【大和郡山城(続日本100名城165番)】秀吉の弟・豊臣秀長の居城

豊臣政権の絶対的ナンバー2で、紀伊国・河内国・大和国の3か国を治めた大和大納言豊臣秀長の居城・大和郡山城をご存知ですか。

大和郡山城は、大坂城防衛のための重要地点に建っており、100万石の大大名の居城としてふさわしい名城なのですが、豊臣秀長が早死にしたこともあって歴史に埋もれてしまっています。

本稿では、そんな名城・大和郡山城について簡単に紹介していきます。

大和郡山城築城の経緯

筒井順慶による大和郡山城築城

近世城郭としての大和郡山城は、筒井順慶が織田信長の助けを借りて松永久秀を破ったことに始まります。

織田信長は、天正5年(1577年)、松永久秀を滅ぼした際の論功行賞として、筒井順慶に大和一国を与えます。

大和の国を得た筒井順慶は、天正8年(1580年)、郡山の地を本拠と定め、大和郡山城の築城を開始し、天正11年(1583年)には3重の望楼型天守が完成したと言われています。

天正12年(1584年)、筒井順慶が死亡し、養子の筒井定次が跡を継ぎます。

もっとも、豊臣秀吉が、畿内を豊臣一門と近臣で占める政策をとったため天正13年(1585年)閏8月、筒井定次は、大和国から伊賀上野へと国替えとなりました。このときに筒井順慶が築いた望楼型天守は、伊賀上野城へ移築されたと言われます。

豊臣秀長による大和郡山城拡張

天正13年(1585年)の国替えにより、大和国に豊臣秀吉の弟である大和大納言・豊臣秀長が入封します。

このとき豊臣秀長は、大和国・紀伊国・和泉国の3国計100万石の大大名となりその本拠を大和に定めます。

豊臣秀長が、本拠を大和に置いた理由は、東国から大坂城に攻めてくる敵(このときから、徳川家康を仮想敵国としていたかどうかは不明です)が大軍であれば、逢坂関を越えた後で軍を北側と南側に分け、北軍は淀川沿いを、南軍は奈良盆地を南下して王子・道明寺を越えてくることが想定されるため、この分かれた南軍を迎え打つために大和郡山城が重要な場所にあったためです。信用できない者に任すことはできない重要な場所なのです。

豊臣秀長は、大和国に入ると、直ちに大和郡山城の城郭拡大・大規模改修と、城下の整備を行いました。また、このとき、5重6階(または5重5階)の2代目望楼型天守が築かれました。

現在残る大和郡山城の遺構の多くは、このときに豊臣秀長によって整備されたものです。なお、大和郡山城は、豊臣秀長死亡後の文禄4年(1595年)に増田長盛が20万石で入封した際に外堀普請が行われ、総構型の城下町となっています。

 

大和郡山城の縄張り等

 

大和郡山城は、西ノ京丘陵の南端部に位置する平山城で、豊臣秀長入封時の改修により、本丸周囲を二の丸が取り巻き、その二の丸を三の丸が東西から挟み込む構造となる輪郭式平山城とされました。

また、豊臣秀長は、南都の商業活動を制限して大和郡山への商業誘致を進める政策を取り、城下の繁栄をもたらされ、さらに、その後に大和郡山に入った増田長盛によって秋篠川の付け替えを行った上で外堀を一周させ、これを堀として土塁を巡らすことにより総掘とする大工事を行い、大和郡山城を城下町を含む総構型の城として完成しています。

三の丸

上の写真は、東側の三の丸跡地であり、現在は公園緑地として使用されています。

二の丸

①陣甫曲輪跡(最東側)

二の丸東側は、藩庁の表向として使用されていました。

三の丸から陣甫曲輪に入る際には、鉄御門を潜る必要がありました(なお、現在は、鉄御門を通る前に近鉄電車の線路をまたいでいくこととなります。)。

②毘沙門曲輪跡(東側)

陣甫曲輪跡から毘沙門曲輪跡に入る際には、復元された大手門(梅林門)を潜ることとなります(上段写真が外から、下段写真が場内から撮影した大手門です。)。

なお、現在の大手門は、昭和58年(1983年)に再建されたものです。

そして、大手門の南側には追手向櫓(本多家時代には大手先角櫓と呼ばれていました。)がつけられており、枡形の構造となっています。

追手向櫓は、二重櫓(1階:4間2尺に5間、2階:2間四方)の構造だったのですが、明治6年(1873年)に明治政府の方針によって城郭全てが入札・売却された後に撤去されたため、現在の櫓は、昭和62年(1987年)に追手東角櫓・多門櫓と共に復元されたものとなっています。

大手門を潜って陣甫曲輪跡に入ると、北側に城址会館が見えてきます。

この城址会館の建物は、明治41年(1908年)に日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の奈良県庁の南側)に建てられた奈良県最初の県立図書館でした。

その当時の建物はレンガ造りの書庫や木造の附属建物が接続していたのですが、昭和43年(1968年)に本館のみが現在の場所に移され、以降市民会館や教育施設として使用されています。

毘沙門曲輪跡南端には、昭和35年(1960年)に大和郡山城跡が奈良県の史跡指定とされたの機に、城址維持管理や柳澤藩の諸記録・郷土資料などの保存のため保存会として発足し建てられた柳沢文庫が建っています(続100名城スタンプは、この柳沢文庫にあります。)。

③厩曲輪跡・新宅曲輪跡(西側)

二の丸西側は、藩主の私邸や奥向として使用されていました。

現在は、郡山高校の城内学舎として使用されています。

④松蔵曲輪跡(南側)

大和郡山城・二の丸南側の松蔵曲輪跡は、現在郡山高校の冠山学舎として使用されています。

⑤玄武曲輪跡(北側)

本丸

本丸は、南北約150m・東西約70mあり、北端にある天守台がある一角がやや西側にずれて接続し、本丸の周囲は高さ約10~14mの高石垣と幅約10~30mの内堀で守られています。

本丸内には、月見櫓・白沢門・竹林門・坤櫓・厩向櫓などの建物が多聞櫓で連結される構造だったようです。

本丸内堀には2つの橋が架けられており、東側の毘沙門曲輪から極楽橋を渡るルートが正規のルートでした。この極楽橋は、令和3年(2021年)3月に再建されたものです。

他方、南側の竹林橋の土橋から入るルートは裏門ルートであったようです。

現在、このルートを通っていくと途中(本丸南側)に、柳澤神社があります。

柳澤神社は、享保9年(1724年)に柳澤吉里が国替により交付から郡山15万石に入封され、その後郡山の礎を築いた功績を讃えて明治13年(1880年)に創建された神社です。

天守(本丸北端)

①天守台

大和郡山城の天守台は、本丸の北端部に位置する、上面約16m×18m、基底部約23m×25mのやや南北に長くなった長方形をしており、その高さは約8.5mです。

南側に高さ約4.5mの付櫓台がある複合天守となっています。

石垣の積み方は、石垣の完成期に至っていない時期に積まれたものであるため、自然石を使う野面積みであることはもちろん、上部に行くほど小さな石となり、角部の算木積も未熟であることが時代を反映していると言えます(もっとも、石垣の中には違う積み方で積まれたものも散見され、複数回に亘って異なる時代に築造又は改築がなされていることが見て取れます。)。

なお、奈良盆地一帯は良質な石材が乏しかったため、天守台をはじめとする石垣全般に付近一帯から集められた寺院の礎石・石塔・石仏、石臼から墓石に至るまで様々な転用石が見られ、目に見える場所だけで750基あると言われています。

その中でも、天守台にある逆さに積まれた石地蔵は、「さかさ地蔵」として有名で、現在でもはっきりと見ることができます。

②天守礎石

郡山城の天守については、絵図や文献がほとんど残っていないためその内容が明らかとなっていませんでしたが、平成26年(2014年)の発掘調査で礎石が発見されました。

礎石には1m前後の自然石が用いられ、礎石が取り外された部分に礎石を支えた根石がみられ、石があった場所が確認されました。

発掘の結果、礎石を覆う土から豊臣秀吉の大坂城の金箔瓦と同じ模様の軒丸瓦や聚楽第の軒平瓦などが出土され、天守礎石の年代が豊臣政権期と考えられていることから、豊臣秀長又は増田長盛の時代に大和郡山城に天守があったことが明らかとなっています。

もっとも、大和郡山城天守は関ヶ原の戦い後に解体され、その後再建されることはなかったようです。

 

大和郡山城の歴代城主

豊臣家時代(1585年~1595年)

天正19年(1591年)に豊臣秀長が死去したことにより、豊臣秀長の甥であった養子・豊臣秀保が家督を継いで大和郡山城主となりますが、豊臣秀保も文禄4年(1595年)にわずか17歳の若さで死去し、大和豊臣家は断絶します。

増田家時代(1595年~1600年)

大和豊臣家が断絶したことにより、豊臣譜代による大坂城の東の守りに不安ができたため、豊臣秀吉は、急遽豊臣秀吉子飼いの五奉行第三席であった増田長盛に20万石を与え大和郡山に入封させます。

大和郡山に入った増田長盛は、大和大納言家の旧臣の多くを召し抱えるとともに、秋篠川の付け替えを行った上で外堀を一周させ、これを堀として土塁を巡らすことにより総掘とする大工事を行い、大和郡山城を城下町を含む総構型の城として完成させます。

その後、増田長盛は、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍に与して敗れ高野山に追放されたため、大和郡山城の建物は伏見城に移築されるとともに、大和郡山城自体は奈良奉行所の管轄下に置かれて大久保長安が在番することとなります。

水野家時代(1615年~1619年)

1615年の大阪夏の陣の際、筒井定慶が1000人の兵で大和郡山城に籠って対豊臣の姿勢を見せたため、豊臣軍が大和郡山城に攻め込みます。

このとき、攻め寄せる豊臣軍の兵数は2000人程度だったのですが、物見の誤った報告から豊臣軍3万と判断した筒井定慶は大和郡山城を捨てて逃亡し、大和郡山城は豊臣軍の手に落ちます(郡山城の戦い)。なお、筒井定慶は、後日この誤った判断による逃亡を悔いて切腹して責任をとったと伝わっています。

もっとも、その後の大坂の陣は徳川方の勝利に終わり、大和郡山城は6万石と共に水野勝成に与えられました。

このとき、大和郡山城は荒れ果てていたため、水野勝成は、幕府直轄事業として石垣と堀の、水野家の事業として本丸御殿・家中屋敷などの普請を行いました。

もっとも、水野勝成は、わずか5年で備後福山に移されました。

松平家時代(1619年~1639年)

その後、元和5年(1619年)、大坂城主であった松平忠明が12万石にて郡山に入封されます。

このとき、徳川家康の命により、伏見城から建物を移築しました。

本多家時代(1639年~1679年)

松平家時代(1679年~1685年)

本多家時代(1685年~1723年)

柳澤家時代(1724年~1869年)

享保9年(1724年)3月11日、柳澤吉里が、禁裏守護の大任にて15万石を与えられ、甲府から郡山に入封となります。

以降、大和郡山城は、柳澤家の居城として明治維新を迎えます。

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