高槻城は、現在の大阪府高槻市のほぼ中央に位置する芥川の扇状地に築かれた平城です。
京都と大阪の中間にあり、南の淀川と北の西国街道とに挟まれた水陸の要衝でもあるというその立地の重要性から、西国大名に対する抑えとして天下普請によって本格的な大城郭として整備されました。
もっとも、明治期に鉄道敷設のためにそのほとんどが破却され現存していないため、歴史に埋もれてしまっています。
本稿では、そんな高槻城の歴史を振り返ります。
【目次(タップ可)】
高槻城築城・改修の経緯
入江氏の高槻城(14世紀前半)
高槻城の築城時期は明らかではありません。
高槻城の存在が記録上明らかとなっているのは、14世期前半、この地の豪族であった入江左近将監春則が居館としていたとされたところからです。
天文22年(1553年)に三好長慶が芥川山城に入城した際には、高槻城は芥川山城の支城として扱われ、入江春継が城主を務めていたことがわかっています。
永禄7年(1564年)に三好長慶が亡くなった後は三好三人衆の1人三好長逸がこの地域一帯を治めます。
その後、永禄11年(1568年)9月28日に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、その勢いで摂津に侵攻して勝竜寺城の戦い・同年9月30日の芥川山城の戦いでこれらの城を攻略すると、芥川山城の支城である高槻城も無血開城に近い形で織田信長に降伏しています。
和田惟政・惟長の高槻城(1569年)
織田信長は、芥川山城攻略戦に活躍した和田惟政に芥川山城を与え、また永禄12年(1569年)には高槻城も与えました。
これらの城を得た和田惟政は、山城である芥川山城ではなく、平城である高槻城を居城とすることに決め、本拠にふさわしい近代城郭とすべく高槻城の大改築をはじめます。
和田惟政は、高槻城に堀を巡らし天守を建築したとされ、また宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたとされています。
その後、和田惟政が元亀2年(1571年)白井河原の戦いで戦死すると、その子和田惟長が後を継ぎますが、和田惟長も天正元年(1573年)に家臣の高山飛騨守・高山右近親子によって城を追われ高槻城を失っています。
高山右近の高槻城(1573年)
高槻城を得た高山右近は、高槻城を改修・拡大します。
具体的には、大規模な外堀を造成するとともに城壁を築いて町屋を取り囲み近代城郭を整えていきます。また、キリシタンでもあった高山右近は、天正4年(1576年)に三の丸に天守教会堂を建立し、城下に神学校も建てています。
高山右近は、天正9年(1581年)にイタリアの巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを招いて壮大な復活祭を行うなど、積極的なキリスト教の布教を進めたため、高槻城下にキリシタン文化が花開いています。
その後、天正13年(1585年)に高山右近が船上城へ転封となって高槻城が豊臣秀吉の直轄地となった後(その後、豊臣家の代官や新庄直頼が城主となっています。)、関ヶ原の戦い後は徳川家康の直轄地となります(徳川家の代官や青山忠成が城主となっています。)。
土岐定義の高槻城(1617年)
高槻城は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣において補給基地として使用されたのですが、大坂の陣で豊臣家が滅んで西国の安全が確保されたため、高槻城を徳川家の直轄地とする扱いが廃されて、元和元年(1615年)6月に近江国長浜城から内藤信正が入封して城主となります。
そして、元和3年(1617年)、土岐定義が高槻城に入封すると、京都と大阪の中間にあり、南の淀川と北の西国街道とに挟まれた水陸の要衝でもあるというその立地の重要性から、西国大名に対する抑えとして天下普請による本格的な改築(三層天守の建築、高石垣や土塁の整備など)が行われます。
岡部宣勝の高槻城(1636年)
次いで、元和5年(1619年)の松平家信を経て、寛永13年(1636年)に岸和田城から岡部宣勝が高槻に入封します。
岡部宣勝は、高槻城の西部に大規模な出丸を増築し高槻城は完成をみます。
永井氏の高槻城(1649年)
その後、寛永17年(1640年)の松平康信を経て、慶安2年(1649年)に永井直清が、山城長岡藩・勝竜寺城から移ってきて3万6000石にて入封し高槻城主となります。
永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注ぎます。
そして、以後、永井氏が13代・約230年にわたって摂津高槻藩主として高槻城主を務め幕末に至ります。
明治維新後の高槻城
高槻城は、明治4年(1871年)7月に廃藩置県により廃城となり、その後明治7年(1874年)に東海道線が敷設される際に石垣や木材などがその資材にあてられたため、かつての城郭を残す遺構は散逸してしまいました。
そして、高槻城跡地には、明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯していました。
高槻城の縄張り等
高槻城は、芥川の扇状地に築かれた平城で、本丸の北に二の丸を配置し、その東側に厩郭・南側に弁財天曲輪を配置し、それを北と東を三の丸・西と南を帯曲輪・さらに西を出丸で囲った梯郭式平城となっています。
天守台・櫓台・虎口に石垣が設置されたものの、その他は土で造られた土造の城でした。
高槻城は、京都と大阪の中間にあり、南の淀川と北の西国街道とに挟まれた水陸の要衝地にあった重要な城で、前記のとおり4度にわたる改修の結果、南北に約630m×東西に約510mにも及ぶ凸字型の城として完成したと推定されています。
もっとも、高槻城は、明治7年(1874年)に破却されて、石垣や木材が東海道線敷設の材料として使用されたため、高槻城跡にはかつての城郭を残す遺構は現存していません。
外堀
江戸時代の高槻城の絵図を、現在の地図に引き直すと、外堀の位置は概ね上図のとおりとなります。
外堀の位置が、そのまま現在の道路となっていますので、現在でも城の形がはっきりわかりますね。
なお、一辺が直線ではなく、何度も折れ曲がる構造をしているのは、攻め寄せる敵を正面と側面の2方向から攻撃するための工夫です。
外曲輪
①三の丸
三の丸には、北側に北大手門、東側に東大手門、南側に南大手門が設置され、いずれにも内枡形が形成され、江戸期には摂津高槻藩の重臣たちの武家屋敷が軒を連ねていました。
北大手門の跡は現在こんな感じになっており、当時の名残は北側にある「北大手」交差点の名くらいとなっています。
三の丸南側は、現在、城址公園として市民の憩いの場となっています。
②帯曲輪
帯曲輪南側には蔵屋敷が立ち並び、米倉や火薬庫として使用されていました。
③出丸
寛永13年(1636年)ころに城主となった岡部宣勝により築かれた西部の曲輪で、この出丸の増設により高槻城は完成をみています。
内曲輪
内曲輪については、堀は全て埋めらるなど、その遺構は全て撤去されているため往時の姿を偲ぶことはできません。
①厩曲輪
②弁財天曲輪
③二の丸
二の丸は、主に城主の生活空間として使用され、二の丸御殿が築かれていました。
また、二の丸には、高山右近時代の天正2年(1574年)ころ、戦国時代末期に近畿地方におけるキリスト教布教の中心となる池や庭園を持つ教会堂が建てられました。
なお、教会堂跡地すぐ横に、枡形門石垣石が置かれています。
④門・櫓
本丸
①石垣
昭和50年の発掘調査で本丸石垣の基礎部分が発見され、地中には現在も遺構が残っているものもあるということが明らかとなっています。
②門・櫓
高槻城天守
絵画や文献によると、高槻城の天守は、本丸の南西角に建つ白漆喰総塗の層塔型三重天守であったと考えられています。
この三重天守が焼失したとの記録がないため、幕末まで存在した可能性が高いと考えられています。
城下町
城下町は、北の芥川口、京口、東の前島口、南の大塚口、大坂口、富田口の「高槻六口」を通じて西国街道・淀川結んでおり、城の北側と東側を中心に発展しました。
移築建造物としては、城下寺町の本行寺門および永井神社に、高槻城から移築したとされる唐門が現存しています。