がっています。

津田信澄の後ろには、織田信長の弟の織田長増(織田有楽斎)、織田長利が続いていることから、津田信澄が織田家中で織田信長に2度も背いた織田信行の遺児としてはあり得ないほどの破格の待遇を受けていたことがわかります。

その後、津田信澄は、天正9年(1581年)9月の伊賀攻め(第二次天正伊賀の乱)の際にも、従弟・北畠信意(織田信雄)の下で従軍し、鎮圧後の同年10月に織田信長・織田信忠が伊賀国を検分した際にも同行しています。

また、天正10年(1582年)5月7日に、四国の長宗我部元親征伐のための軍の編成がなされた際には、従弟の織田信孝(神戸信孝)を総大将として、その下に丹羽長秀、蜂屋頼隆と共に副将として名を連ねています。

そして、津田信澄は、同年5月21日に安土城で京・堺に向かう徳川家康を接待した後、四国征伐のための準備に入ったところで一大事件が起こります。

津田信澄の最後

天正10年(1582年)6月2日、舅である明智光秀が、謀反を起こして本能寺にいた織田信長と、妙覚寺にいた織田信忠を襲撃し、これを殺害したのです(本能寺の変)。

本能寺の変が発生したことにより、当然に四国征伐は中止となります。

そして、ここで津田信澄に悲劇が襲います。

津田信澄が、謀反人明智光秀の娘婿であったこと、また織田信長に誅殺された織田信行の子であったことから、本能寺の変が明智光秀と津田信澄の共謀により起こったとする噂が蔓延したのです。

実際には、津田信澄が謀反に荷担した様子はなく、また明智光秀に助力しようとした素振りもさえも窺えないのですが、疑心暗鬼に囚われた織田信孝と織田長秀が、同年6月5日、津田信澄のいた大坂城・二の丸千貫櫓を攻撃します。

無実の津田信澄は、必死に防戦したですが力尽き、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られてました。

そして、津田信澄は、謀反人の汚名を着せられたまま、織田信孝の命令で、堺の町外れで晒し首とされます。

謀反人とされたために津田信澄の墓の所在も法名も伝わっておらず、今日では津田信澄が開基となった大善寺で供養墓と慰霊の石碑が建てられて毎年6月5日の命日(信澄忌)に供養が行われその菩提が弔われています。

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