織田長益(おだながます)は、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれた武将であり、織田信長の末弟にあたります。
織田信忠の下について織田家の勢力拡大戦に従軍したのですが軍才はなく、目立った武功は見受けられませんでした。
本能寺の変により織田信長が死亡した後は、織田信雄・豊臣秀吉・豊臣秀頼の臣下となったのですが、そこでも武将としての活躍はほとんどありませんでした。
もっとも、千利休に茶道を学んで利休十哲の一人にも数えられるほどの茶人となり、千利休の死後に自らの茶道流派である有楽流を創始するに至り、長益系織田家嫡流初代として織田家の血を後世に残すことに成功しています。
出家後に有楽(うらく)・如庵(じょあん)と号したことから、織田有楽斎(おだうらくさい)と呼ばれることもあります。
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織田長益の出自
出生(1547年)
織田長益は、天文16年(1547年)、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれます。
織田信秀の子ですので、織田信長の弟にあたります。
通称を源五郎といい、織田信長の13歳年下であったために通説に従うとお市の方と同年生まれということになります。
織田長益の母は、織田信秀の側室のうちの一人と推測されるもその身分の低さから詳しいことは分かっていません。
また、その身分の低さから、織田長益自身の前半生も不明です。
初陣(1561年)
元服をした織田長益は、織田家重臣であった平手政秀の娘であるお清(雲仙院)を室に迎えます。
そして、織田長益は、織田信長による美濃国攻略戦に従軍し、永禄4年(1561年)、その一連の戦いのうちの1つである森部の戦いで初陣を果たしたと言われています。
織田信忠に仕える
織田信忠に付けられる(1572年)
元亀3年(1572年)、織田信長の長男である織田信忠が元服すると、織田長益は、叔父と言う立場で織田信忠の配下に付けられます。
尾張国知多郡を与えられる(1574年)
天正2年(1574年)に尾張国知多郡を領していた佐治信方が長島一向一揆との戦いで戦死したのですが、その跡継ぎであった佐治一成が幼少だったため、織田長益に尾張国知多郡が与えられます。
そのため、織田長益は、一旦は大野城(現在の愛知県常滑市金山)に入ったのですが、大野城は水利が悪いため、大草城(現在の愛知県知多市大草東屋敷)を改修して同城に入城します。
織田一門衆上位に列せられる
天正9年(1581年)2月28日に行われた京都御馬揃えでは、一門衆で織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝・津田信澄に続く第6位に列せられています。
また、天正10年(1582年)に行われた左義長では、織田信忠・織田信雄・織田長益の順となっており、織田長益が織田一門衆の中でも相当上位に位置付けられていたことがわかります。
甲州征伐(1582年)
その後、織田長益は、天正10年(1582年)に始まった甲州征伐においても織田信忠の指揮下で行動し、木曽口から鳥居峠に侵攻し、木曽勢に助力して鳥居峠の攻略に貢献します。
また、その後に降伏した深志城の受取役を務めるなどしています。
さらに、上野国にも侵攻し、森長可・団忠正らと共に小幡氏を降伏させています。
本能寺の変(1582年6月2日)
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により織田信長が殺害されるという本能寺の変が起こったのですが、その際、織田長益は、主君である織田信忠とともに妙覚寺にいました。
織田信忠は、明智光秀謀反の報を聞き、織田長益らと共に手勢を引き連れて本能寺に向かったのですが、途中で本能寺からやってきた使者から本能寺が落ちたことを知らされます。
この報告を聞いた織田信忠は、織田長益らと共に二条城に入って籠城し、攻撃して来る明智軍と激戦を繰り広げます。
もっとも、多勢に無勢であったために織田信忠軍に勝ち目はありませんでした。
後世の編纂書では、このとき敗北を悟った織田長益が織田信忠に切腹を勧めたと記載されているものもありますが(義残後覚・明良洪範など)、その真偽は不明です。
いずれにせよ、織田信忠は二条城で切腹して果てたのですが、織田長益は二条城を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされています。
なお、主君に切腹を勧めておきながら自分は逃亡したとされる織田長益に対し、京の人々は、「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉ったと伝えられています。
織田信雄に仕える
織田信雄に仕える
織田信忠の横死により主を失った織田長益は、その後、織田信忠の弟である織田信雄(織田長益の甥)に仕えます。
小牧・長久手の戦い
そこで、小牧・長久手の戦いの際には織田信雄方として参戦し、蟹江城合戦では大野城の山口重政救援・下市場城攻略戦に従軍し、蟹江城に篭っていた羽柴方の滝川一益の降伏を仲介したりしています。
また、その後、徳川家康と羽柴秀吉との講和交渉に際し、両者の折衝役を務めています。
さらに、天正13年(1585年)11月には、滝川雄利・土方雄久と共に徳川家康の下に赴き、上洛を促すなどしています。
千利休の門弟となる
天正16年(1588年)、織田長益は、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されます。
そして、このころ、織田長益は千利休の門弟となります(武野紹鴎を師としたという伝承もあります。)。
この後に織田長益が目指した茶道は、「客を饗なす」ことを重んじ、ついで古人に倣って研鑽する中から創意工夫を生むことを良しとするものでした。
淀殿の後見役を務める(1588年)
織田長益は、天正16年(1588年)頃、千利休の門弟となった縁で豊臣秀吉に接近するようになり、豊臣秀吉の側室となっていた姪である淀殿の庇護者として立ち回るようにもなっていきます。
そして、織田長益は、天正17年(1589年 )5月27日に淀殿が鶴松を出産する際、そのお産にも立ち会うほどの淀殿の信頼を獲得します。
そして、この淀殿の信頼が、豊臣秀吉への接近を加速します。
織田信雄改易(1590年)
天正18年(1590年)に、転封を拒否した織田信雄が改易されたことにより、織田長益はまたも主を失います。
豊臣秀吉の御伽衆となる
豊臣秀吉の御伽衆となる
織田信雄の改易により主を失った織田長益に対し、豊臣秀吉から声が掛かり、織田長益は御伽衆の立場で豊臣秀吉に仕えることとなります。
このとき、豊臣秀吉が、織田長益を御伽衆に加えた理由は、千利休の弟子であるという文化的素養を評価したという理由に加え、織田信長の弟である織田長益を侍らせることで自らの地位がいかに高いものとなっているかを世に知らしめる目的があったと考えられます。
豊臣秀吉の御伽衆となった織田長益は、豊臣秀吉から摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2000石を与えられてこれを領します。
織田有楽斎と称する
織田長益は、豊臣秀吉の御伽衆となった頃に剃髪し、有楽と称します。
大坂城で淀殿を支える
徳川家康に接近する
慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、大坂城に入った前田利家と伏見城に入った徳川家康とが対立したのですが、織田有楽斎は、伏見の徳川邸に駆けつけてその警護をするなどして徳川家康に接近していきます。
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)
織田有楽斎は、慶長5年(1600年)9月15日勃発した関ヶ原の戦いの本戦では東軍として参戦し、庶長子である織田長孝とともに450人の兵を率いて笹尾山方面にて徳川家康の面前に布陣します。
そして、関ケ原の戦いが始まると、織田隊は、寡兵ながらも西軍の小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊との戦闘を繰り返し、一時は本多忠勝の指揮下に入って石田隊の横撃部隊を撃退するなどしています。
このとき、織田長孝が戸田重政・内記親子の、織田有楽斎が石田家臣であった蒲生頼郷を討ち取る武功を挙げています。
なお、織田有楽斎の武功については本人のものではなく、石田隊が壊滅した際に蒲生頼郷が織田有楽斎を道連れにしようとしたところ、織田有楽斎の家臣団あった千賀兄弟が返り討ちにした上で首を織田有楽斎に取らせることによって織田有楽斎の武功としたとも伝えられています(慶長見聞書)。
大名に列せられる(1600年)
関ケ原の戦いでの功により、織田有楽斎は、大和国内2万7000石を与えられて大名に列せられ、摂津味舌藩を立藩して初代藩主となります。
また、このとき庶長子として同戦いに参戦した織田長孝もまた美濃野村に1万石を与えられて大名に取り立てられ、野村藩を立藩して事実上の分家を果たしています。
大坂城に残る
関ヶ原の戦いの際に徳川家康方(東軍)に与した織田有楽斎でしたが、所領となった大和国が大坂城に近かったこと、事実上の大坂城主であった淀殿と近しい関係にあったことなどから、関ヶ原の戦いの後も豊臣家に出仕を続け、淀殿の補佐を継続します。
もっとも、関ヶ原の戦いの後の織田有楽斎については、豊臣家へ出仕していたわけではなく徳川家康のスパイとして活動していたとの説もあり、その立ち位置は不明です。
大阪冬の陣(1614年11月)
大坂城において淀殿の叔父として重用された織田有楽斎は、豊臣家を支える中心的な役割を担う1人として活動するようになります。
その後、豊臣家と徳川家との間に戦いの機運が高まっていくと、織田有楽斎は、大野治長らとともに穏健派として戦闘回避に動きます。
他方、織田有楽斎の嫡男である織田頼長は、片桐且元殺害を計画して織田信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなどして強硬派として主戦論を展開し、慶長19年(1614年)11月に大坂冬の陣が始まると北川宣勝・井上時利らと共に谷町口の防衛を担当するなどしています。
一連の戦闘の後、同年12月3日、豊臣方の織田有楽斎・大野治長と、徳川方の本多正純・後藤光次との間で講和についての話し合いが行われ、同年12月20日に成立し大坂冬の陣が終わります。
大坂城退城
その後、元和元年(1615年)4月頃に再び豊臣・徳川間で戦いの機運が高まっていったのですが、大坂城を取り仕切っていた織田有楽斎や大野治長に対し、織田有楽斎の子である織田頼長が自らを豊臣方の総大将にしてこれと対峙するよう申し出てきます。
当然ですが、大坂冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く何らの武功を挙げることもなかった織田頼長を総大将とすることなどできようはずもありません。
諸将の猛反発にあった織田頼長はプライドを傷つけられた大坂城から出奔します。
嫡男の出奔と前後して、織田有楽斎もまた大坂城から退去します。
織田長益の最期
京で隠棲する
大坂城から退去した織田有楽斎は、京に上り、建仁寺で隠棲することとします。
そこで、織田有楽斎は、建仁寺正伝院を再興して隠居所とし、そこで茶の湯に専念する生活を始めます(なお、このとき織田有楽斎が建築した茶室・如庵は、国宝に指定された後、愛知県犬山市名鉄犬山ホテル内の有楽苑に移築されています。)。
そして、織田有楽斎は、元和元年(1615年)8月、領していた大和国3万石につき、1万石を自らの隠居料(養老領)として残した上で、残る2万石のうち、1万石を四男である織田長政(戒重藩立藩、後の芝村藩)に、残りの1万石を五男である織田尚長(柳本藩立藩)にそれぞれ分け与えます。
なお、織田有楽斎は、嫡男(次男)である織田頼長には養老料を引き継がせようとしていたと考えられ、織田頼長には所領を配分しませんでした。
嫡男・織田頼長の死(1620年9月20日)
また、織田有楽斎の嫡男(次男)であった織田頼長もまた、大坂城を出た後に、父と同様に京で隠遁し、「道八」と号して茶の湯に専念します。
もっとも、織田頼長は、元和6年(1620年)9月20日、39歳の若さで父である織田有楽斎に先立って死去しています。
織田有楽斎は、織田頼長を後継者と考えていたため、以降、その遺児である織田長好を引き取って嫡孫扱いとしたのですが江戸幕府に対して相続者としての届出をしていませんでした。
織田有楽斎の最期(1621年12月13日)
そして、織田有楽斎は、元和7年12月13日(1622年1月24日)、京で死去します。享年は75歳でした。
織田有楽斎の死去に伴い、その所領(隠居料地)であった養老領1万石を織田長好に引き継ごうとしたのですが、織田長好が嫡孫として届け出られていなかったため認められず、江戸幕府に没収されてしまいます。
その結果、織田長好は大名として復帰も幕府への正規の召し抱えも果たすことができず、無念のままその30年後の慶安4年(1651年)に子を残すことなく死去しています。