【高坂昌信(春日虎綱)】海津城を上杉謙信から守り抜いた智将

武田信玄・武田勝頼に仕えた武田四天王の1人で、武田二十四将でもある高坂昌信(春日虎綱)。

武名高い武将が煌めく武田家中で、イマイチ戦功が見えにくい武将でもあります。

なぜ、高坂昌信が武田四天王で武田二十四将なのでしょうか。

実は、突出した守りの武将なのです。引き際も完璧で「逃げ弾正」とも呼ばれます。

以下、そんな高坂昌信(春日虎綱)の生涯について見ていきましょう。

高坂昌信の出自

出生(1527年)

高坂昌信は、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の豪農・春日大隅貞広の子として生まれます。幼名は源五郎といいました。

なお、高坂昌信は、幼名の春日源五郎、元服して春日源助、そして「虎」の字を与えられて春日虎綱、その後香坂家を継いで香坂虎綱、復姓して春日虎綱と目まぐるしく名を変えています。なお、弾正忠を称して香坂弾正とも称しています(高坂は、香坂の誤記とも言われています。)。

また、出家して、香坂昌信(しょうしん)と号したとも言われています。

以上より、文書から確実に特定できる実名は出家前の「春日虎綱」のはずがですが、本項では便宜上もっとも有名な名である高坂昌信で表記を統一します。

春日家を追い出される(1542年)

高坂昌信は、父・春日大隈貞広に授かった最初の男子であったのですが、高坂昌信誕生以前に跡継ぎの男子に恵まれなかった春日大隈貞広は、娘(高坂昌信の姉)の夫である春日惣右衛門を婿養子に迎えていました。

そこで、春日家では、春日惣右衛門が長男、高坂昌信が次男となりました。

その後、春日大隈貞広が亡くなり、春日惣右衛門が春日家の家督を継いだのですが、養子ではなく実子の自分が家督を継ぐべきであると考えた高坂昌信は、天文11年(1542年)にその旨を武田家に訴えます。

この裁判で高坂昌信は敗訴し、春日家の家督を継ぐことはできなくなったのですが、さらにこの紛争により春日家にいることもできなくなってしまいました。

元服

ところが、人生はわからないもので、この裁判の敗訴が逆に高坂昌信の大出世に繋がります。

この裁判に武田信玄が関与しており、高坂昌信の立居振る舞い(見た目?)を気に入った武田信玄が、高坂昌信を将来の側近候補ともいえる奥近習とも言われる小姓に抜擢したからです。

そして、高坂昌信は、天文11年(1542年)から始まる武田信玄の本格的な信濃国侵攻作戦に同行することとなり、同年6月に始まる最初の諏訪侵攻作戦の前に元服し春日源助と名乗ります。

なお、有名な武田信玄と高坂昌信の衆道関係を示した文書とされる『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所所蔵文書)』にある、宛先の「春日源助」が高坂昌信であると考えられています。

武田信玄の下で大出世

侍大将となる(1552年)

その後、高坂昌信は、伝令、監察、敵軍への使者などを行う「御使番12衆」の1人に抜擢されます。

また、高坂昌信は、松本平侵攻戦の総決算として天文21年(1552年)に発生した小岩嶽城(信濃国安曇郡、現在の長野県安曇野市)攻めでは先鋒を務めたとも言われ、この功もあって50騎の足軽大将に抜擢された後、同年さらに150騎を預かる侍大将に出世します。

そして、このころに春日弾正忠を名乗るようになったといわれています。

小諸城代となる(1553年)

その後、上田原の戦い砥石崩れなどの敗戦を乗り越えた武田軍は、天文22年(1553年)に村上義清との最終決戦に取り掛かります。

高坂昌信は、このときに村上義清の居城である葛尾城に近い小諸城(現在の長野県小諸市)の城代に任命され、最前線の守りを任されます。

海津城代となる(1556年)

武田信玄は、村上義清との戦いを制してこれを越後に追放します。

続いて、武田信玄が北信濃への侵攻を開始したため、弘治2年(1556年)、越後国を治める上杉謙信との直接対決が始まります。

このとき、高坂昌信は、武田方の対上杉最前線拠点となる海津城の城代に任じられ、以降武田信玄の最大の敵である上杉謙信の攻撃を封じる盾となります。

なお、高坂昌信は、これ以降上杉謙信に対する備えの役割に全勢力をさかれることとなったため、ほぼ海津城から動くことができなくなります。

そのため、高坂昌信は、これ以降上杉謙信との合戦である川中島の戦い以外の武田家の合戦には、ほとんど参戦していません(というか、上杉謙信が強大過ぎて城を開けることができません。)。

なお、高坂昌信も、上杉謙信との戦いである永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いには参戦し、馬場信春とともに別働隊を指揮しています。この戦いの後、高坂昌信は、戦場に残された6000人とも8000人とも言われる遺体を敵味方の区別なく集めて葬ったとされ、そのときの供養の塚(甲越直戦之地の石碑)が現在も残っています。

香坂家の家督を継ぐ

海津城は、武田家本拠の甲斐国から遠くそれでいて大国の越後国にほど近い厳しい場所にあるのですが、海津城代となった高坂昌信は、ここを僅かな兵力で守らなければならないこととなりました。

海津城を守備するためには、まず地域の諸豪族を味方につける必要があります。

そこで、武田信玄は、高坂昌信に、滅亡した北信濃の名門在地豪族であった香坂宗重の娘と高坂昌信とを結婚させ、高坂昌信に香坂家を継がせます。

そして、高坂昌信は、このときに香坂弾正忠昌忠と改名しています。なお、その後、正確な時期は不明ですが、遅くとも永禄9年(1566年)9月ころまでに春日姓に復姓しています。

上杉謙信に対する盾となる

海津城代に任じられて以降、高坂昌信の人生は、上杉謙信から海津城を防衛することに費やされます。

海津城は、武田と上杉との境界にある武田方の最前線防衛拠点だったからです。

そして、この海津城の防衛が高坂昌信の最大の功績となります。

高坂昌信が海津城に入った後、上杉謙信が海津城を突破して武田領に進軍できたことはただの1度もないからです。

高坂昌信に攻城戦や野戦での目立った槍働きはありませんが、香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて北信濃の諸将を必要なところに必要な範囲で割り振って海津城を持ちこたえさせるという、地味でしんどい仕事を完璧にこなしたのです。

また、戦の場では常に敵味方の兵数や戦況などを把握し、敗戦やむなしと考えた場合には兵を引く際に敵の勢いを削ぎつつ味方の損害を最小限にとどめながら撤退するという職人技とも言える撤退術を発揮した名人でもありました(そのため「逃げ弾正」とも呼ばれました。)。

武田勝頼の下で

武田勝頼の下で次第に疎外される

甲斐武田家の絶対的な柱であった武田信玄が、元亀4年(1573年)4月12日、西上作戦中に志半ばで病に倒れ帰らぬ人となります。

武田信玄の死により、武田家は、武田勝頼が仮の当主(陣代)として継ぐこととなります。

そして、高坂昌信は、武田信玄亡き後も武田勝頼を盛り立て、海津城での上杉謙信の抑えの仕事を全うします。

もっとも、武田勝頼は、武田信玄以来の重臣たちと距離を置き始め、跡部勝資・長坂光堅らの特定の家臣を寵愛するようになったため、武田家臣団に綻びが生じ始めます。

長篠・設楽原の戦い(1575年5月)

そして、この綻びは天正3年(1575年)5月21日、運命の長篠・設楽原の戦いの敗戦の形で具現化します。

このとき。高坂家(春日家)からは高坂昌信ではなく、嫡男の春日昌澄が出陣し、高坂昌信は、長篠・設楽原に赴くことなく居城である海津城にとどまります。

これは、当時の武田家では、一門衆の武田信豊や穴山信君、武田勝頼譜代家臣の跡部勝資・長坂光堅らが台頭していたため、高坂昌信らの老臣は疎まれていたためと言われていますが、正確な理由はわかりません。

そして、長篠・設楽原戦いは武田家の大敗に終わり、武田家は有力家臣を失って領国内の動揺を招くこととなりました。

また、高坂家においても、嫡男の春日昌澄が戦死するという大損害を被っています。

高坂昌信は、8000人の兵を率いて、戦いに敗れて落ちてくる武田勝頼を駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)まで迎えに行ってその安全を確保し、共をする兵が敗残兵に見えないようにするために衣服・武具を整えた上で、同年6月2日に甲府まで送り届けています。

なお、このときに高坂昌信が、武田勝頼に対して、相模国の後北条氏との同盟を強化すること、戦死した内藤昌秀・山県昌景・馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、長篠設楽原での敗戦の責任者である一門衆の穴山信君と武田信豊を切腹させるよう申し立てたとも言われています。

甲陽軍鑑を口伝

高坂昌信は、長篠の戦いで名だたる武将を失った武田家の行く末を危惧し、武田勝頼やその寵愛を受ける跡部勝資・長坂光堅らに対する「諫言の書」として、口述記録による軍学書「甲陽軍鑑」の作成に取り掛かります。

甲陽軍鑑は、武田信玄、武田勝頼期の武田家の業績を記録したものでしたが、大作過ぎて高坂昌信のみによる完成はなされませんでした。

本編20巻59章あるうち、高坂昌信が53章までを作成し、54章から59章までを高坂昌信の死後に甥の春日惣次郎と家臣であった大蔵彦十郎が執筆を引き継ぎ完成されます。

そして、その後高坂昌信の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子のである小幡景憲がこれを入手・監修して発行されたと言われています。

高坂昌信の最期

高坂昌信死去(1578年6月14日)

その後、高坂昌信は、天正6年(1578年)に発生した上杉謙信死後の上杉家の家督争いである御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。

もっとも、これを最後に資料から名が現れなくなります。

そして、高坂昌信は、天正6年(1578年)6月14日に海津城において死去したとされています。

享年52歳でした。奇しくも高坂昌信を見出した主君・武田信玄と同じ年齢でなくなっています。

高坂昌信死亡後の高坂家(春日家)

高坂昌信の嫡男・春日昌澄が天正3年(1575年)5月21日き長篠・設楽原の戦いで戦死していますので、春日家の家督は次男の春日信達が継承します。

春日信達は、天正10年(1582年)3月に武田家が滅亡した後は森長可に臣従しますが、同年6月の本能寺の変後、上杉景勝に属して美濃に撤退する森長可を妨害したりして活躍しますが、後に自立を画策したことが発覚して上杉景勝に誅殺されて春日家嫡流が滅亡しています。

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