【武田信玄の諏訪盆地侵攻】信濃国攻略戦の初戦

戦国最強と謳われた武田信玄は、生涯をかけてその領国を広範囲に拡大しており、死亡時には甲斐国・信濃国から、西上野・駿河・遠江・奥三河・飛騨・東美濃の一部にまで及びました。

そんな広大な領土を有するに至った武田信玄も、スタートは甲斐国一国から始まっています。

本稿では、そんな武田信玄の領土拡大の軌跡のうちの最初の獲得地である信濃国・諏訪郡侵攻戦について見ていきます。

武田信玄の信濃国諏訪郡侵攻前の状況

武田信虎・諏訪頼重同盟(1540年11月)

武田信玄の父である武田信虎は、大永5年(1525年)ころから信濃国諏訪郡への侵攻を開始したのですが成功せず、天文4年(1535年)、諏訪郡を治める諏訪家と和睦し、同盟を志向します。

天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々と、諏訪家総領であり、諏訪上社の現人神でもあった諏訪頼重とが婚姻し、甲斐国・武田家と信濃国諏訪郡・諏訪家との同盟関係となりました。なお、天文11年(1542年)、諏訪頼重・禰々の間に嫡男寅王丸が生まれています。

そして、甲斐国・武田信虎は、この諏訪家(及び村上義清)との同盟関係を基に、信濃国・佐久郡を攻略し、さらに小県郡への侵攻を行っていました。

そんな折、信濃国の豪族である海野棟綱 が、天文9年(1540年)に小県郡侵攻で敗北して上野国の山内上杉憲政に援軍を要請したため、上杉憲政は信濃国への出兵を行います。

このときな、諏訪頼重が、同盟相手であった武田家・村上家へ断ることなく単独で上杉憲政と講和を行い、領地の割譲を行ったため、武田信虎は、これを盟約違反と判断し、武田家と諏訪家との同盟関係に綻びが出始めます。

武田信虎追放劇(1541年6月)

天文10年(1541年)6月14日、武田信玄(武田晴信、本稿では便宜上武田信玄の名で統一します。)が、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、武田信虎を駿河国追放し、武田信玄が武田家の第19代目の家督を相続します。

もっとも、このときのゴタゴタで、武田家は、武田信虎時代に獲得した信濃国・小県郡、佐久郡を失います。

瀬沢の戦い(1542年3月)

さらに、信濃国の領土を失ったばかりか、甲斐国さえも危うくなる事件が起こります。

天文11年(1542年)3月、信濃国・諏訪郡を治める諏訪頼重が、武田信玄の政権基盤がまだ盤石でないと見て、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻を始めたのです。

甲斐国の危機に対し、武田信玄は自ら出陣して甲信の国境付近にて諏訪・小笠原連合軍を迎撃し、激戦の上、甚大な被害をだしつつも、諏訪・小笠原連合軍をなんとか退けます。

甲斐国への侵攻を防いだ武田信玄でしたが、この瀬沢の戦いにより武田・諏訪両家の関係は悪化し、以降、両家の国境では小競り合いが始まります。

武田信玄による信濃国諏訪郡支配の経緯

調略による事前準備

瀬沢の戦いをなんとか凌いだ武田信玄は、諏訪頼重に対する反撃と諏訪の獲得を考えます。これは、甲斐盆地しか生産性ある土地を有さない国力の低い甲斐国・武田家の生き残り策でもありました。

今川・北条と事を構える国力のない甲斐国・武田家に南進策は取り得ませんので、必然的に勢力拡大方向は、大大名のいない信濃国に向かいます(この点については、武田信虎時代と変わりありません。)。

そして、信濃国には、伊那・諏訪・佐久・松本・善光寺平などの豊かな盆地が点在しており、甲府盆地1つのみの甲斐国と比べると格段に豊かな地であり、武田家が勢力拡大を狙うにもってこいだったからです。

そして、武田信玄がまず狙ったのは、先に手を出してきた諏訪でした。

武田信玄は、調略から始めます。

まず諏訪家の庶子であり諏訪頼重に不満を持つ上伊那にある高遠城主・高遠頼継を調略することから下準備をはじめます。また、諏訪下社の金刺氏らも調略します。

桑原城の戦い(1542年6月)

その上で、武田信玄は、天文11年(1542年)6月24日、満を辞して高遠頼継と共に諏訪に攻め込み、本格的な信濃国・諏訪郡侵攻を開始します。

武田信玄の進軍を聞いた諏訪頼重は、1000人(騎馬150、歩兵700から800人)の兵を率いて上原城の南にある犬射原社まで進軍し、対応にあたることとしました。

他方、同年6月29日、北上してきた武田信玄は、御射山に本陣を置きました。

武田信玄と矢崎原で対峙した諏訪頼重は、武田軍と戦う兵力はないと判断し、決戦に挑むことなく後退し、居城である上原城に戻りました。

ところが、このとき、武田信玄に呼応した高遠頼継が、杖突峠を越えて、北諏訪に侵攻し、上原城に迫ってきました。

諏訪頼重は、南東からの武田信玄、南西からの高遠頼継に挟撃されることを恐れ、居城の上原城を自ら焼き捨て、北にある支城である桑原城へ後退しました。

その後、武田軍と高遠軍は合流して北上し、桑原城に迫ります。

同年7月3日、武田・高遠連合軍は、桑原城下の高橋口に進出しようとしましたが一度は退けられます。

もっとも、同年7月4日、武田・高遠連合軍は、桑原城を囲み、諏訪頼重に降伏を勧告します。

諏訪総領家の滅亡(1542年7月)

天文11年(1542年) 7月4日、諏訪頼重は、武田信玄の降伏勧告に対し、生命安堵・本領安堵・裏切者のからの高遠頼継の殺害を条件として、これを受け入れました。

武田信玄は、降伏した諏訪頼重の身柄を甲府へ連行し、同年7月21日、和睦条件を反故にして諏訪頼重とその実弟の諏訪頼高を切腹させました。

これにより諏訪惣領家は事実上滅亡しました。

そして、戦後、武田信玄は、高遠頼継との協議の上、諏訪領を二分し、宮川以西を高遠領、以東を武田領とします。

高遠頼継の裏切り(1542年9月)

ところが、この武田信玄の諏訪分割に高遠頼継が不満を持ちます。

高遠頼継は、諏訪総領家である諏訪頼重が死亡した後は、自分が諏訪総領家として諏訪郡に君臨出来ると考えていたのですが、与えられたのは諏訪郡の半分であり、また武田信玄の下に位置付けられるような立場となったからです。

そして、高遠頼継は、武田信玄に反旗を翻し、自分こそが諏訪総領であると主張して上原城への侵攻を開始しました。

天文11年(1542年) 9月10日、上原城を攻略した高遠頼継は、諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけ、信濃国諏訪郡の全域支配に乗り出しました。

これに対し、武田信玄は、同年9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰のため、板垣信方に軍を預けて諏訪郡に急行させました。

また、同年9月19日、武田信玄は、高遠頼継の主張を廃して自身の正統性を担保するため、諏訪頼重の遺児である寅王丸を擁して若神子まで出陣し、先行する板垣隊と合流します。

武田信玄が、諏訪頼重の遺児である寅王丸を擁したことから、多くの諏訪衆が武田信玄側につきました。なお、寅王については、これ以降の記録がなくその後どうなったのかについては全く分かっていません(武田信玄の性格からすると、反乱の神輿となりうるため、用が無くなった寅王丸を処分したかもしれません。)。

そして、同年9月25日、武田軍約2000人は宮川まで進軍し、宮川橋付近(現在の安国寺前古戦場)で高遠軍約2000人と衝突しました(宮川の戦い)。

この合戦は、高遠軍は高遠頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700~800余人の死者を出して敗走し、武田軍勝利に終わり、高遠頼継は杖突峠を越えて本拠地である高遠城に退去しました。

武田軍は、敗走する高遠頼継を追って杖突峠を越え、信濃国上伊那郡に侵攻し、高遠頼継に加担した藤沢頼親の居城であった福与城を包囲し、同年9月28日に降伏させます。

また、板垣信方は、同年9月29日、別働隊を率いて有賀峠を越えて上伊那に侵攻し、春近衆を圧迫し、伊那衆や高遠方に壊滅的な打撃を与えて、諏訪西方・西方衆を武田へ帰属させました。

これにより、武田信玄は、信濃国諏訪郡全土を獲得するに至りました。

武田信玄の諏訪郡支配手段

そして、天文12年(1543年)5月、武田信玄は、諏訪郡支配のために上原城を修築し、板垣信方を諏訪郡代として在城させることにしました。

また、武田信玄は、諏訪郡獲得当初、諏訪家惣領として諏訪頼重と禰々御料人の子である千代宮丸を擁立しましたが、やがてこれを破棄し、武田信玄自らが諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に迎え、生まれた男子(武田勝頼)に諏訪惣領家を継承させる路線を選択しました。

甲陽軍鑑によれば、当初、武田家臣団では、武田信玄を父の仇とする諏訪頼重の娘を側室にするのは危険だという理由で諏訪御料人を側室に迎えることは反対意見が多かったのですが、武田家軍師である山本勘助が「諏訪の血を引く姫を側室にし、その側室に男児が生まれたら、諏訪家が再興できると諏訪の人達が喜ぶでしょう」と、家臣達を説得したため、この選択に繋がったとされています。

この選択により、武田信玄による諏訪郡支配は順調に進んだのですが、これが後の武田家滅亡の悲劇に繋がっているのも皮肉です。

諏訪攻略後のターゲット

信濃国諏訪郡を獲得した武田信玄は、信濃国侵攻への足掛かりを得て、ここから本格的に信濃国侵攻を開始します。

次のターゲットは、福与城主・藤沢頼親と高遠城主・高遠頼継が治める上伊那侵攻です。

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