【筒井順慶】洞ヶ峠を決め込むの語源となった大和国の戦国大名

筒井順慶をご存知ですか。

松永久秀と大和国の支配権を争い、最終的には大和国一国を勝ち取った武将なのですが、松永久秀と比べると知名度はイマイチです。

また、業績よりも「洞ヶ峠を決め込む」との語源となったパッとしないエピソードの方が有名かもしれません。

本稿では、隠れた偉人と呼べるかもしれない筒井順慶の生涯について簡単に説明していきたいと思います。

筒井順慶の出自

出生(1549年3月)

筒井順慶は、天文18年(1549年)3月3日、大和国・興福寺一乗院に属する有力宗徒で宗徒の取締役として筒井城を拠点に武士化した筒井順昭の子として生まれます。

この当時の大和国は、独自の強大な経済力・軍事力を有する東大寺・興福寺や、宗教勢力を基礎とする「大和四家」と呼ばれる筒井家、越智家、箸尾家、十市家などが強い勢力を持っており、武士の統治を許さない宗教勢力の国となっていました。

筒井順慶家督を継ぐ(1550年)

天文19年(1550年)、父・筒井順昭が28歳の若さで病死したため、僅か2歳の筒井順慶が筒井家の家督を継ぐこととなります。

当然、2歳の子供に政治ができるはずがありませんので、叔父の筒井順政の後見の下で筒井家の運営がなされます。

なお、筒井順慶は、藤勝、藤政、順慶(号)と名を変えていますが、本稿では便宜上「順慶」の名で統一します。

松永久秀との大和国攻防戦

松永久秀の大和侵攻(1559年〜)

細川晴元・将軍足利義輝を追放し、畿内において事実上の三好政権を樹立させた三好長慶は、松永久秀に命じて大和国の宗教勢力にも手を入れ始めます。

そして、松永久秀は、永禄2年(1559年)、大和国侵攻を開始し、筒井家の所領や大和守護の座にあった興福寺の所領を取り込んでいき、武士の力によって大和国の統一を進めていきます。

さらに、松永久秀は、その本拠地を大和国・信貴山城に移した上、永禄3年(1560年)には大和国の東大寺と興福寺の目の前に多聞城(多聞山城とも言います。)を築いて牽制し、大和国の武家支配権を確立していきます。

そこ結果、永禄5年(1562年)、筒井氏と協力関係にあった大和四家の1人であった十市遠勝が松永久秀の軍門に下るなど、大和国は次々に松永久秀に侵略されていきます。

そんな中、筒井順慶に更なる悲劇が襲います。永禄7年(1564年)には筒井順慶の後見人であった叔父の筒井順政が死去したのです。

筒井順慶、満身創痍です。

本拠・筒井城落城(1565年11月18日)

事実上の天下人三好長慶は、永禄7年(1564年)7月4日に病により急死し、これを好機と見た室町幕府将軍・足利義輝が将軍権威の回復のために動きだしたのですが、翌永禄8年(1565年)8月、逆に三好家の重臣であった三好三人衆と松永久通に暗殺されるという事件が起こります(永禄の変)。

こうして政敵を排除した三好政権ですが、敵がいなくなったことから、今度は内部で権力争いをはじめます。

そして、永禄8年(1565年)11月16日、三好政権下の有力者である松永久秀と三好三人衆との関係が決裂します。

このとき、一方勢力の松永久秀が、同年11月18日、自勢力の拡大を図るため、勢力を失いつつある筒井順慶の居城・筒井城を奇襲し、これを攻略します(第6次筒井城の戦い)。

居城を追われた筒井順慶は、一族の布施左京進が守る布施城まで落ち延びます。なお、このとき筒井城の戦いに敗れた筒井順慶の下から、箸尾高春や高田当次郎などの臣下が出奔しています。

筒井城を奪還する(1566年6月)

松永久秀に本拠・筒井城を奪われた筒井順慶は、松永久秀の政敵である三好三人衆に接近し、筒井城の奪還を目指します。

永禄9年(1566年)4月11日から21日にかけて、松永久秀軍と三好三人衆軍との間で戦闘が行われ、三好三人衆が美濃庄城を孤立させて降伏させます。

そして、その勢いで筒井順慶と三好三人衆は、筒井順慶の旧本拠であった筒井城へ迫ります。

このとき、松永久秀は、河内国において三好義継と戦闘をし、また阿波三好家の重臣・篠原長房の進軍の対応に追われていたために筒井城の救援に向かえませんでした。

筒井順慶は、筒井城の周囲を焼き払い、外堀を埋めた後、筒井城へ攻めかかり、永禄9年(1566年)6月8日ついに念願の筒井城の奪還を果たしました。

筒井順慶に改名

筒井城を奪還した筒井順慶は、春日大社に戦勝報告を行い、そこで、宗慶大僧都を戒師として得度し、名を筒井藤政から筒井陽舜房順慶に改めました。

東大寺の戦い(1567年4月~10月)

筒井城の奪還を果たした筒井順慶でしたが、その後も大和国内で、筒井順慶(及びその背後にいる三好三人衆)と松永久秀との対立は続きます。

永禄10年(1567年)4月11日に松永久秀と三好義継が多聞山城に入城したたため、これを攻撃するため、筒井順慶は、三好三人衆・摂津国の池田勝正らと共に、南側から2万人の兵でこれに迫ります。

これに対し、松永久秀側も、居城である多聞城を出て東大寺転害門、戒壇院に籠って防戦にあたります。

なお、このとき筒井順慶・池田勝正・三好政康は、東大寺南側の大乗院山・天満山に布陣し、東大寺内を要塞化して立てこもっています。

この結果、東大寺付近にて両陣営が対峙することとなったのですが、同年4月18日ころから小規模の市街戦とにらみ合いが続き、戦線が膠着します。

そして、半年後、この膠着が解けます。

同年10月10日、松永久秀が東大寺に討ち入り、そのまま筒井・池田・三好軍の陣営に夜襲をかけたのです。

不意を突かれた筒井・池田・三好軍は大混乱に陥ります。

このとき、東大寺大仏殿に火が付き、大仏殿、伽藍、念仏堂、大菩薩院、四聖坊、安楽坊などの東大寺内のほとんどの建築物が灰となりました。

筒井・池田・三好軍は、総崩れとなり、各々が壊走する結果となり、筒井順慶も筒井城に逃げ帰ることとなりました。

こうして東大寺の戦いは、筒井順慶方の敗北、松永久秀方の勝利に終わります。

松永久秀が織田信長に降る(1568年)

その後、三好三人衆・筒井連合軍と松永久秀軍との小規模な戦いは断続的に続いていたのですが、1568年(永禄11年)6月29日、信貴山城の戦いで信貴山城が落城し、また多聞城にも攻め寄せられていたことにより筒井順慶の属する三好三人衆側が優位に進んでいきます。

松永久秀は窮地に陥ります。

ここで、松永久秀が運命の一手を打ち、状況が一変します。

松永久秀が織田信長と手を結んだのです。

これによって、三好三人衆と筒井順慶の戦況が一気に悪化します。

織田信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した後、畿内から三好三人衆を含めた抵抗勢力を駆逐してまたたく間に畿内を制圧します。

織田信長は、臣従した松永久秀に対して、大和一国を「切り取り次第」としてその支配を認め、松永久秀の大和国攻略を助けます。

織田信長の助けを受けて、松永久秀は次々と大和国を攻略し、ついには筒井順慶の居城・筒井城にも迫ったため、抗しきれないと判断した筒井順慶は、筒井城を捨てて叔父の福住城主・福住順弘の下へと落ちのびます。なお、これにより、菅田備前守などの家臣が筒井順慶を見限って離反しています。

そして、同年10月10日には、織田信長軍の佐久間信盛、細川藤孝の2万が大和国に押し寄せ、以降、本格的に大和国が侵攻されていきます。

これに対して、福住城にいた筒井順慶も、永禄12年(1569年)に十市城を、元亀元年(1570年)に窪之庄城を奪還したり、椿尾上城を築城するなどして対抗します。

また、筒井順慶は、元亀2年(1571年)には、松永久秀軍の主力が河内国に出陣している隙をついて、松永久秀の居城である多聞城の近くに辰市城(現在の奈良市西九条町)を築いて松永久秀を脅かします。

織田信長に臣従し松永久秀と和睦する(1571年10月)

そんな筒井順慶も、遂に織田信長の軍事力に抗しきれなくなり、元亀2年(1571年)10月25日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従します。

これにより、同じく織田信長の軍門に降っていた松永久秀との間に和睦が成立します。

松永久秀謀反(1572年4月)

ところが、元亀3年(1572年)4月、松永久秀が、三好義継、三好三人衆らと組んで織田信長から離反します。

ところが、元亀4年(1573年)4月の武田信玄病死、同年7月の足利義昭京都を追放、同年11月の三好義継討伐(若江城の戦い)により、勝ち目がないことを悟った松永久秀が、同年12月、居城・多聞城を明け渡すことを条件に再度織田信長に降伏します。

なお、筒井順慶は、この松永久秀討伐に際し、松永方であった河内国・交野城を攻略する活躍をしたとされますが、出典が町おこしのための偽文書で有名な椿井文書であるため真偽は不明です。

織田信長の臣下として各地を転戦する

この後、筒井順慶は、織田信長の傘下の武将として、各種侵攻作戦に参戦します。

天正3年(1575年)3月には大和守護となった塙直政の与力となり、同年5月の長篠の戦いに信長に鉄砲隊50人を供出し、また同年8月の越前一向一揆攻略にも塙直政が率いる大和軍勢総員の内の隊で参戦しています。

天正4年(1576年)5月10日、織田信長により大和国支配を任され、同時期に明智光秀の与力となります。

天正5年(1577年)2月に始まった織田信長による雑賀攻め(いわゆる雑賀の陣)には、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝らと共に海岸沿いの進軍を命じられ、その後同年3月1日に始まった紀州征伐では雑賀孫一の居城攻撃にも加わっています。

天正5年(1577年)、松永久秀が織田信長に対して再度反旗を翻した際には、信貴山城攻めの先鋒を務めています(信貴山城の戦い)。

同年10月10日、信貴山城が落城し、松永久秀父子は切腹または焼死したため、大和国平定が果たされます。

大和国全土を手に入れる

大和国獲得(1577年)

大和国が平定された後、筒井順慶は、織田信長から松永久秀討伐の論功行賞として大和一国を与えられます

なお、このころに織田信長から本城以外の破却命令が出されたことから、天正5年(1577年)6月ころ、低地にあり水害に弱い筒井城から居城を移転することを決めます。

そして、この後も、筒井順慶の織田信長の傘下の武将としての各種侵攻作戦参戦が続きます。

天正6年(1578年)6月に始まった神吉頼定が籠る播磨国神吉城攻めにも参戦し、その攻略に貢献し、帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧しています。

天正7年(1579年)には、織田信長に反逆した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加しています(有岡城の戦い)。

大和郡山城築城(1580年~)

天正8年(1580年)、筒井順慶は、郡山の地を次なる本拠と定め、大和郡山城の築城を開始し、天正11年(1583年)には3重の望楼型天守が完成したと言われています。

そして、筒井順慶は、筒井城をはじめとする支城群を破却し、築城した大和郡山城に移転します。

なお、同年11月7日付「国中一円筒井存知」の朱印状で正式に大和一国が任され、郡山城入城が言い渡されています。

その後の転戦

天正9年(1581年)9月に始まった伊賀侵攻(天正伊賀の乱)では、甲賀方面・信楽方面・加太方面・大和方面からの多重侵攻がなされたのですが、筒井順慶は3700人の兵を率いて大和方面からの侵攻を担当し、丹羽長秀・蒲生賢秀・多賀常則・京極高次らと共に名張郡を制圧しています。

なお、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣していた際に伊賀衆の夜襲を受けて1000人とも言われる兵を失い、筒井順慶自身も危機に陥いったが、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣に救われたと言われています(比自山城の戦い)。

天正10年(1582年)2月に始まる甲州征伐については、織田信長の出陣に同行するとされ、同年3月19日には上諏訪の法華寺に陣を構えています。

本能寺の変(1582年6月2日)

織田信長に臣従し、大和一国まで与えられた筒井順慶ですが、究極の決断を迫られる一大事件が起こります。

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が明智光秀の裏切りにあって本能寺で横死したのです(本能寺の変)。

筒井順慶は、織田信長の臣下ではありましたが、明智光秀の与力とされていたため、本能寺の変の後に明智光秀から自身に味方になって織田家中の各武将を討伐しようと誘われたのです。

寄親とは言え、主殺しの明智光秀にそうそう簡単に従えません。

そんな中で、筒井順慶は、中国侵攻作戦から戻った豊臣秀吉からも、一緒に明智光秀を討とうと誘われます。

究極の選択です。

明智光秀と豊臣秀吉の双方から加勢を求められた筒井家では、福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信らが集まり対応を協議します。

洞ヶ峠を決め込む

筒井順慶は、一度は寄親の明智側につくことを決めて山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めます。

もっとも、筒井順慶は、どちらに付くかを最終的に決め切ることができずに洞ヶ峠で日和見をします。

このことが、日和見する事を「洞ヶ峠」または「洞ヶ峠を決め込む」と表現することの語源となったと言われています。

明智光秀は、筒井順慶の加勢を期待して、河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、筒井順慶の動静を見守ったのですが、筒井順慶は静観の態度を崩しませんでした。

大和国の所領安堵(1582年7月)

結局、天正10年(1582年)6月13日、山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀を討ち、次期天下人への道を掴みます。

筒井順慶は、山崎の戦いで豊臣秀吉が勝利したのを確認すると、翌6月14日、急ぎ出立して豊臣秀吉がいる京都醍醐に向って拝謁します。

このとき、豊臣秀吉は、筒井順慶の遅い参陣を叱責します。

筒井順慶は、豊臣秀吉の叱責によって体調を崩し、その話が大和国一円に伝播して国内が困惑します。

その後、天正10年(1582年)6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、明智光秀を討った豊臣秀吉が一気に力を持つようになります。

そこで、同年7月11日、筒井順慶は、養子(従弟、甥でもあった)の筒井定次を人質に差し出し、豊臣秀吉に臣従して忠誠を誓います。

その結果、筒井順慶は、豊臣秀吉の下でなんとか大和国の所領を安堵されました。

筒井順慶の最期(1584年8月11日)

大和国獲得に人生を費やしてきた筒井順慶ですが、天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥すようになります。

その後も、病をおして豊臣秀吉の小牧・長久手の戦いへの出陣をしたりしていますが、無理をして転戦を重ねた筒井順慶は、さらに体調を悪化させ、大和国に帰還して間もなくの天正12年(1584年)8月11日病死します。享年36歳でした。

筒井順慶死亡後の筒井家

伊賀上野への転封(1585年8月)

筒井順慶が死亡したことにより、筒井家の家督は筒井定次が継ぎます。

筒井順慶の死後、跡を継いだ筒井定次と確執が生まれた重臣の島左近が筒井家を離れます。

そして、天正13年(1585年)閏8月18日、豊臣秀吉の畿内を一族譜代で固めるとの方針により、伊賀上野に20万石で転封されて移ります。

そして、大和郡山城には、豊臣秀吉の弟である大和大納言・豊臣秀長が入ります。

筒井家の断絶

慶長13年(1608年)、筒井家重臣の中坊秀祐が、家康に主君定次の悪政や鹿狩での倦怠などを訴えたため、筒井家は改易となります。

そして、筒井定次とその嫡男筒井順定は、陸奥磐城平藩預かりとなって幽閉された後、慶長20年(1615年)3月5日に切腹を命じられて筒井家直流は絶家しました。

なお、傍流である筒井順慶の養子で筒井定慶の弟の順斎(福住順弘の次男)は、徳川家康に仕え旗本1千石となって幕末まで続いています。

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