日本で一番出世した男・豊臣秀吉の最初の城として有名な長浜城。
有名な城であるにも関わらず、今となっては、遺構を僅かに残すのみで、往時の姿は想像するしかありません。
長浜城築城
長浜の立地
長浜は、元々の名称は今浜といい、湖北平野の要の位置にあり、水上交通の要衝である朝妻湊(今浜港)と琵琶湖北岸の塩津浜をおさえ、かつ陸上交通路でたる北国街道をも取り込んでしまう要衝の地でした。
この今浜の地には、室町時代初期(建武3年/1336年ころ?)に、バサラ大名として有名な佐々木道誉(佐々木高氏・京極道誉)が築いた出城が築かれ、その後、家臣の今浜氏、上坂氏が守将として在城したとも言われています。
長浜城築城(1575年秋ころ)
その後、1573年(天正元年)に、豊臣秀吉(このときは、木下秀吉と名乗っていましたが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)が、浅井家重臣の調略や小谷城攻めの功によって、織田信長から浅井氏の旧領湖北3郡(坂田・東浅井・伊香)12万石と小谷城を与えられました(織田家としては2人目の城付知行)。
小谷城と湖北3郡を与えられた豊臣秀吉は、天正2年(1574年)、織田信長から交通の不便な小谷城を廃して新城を築城するよう命じられたため、交通の要衝地である今浜城跡地に選地をし、新城の築城を開始します。
そして、廃城とする小谷城や小谷城を囲んでいた出城の資材、浅井長政が竹生島神社に預けていた木材を流用するなどして天正3年(1575年)秋頃に新城を完成し、同城に豊臣秀吉が入城します。
なお、新城築城に際して城下町も小谷から長浜に移すこととなったのですが、豊臣秀吉は、このときに、織田信長の「長」の字を貰って、地名・城名を今浜から「長浜」に改めています。
また、新城の名称も「長浜城」と名付け、織田家による琵琶湖水運ネットワークの一翼を担う重要拠点として、織田信長の「安土城」、明智光秀の「坂本城」、津田信澄の「大溝城」とともに、琵琶湖の水上水運を牛耳る拠点となり、また相互の後詰めを可能とする一大支城ネットワークとしても機能することとなります。
なお、長浜城の約4km北東には鉄砲の里で名高い近江国・国友(現在の滋賀県長浜市国友町)があり、新城により国友を押さえたことによる織田方の戦略的効果は絶大でした。
秀吉後の長浜城
長浜城は、豊臣秀吉による築城後、天正10年(1582年)まで、豊臣秀吉の居城として使われます。
その後、天正10年(1582年)6月27日、本能寺の変の後に織田家重臣にて行われた清洲会議の結果として柴田勝家が北近江の支配権を獲得したため、長浜城には、柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城します。
ところが、同年末に豊臣秀吉と柴田勝家が対立し、豊臣秀吉の攻撃を受けて長浜城は陥落し、再び豊臣秀吉が長浜城を接収しています。
その後、豊臣秀吉が柴田勝家との最前線基地として再び長浜城を使用したのですが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いとそれに続く北ノ庄城で柴田勝家が死亡したため、役目を終えた長浜城は、天正13年(1585年)閏8月22日に2万石と共に山内一豊に与えられます。
なお、山内一豊は、天正18年(1590年)8月に遠江国掛川城主となって転封したため、その後は寺西直次・米津清右衛門・豊島佐右衛門らが長浜代官を務めて長浜城を預かります。
その後、慶長11年(1606年)4月、大坂城包囲網の一環として内藤信成(徳川家康の異母弟)が4万石を与えられて長浜藩を立藩して長浜城に入ったのですが(寛政重修諸家譜)、元和元年(1615年)閏4月、その子内藤信正の代に内藤氏が摂津高槻城に転封となります。
長浜城の縄張り
長浜城は、その遺構のほとんどが失われているため、全体の縄張りや詳細な城郭構造については必ずしも明らかではありません。
もっとも、これまで行われた部分的な発掘調査により、石垣、堀立柱建物跡、礎石建物跡、船着場らしき石組遺構等が発見されており、往時の長浜城は、琵琶湖に面して本丸を置き、本丸の南北にそれぞれ堀で囲繞された北曲輪・南曲輪を配して主郭部とする梯郭式平城(湖城)であったと考えられています。
以下、現時点で明らかとなっている範囲において長浜城の遺構を紹介します。
城門
(1)大手門
長浜城の大手門は、上記図に加筆した位置にあったとされ現在もその跡碑が残っています。
大手門自体は、滋賀県長浜市内にある大通寺の台所門として移築されたと伝えられており、同門は現存するため、今でも矢尻の跡を見ることができます。
(2)搦手門
また、長浜城の搦手門は、同市内にある知善院の表門として移築されたと伝えられており、同門も現存しています。
掘
(1)外堀
(2)内堀
櫓
前記のとおり、長浜城の資材は彦根城築城時に転用され、現存する彦根城の天秤櫓や三重の隅櫓は、長浜城から移築したものと伝えられています。
本丸
本丸・二の丸跡であった豊公園の発掘調査により石垣の根石や石列が出土したため、本丸(天守台南側)には、一部であるが天守台付近から出土した石材で石垣が組まれていることが明らかとなっています。
そのため、豊公園付近が、城域の中心部であったと推定されています。
天守
天守については、推定するための信頼できる資料が存在していないため、残念ながら往時の姿をしのぶことはできません。
現在建つ天守は、昭和58年(1983年)に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、往時のものではありません。また、おそらく当時の天守があった場所とは違う場所に建っています。
模擬天守は、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
その他
(1)石垣
(2)馬屋
(3)太閤井戸
長浜城廃城(1615年)
大坂城包囲網の一端を担っていた長浜城ですが、大坂夏の陣により豊臣家が滅亡したため、その役割を終えます。
そこで、元和の一国一城令により、元和元年(1615年)に長浜城は廃城とされます。
そして、このときに撤去に際し、長浜城の建築物・資材の多くは、彦根藩の本拠となる彦根城や周囲の寺院に移築されたため長浜城の遺構の多くが失われました。