【織田信行(織田信勝)】織田信長に2度謀反を起こし敗れた同母弟

織田信長の初期のライバルであった織田信行。

品行方正で優しい性格の同母弟は、1度目は従来の家臣団に担がれたことにより、また2度目は新たな家臣団に唆されたことにより、2度に亘って織田信長に謀反を試みて失敗し粛清されています。

本稿では、そんな織田信行の失敗人生について見ていきましょう。

織田信行謀反に至る経緯

織田弾正忠家・織田信秀の躍進

織田信行が生まれた当時の尾張国は、当時名目だけの守護斯波氏がおり、その下で、上4郡(葉栗郡・庭郡・中島郡・春日井郡)は守護代・岩倉織田家、下4郡(愛智郡・海東郡・海西郡・智多郡)は守護代・清洲織田家がそれぞれ支配している状況でした。

織田信行の生家の織田弾正忠家は、前記尾張守護代で、尾張国下4郡を治める清洲織田家のさらに家臣でした(清洲織田家の重臣である清洲三奉行【織田因幡守・織田藤左衛門・織田信秀】のうちの1家です。)。

もっとも、織田信行の生家は、その祖父である織田信定の代から、伊勢湾の港湾商業都市だった津島を押さえて商人や職人集団を支配下に収めるなどして力をつけ、織田信長の父である織田信秀の代には、尾張国海東郡にあった勝幡城を本拠とし、戦上手と巧みな立ち回りで、清洲織田家の支援を受けて今川家(今川氏豊)から那古屋城を獲得するなどして、勢力拡大を続けていました。

織田弾正忠家が織田信秀と織田信長の二元体制となる(1549年ころ)

織田弾正忠家当主の織田信秀は、天文18年(1549年)ころから、嫡男である那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城主・織田信秀と那古野城主の織田信長が二元体制で織田弾正忠家の政務を行うようになります。

織田信秀は、織田弾正忠家の嫡男として織田信長以外は考えていませんでした。

その理由としては、嫡男以外の子が家を継ぐと家督を巡って争いになり家が滅ぶこともあることもありましたが、まだ幼いころから織田信長の才を買っていたということも大きかったと言えます。

「うつけ」と呼ばれる不良として蔑まれ、家中においても陰で悪口を言われ続けていた織田信長の才を見抜いているとはさすがやり手の父親です。

織田弾正忠家が織田信長と織田信行の二元体制となる(1551年ころ)

織田信秀は、天文20年(1551年)前半頃ころから病床に伏すようになります。

そのため、織田信秀とともに末森城にいた織田信行が、末森城主代行として織田信秀に代わって政務を担当するようになり、以降、織田弾正忠家の政務を、織田信長と織田信行との二元体制で行うようになります。なお、同年9月20日、織田信行は、織田信秀と織田信長の「先判の旨」に拠りながらも、熱田神宮座主に対して自ら判物を発給してその権益を保証しています(これが史料における織田信行の初見です。)。

織田信秀には、20人を超える子がいたのですが、家督相続権を有する正室(継室)土田御前の子の、第1子が織田信長で、第2子が織田信行(生年・幼名不明)であったため織田信行はこのような重要な立場を任されたのです。なお、織田信行は、勘十郎・信勝・達成・信成とも言われるところ、信長公記では一貫して勘十郎という通称で記され、同時代の信頼性の高い資料でも信行という名は確認できておらず、この時代に織田信行の名が使用されていたかは必ずしも明らかではありませんが、本稿では便宜上、織田信行の名で統一します。

織田信秀の死去(1551年3月3日)

天文20年(1551年)3月3日、織田弾正忠家当主・織田信秀が42歳の若さで死去します。

このとき、織田弾正忠家に動揺が走ります。

織田弾正忠家を、地元のヤンキー的な扱いをされていた「うつけ」で評判の織田信長が継ぐこととなったからです。

後世の立場で織田信長の活躍を知っている我々からすれば、型にはまらない織田信長だから良かったではないかと考えがちですが、血で血を洗う争いを続けていた当時このようなうつけが当主となると考えると臣下としては不安でたまらなかったことは容易に想像できます。

現代風に言えば、創業社長のカリスマ性で運営されている会社において、その創業社長が急死したためにプラプラ遊び歩いている馬鹿息子が2代目社長を継ぐこととなった際の従業員の心情を想像すると、その不安の程度がわかるのではないでしょうか。

また、この家中の不安は、織田信秀の葬儀でさらに増大します。

織田信長が、織田信秀の葬儀の際に、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き髪を茶筅髷に巻き立てて袴も履かない出で立ちで仏前に出て抹香を投げつけるというという奇行をしたからです。

他方で、その弟である織田信行が、折目正しい肩衣・袴を着用し、礼に則った所作で見事に振る舞ったため、その対比が際立ったためです。

織田弾正忠家の家督相続

そして、織田弾正忠家の家督は織田信長が継いだのですが、それは家中の全てが織田信長の下に集まったというものではなく、所領については西部を織田信長が、東部を織田信行が承継することとなりました。

また、織田信秀が居城としていた末森城はそのまま織田信行が承継し、織田信行には柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら、織田弾正忠家の重臣が付されたため、織田信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有します。

織田信行は、織田信秀死亡後しばらくの間は、謀反の意思を持つことなく織田信長に協力的に領国経営を行っていました。

天文21年(1552年)4月に山口教継が謀反を起こした際には成果は上がらなかったもののその鎮圧に協力し、また天文22年(1553年)7月には織田信行の家臣であった柴田勝家が、織田信長と敵対する織田大和守家と戦うなどしています。

織田弾正忠家が二分される

ところが、織田弾正忠家の家臣団の中は、当主はうつけの織田信長ではなく品行方正な織田信行がふさわしいと考えるものが多数いました。

その筆頭格は、林秀貞と後の織田信長家臣団筆頭家老として大活躍する柴田勝家です。

また、織田信長・織田信行の母である土田御前も同意見でした。

これらの反織田信長勢力に担ぎ上げられ、織田信行自身もだんだんと反織田信長に傾いていきます。

そして、天文22年(1553年)10月ころになると、織田信行は織田信長の関与なしで独自に判物を発給をし始め、このころから商業地である熱田の権益を巡って織田信長と織田信行が諍いをはじめます。

また、織田信行は、天文23年(1554年)ころになると、織田信長よりも正当性を持つということを示すため、織田信長と織田信光により滅ぼされた守護代・織田大和守家の役割を代行する意思を表明して織田大和守家の当主の通字である「達」の字を用いた達成に改名をしています。

織田信行1回目の謀反(1556年8月)

兄弟間の諍いが大きくなっていく中、弘治2年(1556年)4月、織田信長の岳父であった美濃国の斎藤道三が、嫡男斎藤義龍との戦いにて敗れて死去するという事件が起きます(長良川の戦い)。

また、尾張国上4郡を治める守護代家である岩倉織田家が反織田信長の立場に立ったことから、織田信長は苦しい立場に追い込まれます。

そして、とうとう、この苦しい状況下では、織田信長では織田弾正忠家をまとめられないと考えた宿老の林秀貞とその弟林美作守(通具)、柴田勝家らが、織田信長を排除し、織田信行に織田弾正忠家の家督を継がせようと行動を開始します。

そして、織田信行自身も織田弾正忠家代々の名乗りである弾正忠を自称し、織田信長の直轄領である篠木三郷を押領して砦を構えるなどして、織田信長に反抗の意思を示しました。

この織田信行の動きに対して、織田信長も動きます。

 

弘治2年(1556年) 8月22日、織田信長は、佐久間盛重に命じて名塚に砦を築かせます。

これに対し、織田信行方の柴田勝家らが、名塚砦に攻撃を仕掛けたため、織田信長が清洲から軍を出してこれを迎え撃つという形で、同年8月24日、両軍が稲生原で相まみえます(稲生の戦い)。

織田信長軍は馬廻り700人、織田信行軍は1500人という兵力差のある戦いでした。

もっとも、森可成らの奮闘もあり、稲生の戦いは、林美作守が討ち死にし、織田信行と柴田勝家は逃走して、織田信長の大勝利に終わります。

敗れた織田信行が末森城に籠城したため、織田信長はこれを追って末森城に攻め寄せて城下を焼き払い攻城戦に突入しようとしたのですが、ここで生母土田御前のとりなしにより織田信行は助命され、林秀貞・柴田勝家と共に放免されました。

この稲生の戦いにおける敗北により織田信行は勢力を大きく減退させ、以降「弾正忠」を名乗ることもなくなり、名も「武蔵守信成」と改名します。

織田信行2回目の謀反

稲生の戦いで力を見せたことにより、織田信秀以来の重臣たちが織田信行の下を離れて織田信長に忠義を尽くすようになっていきます。

父から引き継いだ家臣を失った織田信行は、その代わりとして若い家臣団を抜擢します。

その筆頭が津々木蔵人でした。

津々木蔵人は、織田信行の若衆(男色)であったのですが、若い家臣の台頭により、旧来からの重臣である柴田勝家と並ぶ地位にまで成り上がります。

そればかりか、津々木蔵人は、さらに織田信行臣下の主な者が自身の下に付けられるようになると、増長して次第に柴田勝家を侮るようになりました。

そして、増長した津々木蔵人は、こともあろうに織田信行に対して、再度再び篠木三郷を押領した上で織田信長に反旗を翻すよう唆します。

織田信行は、この津々木蔵人の讒言もあって、永禄元年(1558年)3月に居住する竜泉寺を城に改造し、尾張上四郡の岩倉織田家の織田信安と共謀するなどして再度織田信長への謀反を企みます。

柴田勝家は、津々木蔵人らを重用し、織田信秀以来の重臣達を蔑ろにする織田信行に見切りをつけます。

そして、柴田勝家は、織田信長の下へ赴き、織田信行に再度の謀反ありと告げるのです。

一度の謀反は許した織田信長ですが、再度の謀反を見逃せば家中に示しがつかないと判断し、ついに織田信行を粛清することに決めます。

そして、織田信長は、柴田勝家に対して、織田信長が病に伏してため織田信行に見舞いに来るよう仕向けさせることを命じます。

そして、この話にまんまと騙された織田信行は、弘治3年(1557年)11月2日、織田信長の見舞いのために清洲城の北櫓・天主次の間を訪れたところ、織田信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されでしまいました。

織田弾正忠家は、この織田信行の死により、織田信長の下に一本化されるに至り、尾張国を統一した上で、その後の勢力拡大に向かいます。

なお、余談ですが、織田信行の子の坊丸(後の津田信澄)は助命された後柴田勝家の下で養育され、元服後は織田信長の下で連枝衆(一門衆)として活躍しています。

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