【長浜城】天下人豊臣秀吉の最初の城

日本で一番出世した男・豊臣秀吉の最初の城として有名な長浜城。

有名な城であるにも関わらず、今となっては、遺構を僅かに残すのみで、往時の姿は想像するしかありません。

長浜築城に至る経緯

長浜城は、元々は今浜城といい、室町時代初期に、バサラ大名として有名な佐々木道誉(佐々木高氏・京極道誉)が築いた出城に始まり、その後、家臣の今浜氏、上坂氏が守将として在城したと言われていますが、詳しいことはよくわかっていません。

その後、1573年(天正元年)に、豊臣秀吉(このときは、木下秀吉と名乗っていましたが、本稿では豊臣秀吉で統一します。)が、浅井家重臣の調略や小谷城攻めの功によって、織田信長から浅井氏の旧領湖北3郡(坂田・東浅井・伊香)12万石と小谷城を与えられました。

初めて城(小谷城)を得た豊臣秀吉でしたが、翌天正2年(1574年)、織田信長が交通の不便な小谷城を廃するよう命じられます。

代わりに、湖北平野の要の位置にあり、水上交通の要衝である朝妻湊(今浜港)と琵琶湖北岸の塩津浜をおさえ、かつ陸上交通路でたる北国街道をも取り込んでしまう要衝の地であった今浜城跡地に新城を築くことを命じられます。

この結果、豊臣秀吉は、初めて得た城を早々に移転することとなり、当然に城下町も小谷から長浜に移します。なお、このときに、織田信長の「長」の字を貰って、地名・城名を今浜から「長浜」に改めました。

そして、新城は、廃城とする小谷城や小谷城を囲んでいた出城の資材、浅井長政が竹生島神社に預けていた木材を流用して、築城開始から僅か2〜3年後の天正3年秋頃に完成したと言われています。

この新城は、長浜城と名付けられ、織田家による琵琶湖水運ネットワークの一翼を担う重要拠点として、織田信長の「安土城」、明智光秀の「坂本城」、津田信澄の「大溝城」とともに、琵琶湖の水上水運を牛耳る拠点となり、また相互の後詰めを可能とする一大支城ネットワークとしても機能していました。

また、長浜城の約4km北東には鉄砲の里で名高い近江国・国友(現在の滋賀県長浜市国友町)があり、新城により国友を押さえたことによる織田方の戦略的効果は絶大でした。

 

豊臣秀吉による長浜城築城とその縄張り

長浜城は、元和元年(1615年)に廃城とされ、それに伴って長浜城の資材の大半は彦根城や周囲の寺院に流用され、また長浜城自体もその一部が琵琶湖に水没したためにそのほとんどが失われています(琵琶湖湖底遺跡)。

これまでの発掘調査により、石垣、堀立柱建物跡、礎石建物跡、船着場らしき石組遺構等が発見されており、往時の長浜城は、琵琶湖に面して本丸を置き、本丸の南北にそれぞれ堀で囲繞された北曲輪・南曲輪を配して主郭部とする梯郭式平城(湖城)であったと考えられていまが、行われた調査自体が部分的な物に過ぎず、長浜城全体の縄張りや細部の構造については未だ解明されていません。

以下、現時点で明らかとなっている範囲において長浜城の遺構を紹介します。

城門

(1)大手門

長浜城の大手門は、上記図に加筆した位置にあったとされ現在もその跡碑が残っています。

大手門自体は、滋賀県長浜市内にある大通寺の台所門として移築されたと伝えられており、同門は現存するため、今でも矢尻の跡を見ることができます。

(2)搦手門

また、長浜城の搦手門は、同市内にある知善院の表門として移築されたと伝えられており、同門も現存しています。

(1)外堀

(2)内堀

前記のとおり、長浜城の資材は彦根城築城時に転用され、現存する彦根城の天秤櫓や三重の隅櫓は、長浜城から移築したものと伝えられています。

本丸

本丸・二の丸跡であった豊公園の発掘調査により石垣の根石や石列が出土したため、本丸(天守台南側)には、一部であるが天守台付近から出土した石材で石垣が組まれていることが明らかとなっています。

そのため、豊公園付近が、城域の中心部であったと推定されています。

天守

天守については、推定するための信頼できる資料が存在していないため、残念ながら往時の姿をしのぶことはできません。

現在建つ天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、往時のものではありません。また、おそらく当時の天守があった場所とは違う場所に建っています。

模擬天守は、市立長浜城歴史博物館として運営されています。

その他

(1)石垣

(2)馬屋

(3)太閤井戸

長浜城廃城に至る歴史

前記のとおり、長浜城は、豊臣秀吉が長浜に城を築いてから天正10年(1582年)まで、豊臣秀吉の居城として使われました。

その後、天正10年(1582年)、本能寺の変の後に織田家重臣にて行われた清洲会議の結果、柴田勝家が長浜の支配権を獲得したため、長浜城には、柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城します。

もっとも、同年末、豊臣秀吉と柴田勝家が対立し、豊臣秀吉が長浜城を攻めて柴田勝豊を降伏させて、長浜城を再接収しています。

天正11年(1583年)に発生した賤ヶ岳の戦い後、天正13年(1585年)から山内一豊が長浜城に入り6年間在城しました。

その後、慶長11年(1606年)に内藤信成が城主になりましたが(長浜藩)、その子内藤信正の代に内藤氏が摂津高槻城に移封され、元和元年(1615年)、長浜城は廃城となりました。

そして、このときに長浜城の建築物・資材の多くが彦根城に移築されたため、長浜城の遺構の多くが失われました。

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