【板垣信方】武田信玄の父とも言える初期武田四天王筆頭の猛将

戦国最強の誉れ高い甲斐武田家の筆頭家老として、武田信虎・武田信玄の2代に仕えた板垣信方(甲陽軍鑑では、板垣信形と記載されています。)。

優れた武将を多く抱える武田家の中でも特に優れた武将とされる武田二十四将に選ばれ、また初期の武田四天王の1人でもありました。

武田信玄の青年期を武田家最高職として支えた名将で、戦場では無類の強さを発揮しましたが、増長して悲しい最期を迎えた武将でもあります。

板垣信方の出自

板垣信方の生家である板垣氏は、甲斐源氏武田氏の祖である武田信義の3男武田兼信から始まる家で、代々甲斐武田氏に仕えていました。

板垣信方は、そんな板垣氏当主であった板垣信泰の子として生まれます。

生年は、延徳元年(1489年)とも明応元年(1492年)とも言われますが、正確な年月日は不明です。

その後の元服、初陣の経緯などの前半生の詳しい内容は分かっていません。

武田信虎に仕える

数々の武功を挙げる

板垣信方の名が歴史に現れてくるのは、武田信虎の下においてです。

板垣信方は、元服後から武田信虎に仕え、数々の武功挙げたようです。

大永元年(1521年)、駿河国の今川氏親の家臣である福島正成が1万5000人の兵を率いて甲斐に侵攻してきた際には、甘利虎泰・原虎胤らと奮戦し、なんとか今川軍を押し返すことに成功しています(飯田河原の戦い)。

同年11月23日、再度攻勢に出た今川軍に対し、武田軍は飯田河原から2kmほどの場所にある上条河原で応戦し、武田軍が今川軍を撃退します(上条河原合戦)。

このとき、板垣信方隊が大活躍を見せ、板垣信方が戦功第一とされました。

なお、今川軍の侵攻に際して、武田信虎は、身重の正室・大井の方を要害山に避難させたのですが、大井の方がこれらの武田軍勝利の報を聞いて安心し、大永元年(1521年)12月1日に産んだ子が後の武田信玄です。

武田信玄の傅役となる

板垣信方は、これらの武功によって武田信虎の信頼を獲得し、生まれてきた武田信玄(幼名は太郎ですが、ややこしいので武田信玄で統一します。)の傅役として、その教育にあたり、帝王学を叩き込みます。

甲斐の虎の起源は、板垣信方だったのです。

武田信虎は、武田信玄よりもその弟の武田信繁を愛して武田信玄を蔑ろにしていたため、実の父に愛されなかった武田信玄は、板垣信方を本当の父のように慕っていたと伝えられています。

外交官としても活躍する

武田信虎が甲斐国を統一をすると、武田氏は西進して信濃への侵攻することを考え、南側の安全を確保するために、天文6年(1537年)、今川氏との和睦の上で今川義元と「甲駿同盟」を結ぶのですが、その折衝役として板垣信方は活躍しています。

武田信虎を追放する(1541年6月)

もっとも、武田信虎は、国内情勢を無視して、強引に信濃・武蔵・相模・上野などへの侵攻を繰り返したため、甲斐国内が疲弊していきました。

また、武田信虎は、嫡男武田信玄を廃嫡して弟の武田信繁に武田家を継がせようとするなどしたため、武田家中にも混乱をもたらしていました。

そこで、1541年(天文10年)6月14日、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田備中守らの武田家家臣団が武田信玄を神輿に担いでクーデターを起こし、武田信虎を駿河国に追放します。

そして、これにより武田信玄が武田家の第19代目の家督を継ぐこととなりました。

武田信玄に仕える

武田家の最高職となる

武田信玄は、甲斐武田家の家督を継ぐと、板垣信方と甘利虎泰を武田家最高職の「両職」に任じ、武田家家臣団をその下で編成します。

上原城代として信濃国・諏訪郡を統治

その上で、武田信玄は、武田信虎によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を計画します。

最初のターゲットは、甲斐国と接する信濃国諏訪郡です。

武田信玄は、武田軍による諏訪郡侵攻の準備として、まず諏訪家の庶子であり諏訪頼重に不満を持つ伊那の高遠頼継を調略します。また、諏訪下社の金刺氏らも調略します。

そして、武田信玄は、1542年(天文11年)6月24日、満を辞して高遠頼継と共に上諏訪に攻め込み、本格的な信濃国・諏訪郡侵攻を開始します。

同年7月からは、武田軍・高遠軍が、諏訪頼重軍を駆逐していき、遂に降伏した諏訪家当主・諏訪頼重の身柄を甲府へ連行して切腹させて諏訪惣領家を事実上滅亡させます。

そして、諏訪頼重を切腹させた武田信玄は、高遠頼継との協議の上、諏訪領を二分し、宮川以西を高遠領、以東を武田領とします。

ところが、この後、高遠頼継が、諏訪郡の分配に不満を示して武田家に攻撃を仕掛けてきたのですが返り討ちにあい同年9月28日に降伏させられます。

また、板垣信方は、同年9月29日、別働隊を率いて有賀峠を越えて上伊那に侵攻し、春近衆を圧迫し、伊那衆や高遠方に壊滅的な打撃を与えて、諏訪西方・西方衆を武田へ帰属させました。

これにより、武田信玄は、信濃国諏訪郡全土を獲得するに至り、この後、武田信玄は、天文12年(1543年)4月、上原城を修復して板垣信方を城代に任じて諏訪領の支配を始めます。

なお、板垣信方は、このころに、駿河国にいた山本勘助の兵法家として能力を買って「城取り(築城術)」に通じた牢人がいると武田信玄に山本勘助を推挙し登用されています。

そして、さらなる信濃侵攻をもくろむ武田信玄は、天文13年(1544年)に北条氏康と甲相同盟を結び南東部の安全を確保します。

信濃国・上伊那侵攻戦

また、板垣信方は、上伊那侵攻戦にも転戦し、天文14年(1545年)6月には、援軍に駆け付けた小笠原長時軍を追い返すなどの活躍を見せています。

信濃国・佐久郡侵攻戦

武田信玄は、天文12年(1543年)4月に諏訪郡を領国化した後、次は佐久郡に狙いをつけます。そして,ここから破竹の侵攻が始まります。

武田軍は、天文12年(1543年)に大井貞隆が守る長窪城を、天文15年(1546年)には大井貞清が守る内山城を攻略します。

天文16年(1547年)閏7月、武田信玄は、板垣信方率いる諏訪衆とともに再び信濃国・佐久郡に侵攻し、笠原清繁が守志賀城を包囲します。

笠原清繁は関東管領上杉憲政に後詰を要請し、これに応じた上杉憲政は金井秀景に命じて西上野衆を志賀城救援に差し向けます。

もっとも、武田信玄は、板垣信方と甘利虎泰に命じて別動隊で迎撃させ、同年8月6日、小田井原の戦いでこれをを撃破します。

この戦いで、武田軍は上杉憲政の兵3000人を討ち取り、武田信玄は志賀城の士気を下げるためにこの3000もの首を志賀城の目前に晒したと言われています。

後詰が撃破されて士気の下がった志賀城は瞬く間に陥落し、城主・笠原清繁は討ち取られ、捕虜となった城兵は奴隷労働者に落とされ女子供は売り払われたそうです。

この結果、武田信玄は信濃国・佐久郡の領有化に成功します。

板垣信方の最後

板垣信方の増長

以上のように、戦場で無類の強さを発揮して武田家の領土拡大に貢献し続ける板垣信方でしたが、老年にさしかかると、増長したかのような行動が見られるようになります。

具体的には、戦勝の折に武田信玄の許可なく単独で恩賞や勝鬨式、首実検などを行うなどするようになります。

このような板垣信方の行動に、武田信玄は不満を抱くようになり、しばしばこれをたしなめるようになります。

しかし、板垣信方は、この武田信玄の苦言に耳を傾けることはなく、これが板垣信方の身を滅ぼすことに繋がります。

上田原の戦い

天文17年(1548年)2月1日、武田信玄は、信濃国北部を攻略するため、5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始し、途中の上原城で板垣信方率いる諏訪衆や郡内衆と合流して、大門峠を越えて小県郡南部に侵攻します。

これに対し、信濃国北部・小県郡を治める村上義清は、天白山の居城葛尾城と北東部の戸石城を拠点に陣を敷き、その後さらに岩鼻まで南下して上田平に展開し、千曲川を挟んで武田方と対陣します。

そして、同年2月14日、両軍が激突します(上田原の戦い)。

板垣信方討死(1548年2月14日)

武田軍は、板垣信方を先陣とし、それに続いて栗原左衛門尉・飯富虎昌・上原昌辰(小山田虎満)・小山田信有・武田信繁らが次々と村上方に攻撃をしかけます。

先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進したのですが、勝ちに奢った板垣信方は何を思ったか敵前となっていた下之条付近で首実検を始めました。

ところが、このときに板垣信方の油断をついた村上勢が反撃に出て、首実験中の板垣隊に襲いかかります。

不意を突かれた板垣隊は大混乱に陥り、首実検中の板垣信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られます。

武田軍筆頭武将のあっけない最期でした。

板垣信方が討ち死にしたことにより、板垣隊は総崩れとなり、また先陣の板垣隊が崩れたことで後続の武田軍も大混乱に陥ります。

勢いに乗る村上義清は、武田信玄の本陣にも攻めかり、脇備の工藤祐長(内藤昌秀)と馬場信房(信春)が横槍を入れてこれを打ち払うまでの間に、武田信玄が2ヶ所の傷を負うほど肉薄されます。

結果、上田原の戦いでは、武田軍は、700人とも1200人とも言われる多数の兵と、重臣の板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らを失う大敗を喫します。

武田信玄の人生で2度しかなかった敗北のうちの1回目の敗北です。

なお、板垣信方は愛煙家であったと伝えられており、討死地である長野県上田市下之条にある板垣信方の墓には、彼を偲んでを訪れる人によりタバコが供えられているようです。

板垣信方亡き後の板垣家

板垣信方の死後、嫡男の板垣信憲が板垣氏の家督を継ぎますが、板垣信憲に父ほどの才はなく、そればかりか不行跡があったために、武田信玄によって武田家家臣団から追放されたのちに誅殺され、板垣氏の嫡流は一旦断絶します。

もっとも、板垣氏が耐えるのを惜しんだ武田信玄が、翌年、板垣信方の娘婿である同族於曾氏の左京亮信安を当主と定めてその再興がなされ、以降、この子孫が、甲斐板垣氏の嫡流となり、武田氏滅亡後は真田昌幸に仕えて加賀藩士となって続きます。

なお、幕末の維新志士として有名な板垣退助は、武田家から追放された板垣信憲の子孫であると自称していますが、真実のところは不明です。

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