【砥石崩れ】武田信玄の戦の概念を一変させた2度目の大敗北

織田信長が恐怖し、徳川家康が師と仰いだ武田信玄。52年の生涯の中で敗れた戦は僅か2回です。

生涯で2回しか負けなかった理由は、この2回の敗戦とその反省が武田信玄の考え方を一変させたからです。

特に大きかったのは、2回目の敗北であるいわゆる砥石崩れです。

この敗戦とその後の砥石城攻略が武田信玄を負けない武将に育てあげたのです。

そこで、以下、武田最強伝説を作ったともいえる砥石崩れとそれが武田信玄に及ぼした影響についてみていきましょう。

砥石崩れに至る経緯

信濃国への侵攻を開始した武田信玄は、次々と敵をねじ伏せ、支配地を広げていきました。

ところが、そんな武田信玄も、天文17年(1548年)2月14日の上田原の戦いで北信濃の雄・村上義清に敗れます。

この敗戦によって信濃国内で国衆の反乱が相次ぎ、武田信玄の信濃侵攻作戦が危なくなったのですが、このときは、同年7月19日の塩尻峠の戦いで信濃国の最高実力者であった小笠原長時に快勝して信濃国衆達の求心力を取り戻したため、武田信玄は信濃侵攻作戦を再開することができました。

そして、松本平侵攻戦の結果、天文19年(1550年)7月、小笠原長時を追放して松本盆地を獲得した武田信玄は、北信濃を目指して再び村上義清と対峙します。

板垣信方と甘利虎泰を失った上田原の戦いのリベンジでもあります。

松本平を獲得した武田信玄が、村上義清打倒のためにまず手を付けたのは村上義清の居城・葛尾城の支城として同城の東にある東信濃の防衛線であった砥石城です。

砥石城を残して葛尾城を攻めると後方を突かれることとなるため、葛尾城を狙うためには先に落としておかなければならない城です。

武田信玄は、村上義清が、中野小館の高梨政頼と対陣している隙をついて、村上勢の信濃・砥石城を攻略する作戦を立てます。

そして、武田信玄は、天文19年(1550年)8月24日に今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して砥石城を検分させ、また同年8月25日に大井信常、横田高松、原虎胤らも砥石城に派遣し再度の検分をさせます。

その上で、武田信玄は、7000人の兵を率いて同年8月27日に長窪城を発ち、同年8月29日には武田信玄自らが砥石城に取りついてこれを検分します。

砥石崩れ

砥石城の構造

砥石城は、元々は、本城を中心した北の枡形城、南西の米山城、南の砥石城による複合城郭の1つでした。

すなわち、砥石城とは元々は1つの出城に過ぎなかったのです。

もっとも、村上義清が、小県郡・佐久郡方面の軍事拠点としてこの複合城郭を大改築した後、いつしかこの複合城郭全体が砥石城と呼ばれるようになったと言われています。

そして、複合城郭である砥石城を南側から陥落させるには、南西側の滑りやすい急斜面の崖(城の名の由縁となった砥石のような崖です。)を登っていかなければならないという攻め手に厳しい城でした。

なお、現在は上写真のように木が生い茂っていますが、当時は地面がむき出しで隠れる場所もない崖でした。

武田軍・村上軍の各陣営

前記のとおり砥石城攻略のために武田信玄が準備した兵が7000人であったのに対し、砥石城を守る村上義清方の兵は僅か500人でした。

そのため、兵数だけを比べると武田方が圧倒的に有利なはずでした。

ところが、ここに村上義清の智略が光ります。

砥石城に籠った村上方の兵の大半は、天文16年(1547年)に武田信玄に攻略された後に女子供まで根こそぎ売られるという乱妨取りが行われた志賀城の残党であり、武田信玄に対する恨みに満ちた者達だったのです。

そのため、武田憎しの感情から、砥石城の士気はすこぶる高かったと言われています。

砥石城の戦い開戦(1550年9月9日)

天文19年(1550年)8月29日には武田晴信自らが砥石城際まで馬を寄せて検分して村上方に開戦を通告する矢入れを行い、同年9月9日、武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が南西側の崖を攻撃することで砥石城の戦いが開始します。

これに対し、砥石城に籠る城兵は、崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりするなどの反撃を行い、武田軍を大いに苦しめます。

武田軍は、3週間ほど攻撃を続けたのですが、砥石城に取り付くことさえままなりませんでした。

そうこうしている間に、武田軍に良くない情報がもたらされます。

村上義清が、対立していた高梨氏と和睦を結んだことにより自由になった2000人の兵を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来るという情報です。

村上義清の後詰めが到着すると、武田軍は、北側の砥石城兵と南側の村上義清軍に挟撃され、退路を断たれる危険が生じます。

そこで、挟み撃ちの危険を察した武田信玄は、同年9月晦日に軍議を開き、戦況不利と判断して砥石城の攻略断念の判断をします。

砥石崩れ(1550年10月1日)

そして、天文19年(1550年)10月1日、武田軍は、後方から村上義清軍が到着する前に砥石城の囲みを解いて後退を開始します。

この時点ではまだ村上義清の後詰が到着していなかったため、すんでのところで退路を断たれることは避けられたのですが、撤退中の武田軍に、後方から村上軍が激しく追撃してきました。

この村上軍の追撃により、武田方は殿軍を中心に大混乱に陥り、横田高松をはじめ郡内衆の小沢式部・渡辺伊豆守らを含む約1000人もの将兵を失う結果となりました。

武田信玄自身も、影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われています。

武田家中で「砥石崩れ」と呼ばれた武田信玄の2回目の大敗北です。

真田幸隆の砥石城攻略(1551年5月26日)

武力によって砥石城を攻略できなかった武田信玄ですが、天文20年(1551年)5月26日、武田家臣・信濃先方衆の真田幸隆(真田幸綱)が、一兵も失うことなく僅か半日で砥石城を攻略します。

詳しい方法は明らかではありませんが、一説によると、真田幸隆の弟である矢沢頼綱が村上義清に属していたため、この矢沢頼綱を調略することによって真田幸隆が砥石城を乗っ取ったと言われています。

砥石崩れの結果、信濃国・北部戦線では村上義清が優勢を保っていたのですが、真田幸隆の砥石城乗っ取りにより一気に形成が逆転します。

真田幸隆が砥石城を攻略した機を逃さず、武田信玄は、真田幸隆を支援するために信濃国東部の小県郡・佐久郡へと侵攻して抵抗勢力を一掃し、小県郡・佐久郡を完全に支配下に置きます。

なお、砥石城攻略の功績により、真田幸隆は武田信玄の信頼を勝ち取り、武田家重臣の小山田虎満や飯富虎昌とともに信濃国北部侵攻の先鋒を任されます。

そして、これら武田軍の先行隊が北信濃への再侵攻を開始すると、村上義清に属していた国衆達が次々と武田信玄に寝返ったため、急速に村上義清の勢力が衰えます。

そして、天文22年(1553年)4月、武田軍の先行隊が村上義清の居城・葛尾城に取りついたところで、防戦困難と悟った村上義清が居城・葛尾城を捨てて越後国の上杉謙信を頼って落ち延びていきました。

なお、この後、武田軍先行隊は、落ち延びた村上義清を追って信濃国北部の川中島へと侵攻しようとしましたが、逆には南下してきた上杉謙信・村上義清の連合軍に攻められて一旦獲得した葛尾城が奪われてしまいます(この勢いで、小県郡も村上方に奪還されています。)。

その後、武田信玄本軍が再び信濃国小県郡へと侵攻すると、村上義清は劣勢となって上杉謙信の下に亡命し、武田信玄が、信州国小県郡を支配するに至りました。なお、武田信玄は、砥石城攻略の大功ある真田幸隆を武田家の直臣に取り立てた上、村上義清に奪われた真田家の旧領である小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を真田幸隆に与えています。

小県郡を獲得したことにより、武田領が・長尾家(上杉家)領と接することとなったため、ここから10年に亘る信濃北部の川中島四郡をめぐる川中島の戦いへと発展していくこととなります。

武田信玄を変えた砥石崩れの評価

砥石崩れによる敗戦前の武田信玄は、若さと高い能力を頼りに正面から敵にぶつかりこれを力でねじ伏せるという方法で進んでいっていました。

志賀城攻めの際には、討ち取った敵の首を城の前に並べて威嚇してまで、力攻めで城を攻め取るという方法を選択しています。

この武田信玄の正面突破は戦い方は、武田の武名を大いに高め、当初は武田の領土拡大に大いに寄与していました。

ところが、若い武田信玄は、上田原の戦い、砥石崩れと2度にわたってこの正攻法を戦巧者の村上義清にいなされて2連敗を喫します。

そして、武田信玄は、その2敗目を喫した後に力攻めを主とする自分の戦い方の限界に気付きます。

それは、自分がたどり着くことすら叶わなず大敗北を喫した砥石城攻めについて、配下の真田幸隆が一兵も失うことなく僅か半日で攻略してみせたからです。

砥石崩れとそれに続く真田幸隆による砥石城攻略は、武田信玄を心底驚愕させました。

そして武田信玄の常識を根本から覆しました。

戦というのは、必ずしも正面から敵をうち破ればいいものではなく、諜報や調略を駆使し、場合によっては情報操作なども行いつつ、損害の程度も勘案しながら侵攻していくということを学び、したたかさが必要であると痛感させられたのです。

これにより、武田信玄がさらなる覚醒をします。

これ以降の武田信玄の戦いは、それまでの戦いと全く変わります。

無理をして完勝を目指すのではなく、確実な小さな勝利を積み重ねるということを目指すのです。

この新たな心境を表す武田信玄の言葉があります。

勝負のこと、

五分、六分、七分の勝ちは、十分の勝ちなり。

八分の勝ちは、あやうし。

九分、十分の勝ちは、味方大負の下作りなり。

戦いの勝利は6分勝ちや7分勝ち位がちょうど良く、8分以上の大勝利は驕りがでて危うくなり、9分や10分の完勝は、次回の大敗北の元となるというものです。

要するに完勝するために力押しにこだわったり奇策を講じたり無理をしたりするのではなく、確実な小さな勝利を積み重ねていくことが最終的な目的達成に繋がるという考え方です。

戦は、勝つことではなく、負けないことが重要だということです。実際この後に武田信玄に決定的な負け戦はありません。

上田原の戦いと砥石崩れの敗戦とその反省が、戦国最強と呼ばれた武田信玄を作り上げたのです。

現在を生きる我々にも、学ぶべき点が多い戦いですね。

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