【上田原の戦い】板垣信方と甘利虎泰を失った武田信玄最初の敗北

クーデターを成功させて武田家当主となった武田信玄は、父・武田信虎の政治によって荒れた甲斐国の内政を整えた後、本格的に信濃国への侵攻を開始します。

その後、武田信玄は、破竹の勢いで信濃国南部を制圧したのですが、その面前に北信濃の猛将・村上義清が立ちはだかります。

そして、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。

この戦いでは、板垣信方、甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという大敗北喫します。

本稿では、この上田原の戦いについて、その発生経緯から順に解説します。

上田原の戦いに至る経緯

武田信玄の諏訪郡侵攻戦

信濃国獲得を目指す武田信玄の最初のターゲットは、甲斐国と接する信濃国諏訪郡です。

武田信玄は、武田軍による諏訪郡侵攻の準備として、まず諏訪家の庶子であり諏訪頼重に不満を持つ伊那の高遠頼継を調略します。また、諏訪下社の金刺氏らも調略します。

そして、武田信玄は、1542年(天文11年)6月24日、満を辞して高遠頼継と共に上諏訪に攻め込み、本格的な信濃国・諏訪郡侵攻作戦を開始します。

同年7月からは、武田軍・高遠軍が、諏訪頼重軍を駆逐していき、遂に降伏した諏訪家当主・諏訪頼重の身柄を甲府へ連行して切腹させて諏訪惣領家を事実上滅亡させます。

そして、諏訪頼重を切腹させた武田信玄は、高遠頼継との協議の上、諏訪領を二分し、宮川以西を高遠領、以東を武田領とします。

ところが、この後、高遠頼継が、諏訪郡の分配に不満を示して武田家に攻撃を仕掛けてきたのですが返り討ちにあい同年9月28日に降伏させられます。

また、板垣信方が、同年9月29日、別働隊を率いて有賀峠を越えて上伊那に侵攻し、春近衆を圧迫し、伊那衆や高遠方に壊滅的な打撃を与えて、諏訪西方・西方衆を武田へ帰属させました。

これにより、武田信玄は、信濃国諏訪郡全土を獲得するに至り、この後、武田信玄は、天文12年(1543年)4月、上原城を修復して板垣信方を城代に任じ、諏訪領の支配を始めます。

武田信玄の伊那郡侵攻戦

諏訪郡を獲得した武田信玄は、次に伊那郡に狙いをつけます。

武田信玄は、天文12年(1543年)には大井貞隆が守る長窪城を攻略すると、これを北側の守りとして、上伊那侵攻作戦を開始します。

天文13年(1544年)の第1次侵攻作戦は失敗に終わりましたが、翌天文14年(1545年)の第2次侵攻作戦により、高遠頼継が守る高遠城と藤沢頼親が守る福与城を相次いで攻略し、信濃国・上伊那郡を獲得します。

武田信玄の佐久郡侵攻戦

諏訪・上伊那を獲得した武田軍は、天文15年(1546年)以降、佐久郡侵攻作戦を展開します。

天文15年(1546年)には大井貞清が守る内山城を攻略し、佐久郡南部を平定します。

その後、武田信玄は、天文16年(1547年)閏7月、板垣信方率いる諏訪衆とともに佐久郡北部を治める笠原清繁が守る志賀城を7000人の兵で包囲します。

笠原清繁は平井城のある関東管領上杉憲政に後詰を要請し、これに応じた上杉憲政は金井秀景に命じて西上野衆を志賀城救援に差し向けます。

もっとも、武田信玄は、板垣信方と甘利虎泰に命じて別動隊で迎撃させ、同年8月6日、浅間山麓で繰り広げられた小田井原の戦いでこれを撃破します。

この戦いで、武田軍は上杉憲政の兵3000人を討ち取り、武田信玄は志賀城の士気を下げるためにこの3000もの首を志賀城の目前に晒したと言われています。

後詰が撃破されて士気の下がった志賀城は瞬く間に陥落し、城主・笠原清繁は討ち取られ、捕虜となった城兵は奴隷労働者に落とされ女子供は売り払われたそうです。

この結果、武田信玄は信濃国・佐久郡全域支配に成功します。

武田信玄の信濃国北部侵攻戦

佐久郡支配により上州口を獲得し、小県郡への足掛かりを得た武田信玄は、さらに信濃国北部へと触手を伸ばしていきます。

そのため、武田信玄は、葛尾城を本拠とし、信濃国北部一帯(埴科郡、高井郡、小県郡、水内郡)を治める猛将・村上義清との戦いが避けられない情勢となります。

上田原の戦い

上田原の戦い直前の動き(両軍の布陣)

まず最初に動いたのは、村上義清でした。

村上義清は、天文17年(1548年)1月18日、武田信玄が獲得して間もない佐久郡を奪還するべく、兵を率いて居城である葛尾城を出発し南下していきます。

この村上義清の動きを見た武田信玄も、天文17年(1548年)2月1日、5000人の兵力を率いて本拠地である躑躅ヶ崎館を出発し、北信濃に向けて北上していきます。

武田信玄は、途中の諏訪郡にある上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や郡内衆を吸収し、そのまま北上し雪深い大門峠を越えて小県郡向かって侵攻していきます。

途中で小山田信有も合流し、武田軍は総勢8000人にまで膨れ上がり、産川東方の倉升山まで進んで陣を敷きます。

他方、村上義清は、千曲川沿いを南下して千曲川支流の産川西方の天臼(須々貴山)を背にして陣を敷いたため、産川を挟んで西の村上軍と東の武田軍が対陣することとなりました。

兵力は武田軍8000人・村上軍5000人と武田軍が有利であったものの、村上軍には土地勘があること、武田軍は極寒の2月に山越をしてきたため極度の疲労が見られたことを考えると、条件的には五分五分ともいえる戦力であったと評価できます。

上田原の戦い開戦(1548年2月14日)

‌天文17年(1548年)2月14日、運命の一戦の火蓋が切って落とされます。

このとき、武田軍では、真田幸隆(真田幸綱)が先陣を願い出たのですが武田信玄はこれを退け、板垣信方に先陣を任せます。

先陣を務めた板垣信方隊は、村上軍を散々に打ち破り、どんどん進んで行きます。

また、板垣信方に続いて。栗原左衛門尉・飯富虎昌・上原昌辰(小山田虎満)・小山田信有・武田信繁らもどんどん村上軍を蹴散らしていきます。

上田原合戦は、主に現在の上田原古戦場公園を含む下之条から上田原付近で行われ、浦野川や産川を境として行われていたのですが、このとき、勝ちに奢った板垣信方は何を思ったか敵前となっていた下之条付近で首実検を始めます。

これを好機と見た村上軍は、板垣信方の油断をついて、首実験中の板垣隊に襲いかかります。

不意を突かれた板垣隊は大混乱に陥り、首実検中の板垣信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られます。

武田軍筆頭武将のあっけない最期でした。

板垣信方が討ち死にしたことにより、板垣隊は総崩れとなり、また先陣の板垣隊が崩れたことで後続の武田軍も大混乱に陥ります。

勢いに乗る村上義清は、武田信玄の本陣にも攻めかかり、脇備の内藤昌秀と馬場信春が横槍を入れてこれを打ち払うまでの間に、武田信玄が左腕に2ヶ所の槍傷を負うほど肉薄されます。

結果、上田原の戦いでは、武田軍は、700人とも1200人とも言われる多数の兵と、重臣の板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らを失う大敗を喫します。

武田信玄の人生で2度しかなかった敗北のうちの1回目の敗北です。

上田原の戦いの決着

こうして上田原の戦いに破れた武田軍ですが、このまま退却をすれば村上軍の追撃にあって更なる大損害を被ると判断した武田信玄は、直ちに武田軍の指揮系統を整理して軍勢を立て直し、その場で踏みとどまります。

これに対し、対する村上軍も勝利はしたものの少なからぬ損害を被っていたため、武田軍に更なる攻撃を仕掛けることはできませんでした。

結果、武田軍は、上田原の地で20日以上も踏みとどまった後撤退を開始し、同年3月5日上原城までたどり着いた後、同年3月26日躑躅ヶ崎館に帰り着きます。なお、この後、武田信玄は、槍傷の治療のため甲府の湯村温泉でで30日間の湯治を行ったと伝えられています。

上田原の戦い後の戦局

上田原の戦いの敗北により、信濃国人衆が次々と武田信玄の支配下から離反し、村上氏・小笠原氏を中心に結束して武田方に反撃に出るようになります。

また、甲斐国に近い諏訪郡でも西方衆が反乱を起こし、武田氏の信濃支配は危機に陥ります。

それまで順調に進んでいた武田信玄の信濃国侵攻作戦は、塩尻峠の戦いに勝利して盛り返すまで一時中断させられることとなるのですが、長くなりますので、以降の経緯については別稿に委ねたいと思います。

ちなみに、現在の上田原古戦場付近の情報が記された案内板はこれです、観光される際には参考にして下さい。。

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