【山県昌景】武田四天王の1人である赤備え2代目大将

山県昌景(やまがたまさかげ)は、武田信玄に仕えた譜代家老衆の1人で後代に武田四天王の一人に数えられる猛将です。

戦国最強の武田軍の中でさらに最強部隊である赤備えを率い、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われ敵に恐れられた武将でもあります。

武田信玄に寵愛されて武田軍の領土拡大に大きく貢献するも、武田信玄の死後には跡を継いだ武田勝頼に疎まれ悲しい最期を遂げています。

山県昌景の出自

出生(1515年または1529年)

山県昌景は、永正12年(1515年)または享禄2年(1529年)、甲斐国・武田氏の譜代家老飯富氏に生まれます。

父は、武田信虎家臣の飯富道悦と言われていますが、飯富道悦は永正12年(1515年)10月17日の大井信達との戦いで死亡していますので、享禄2年出生説を前提とすると整合しません。

譜代家老・飯富虎昌の弟と伝えられていますが、これも兄とすると年齢差がありすぎるために甥とする説も有力です。

元服

山県昌景は、元服して飯富源四郎、通称三郎右兵衛尉と名乗ります(もっとも、本稿では便宜上、山県昌景で統一します。)。

武勇に優れ、最強の誉れ高い山県昌景ですが、風采はさえなかったと言われており、身長は130cm~140cmと小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われています。

武田信玄に仕える

成長した山県昌景は、武田信玄の近習として仕え、その後、武田信玄の若い側近家臣だけで構成される「御使番衆12人」の1人にも選任されます。

そして、信濃国に侵攻する武田軍の中で、上伊那侵攻作戦から従軍したようです。

武田信玄に寵愛される

150騎持の侍大将に抜擢(1552年)

その後、佐久盆地侵攻作戦松本平侵攻作戦・上田盆地侵攻作と続く武田信玄の信濃侵攻に従軍し、各地で武功を挙げた山県昌景は、天文21年(1552年)、譜代家老の家の出とはいえ次男以下では破格の騎馬150持の侍大将に抜擢されます。

その後も無双の武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたと伝わります。

下伊那・神之峰城攻略(1554年8月)

武田信玄は、上田盆地を獲得した天文22年(1553年)に下伊那地方の武将たちに降伏を求めたところ、下伊那の国衆達は次々と武田の軍門に下っていきます。

ところが、鈴岡城主・小笠原信定、神之峰城主・知久頼元、吉岡城の下条氏らが武田信玄に抵抗を示したため、武田信玄は、翌天文23年(1554年)、これら抵抗勢力を排除するため、下伊那へ侵攻します。

このとき、山県昌景が、知久頼元が守る神之峰城を攻めてこれを攻略するという武功を挙げています。

300騎持の侍大将に抜擢

また、山県昌景は、戦働きだけでなく、内政でもその手腕を発揮します。

弘治2年(1556年)8月2日、山県昌景は水科修理亮に対し与えられた信濃国・善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めています(なお、このときの名は当然飯富源四郎です。)。なお、これが確実な現存資料上の山県昌景の名が確認できる初見です。

永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗ります。

その後、さらなる戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられ、300騎持の大将となっています。

なお、川中島の戦いにおいて、山県昌景が上杉方の猛将・鬼小島弥太郎と一騎討ちを行ったが、その最中に武田信玄の嫡男・武田義信が窮地に陥ったところを目にし、鬼小島弥太郎に武田義信の窮地を救いに行くため勝負を預けたいと願い出たという逸話が残されています(甲越信戦録)。

飛騨国侵攻(1559年ころ~)

永禄2年(1559年)、山県昌景らが、安房峠の南側の大峠を越えて飛騨国に侵攻し、江馬氏をを下して傘下に収めます(江馬家後鑑錄)

その後も山県昌景は、度々飛騨国に侵攻し、永禄7年(1564年)、飛騨国内で大きな力を持っていた三木嗣頼を下して、同国に大きな影響力を及ぼします。なお、真偽は不明ですが、これらの飛騨攻めの際に疲弊して士気が下がっていた軍勢の前に現れた一匹の猿に導かれて入った温泉で兵の疲労が回復したという伝説があり、これが平湯温泉の始まりとされています。

義信事件(1565年10月)

川中島の戦いに大きな進展がなく、北進の足が止まった武田信玄は、今川義元を失って弱体化する今川家が治める駿河国を狙い始めます。

ところが、今川氏真の妹・嶺松院を正室としていた武田信玄の嫡男・武田義信が、武田信玄の駿河国侵攻に反対します。

そればかりか、武田義信は、傅役であった飯富虎昌(山県昌景の兄)・長坂勝繁・曽根周防守らと謀って武田信玄を亡き者としようとする謀反を計画します(甲陽軍鑑)。

もっとも、このクーデター計画は事前に露見して失敗に終わり、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌は切腹させられ、武田義信も同年10月19日に30歳の若さで死去しています(切腹か病死かは不明)。

なお、甲陽軍鑑では、山県昌景が、兄(または叔父)である飯富虎昌が関与していることをしった上でクーデターの陰謀があることを武田信玄に訴えたとされているのですが、本当のことはわかりません。

「赤備え」を任され山県昌景と改名

山県昌景は、義信事件を密告して武田信玄の暗殺を防いだ功により、武田譜代重臣でありながら武田信虎の代に後継ぎがなく絶えていた山県(山縣)の名跡を与えられ、山県昌景と名乗るようになります。

また、同時に飯富虎昌が率いていた数十騎の騎兵と赤備え部隊を引き継ぎます。

駿河国侵攻

山県昌景は、武田信玄が嫡男の命を奪ってまで欲した駿河国侵攻作戦にも当然従軍し、特に第3次駿河侵攻の前哨戦となる北条氏足止め戦国において起死回生の活躍をします。

具体的には、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城の包囲を解いて甲斐国へ退しようとする武田信玄とこれを殲滅しようとした北条氏との間で行われた戦国最大規模の山岳戦である三増峠の戦いでは、遊軍を率いて高地に陣取る北条軍を横撃して大混乱に陥らせ、武田軍を勝利に導くという大戦果を挙げます。

また、武田信玄に代わって諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者として活動したりもしています。

駿河国・江尻城代となる(1570年)

駿河国侵攻作戦により駿河国を獲得した武田信玄は、馬場信春に縄張りを命じて駿河国庵原郡江尻(現在の静岡県静岡市清水区江尻町)に江尻城を築城し、元亀元年(1570年)、山県昌景を江尻城代に任命します。

次の攻略目標が遠江国であったことから、最前線の城となります。

西上作戦(1572年10月3日〜)

(1)奥三河侵攻軍を率いる

元亀3年(1572年)10月3日、徳川家康が治める遠江国・三河国、さらには織田信長が治める美濃国の攻略のため、武田信玄が西上作戦を開始します。

武田信玄の作戦は、軍を3隊に分けて、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート(①)、伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート(②)、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート(③)の3つのルートからの同時侵攻するというものでした。

まず、甲斐国・躑躅ヶ崎館を出陣した武田軍は、途中諏訪郡・上原城を経由した後、信濃国・高遠城を越えたところで、まず秋山虎繁・山県昌景に8000人の兵を預けて南西方向へ向かわせます。

そして、その後、秋山虎繁隊を分離した山県昌景は、5000人の兵を率いてそのまま南下して奥三河に侵攻し、徳川氏の支城である武節城を攻略した上で、そのまま奥三河の豪族を取り込みつつ南進を続けます。

そして、その勢いで、東三河の重要支城である長篠城を攻略します。

その後、山県昌景は、遠江国の伊平城も攻略し、二俣城に向かい、武田信玄本隊・馬場信春隊と協力してこれを攻略します(二俣城の戦い)。

三方ヶ原の戦い(1571年12月22日)

二俣城攻略した武田信玄は、その3日後である元亀3年(1572年)12月22日に二俣城を出発すると、南にある徳川家康の居城・浜松城を無視して遠州平野内を西進し、さらに西にある吉田城へ向かうように西進していき、これを追って徳川家康が浜松城から織田方からの援軍を含む計1万1000人を率いて浜松城から出撃します。

浜松城を出た徳川・織田連合軍は、武田軍を追って鶴翼の陣を敷きながら、同日3時頃夕刻に三方ヶ原台地に進軍しますが、そこで魚鱗の陣を敷いた武田軍の待ち伏せに合います。

こうして始まった三方ヶ原の戦いは、武田軍の勝利に終わります(なお、甲陽軍鑑において、この戦いの最中で、山県昌景隊が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとするエピソードが記されていますが、その真偽は不明です。)。

敗れた徳川家康は三方ヶ原から退却し浜松城に向かって逃げていったため、山県昌景は、これを追って浜松城に辿り着きます。

ところが、浜松城に辿り着いた山県昌景は、城内にかがり火が焚かれ、城門が開かれた浜松城を目にして混乱します。

敗れ満身創痍であるはずの徳川方が、待ち伏せしているかのように見えます。

山県昌景は、徳川家康の誘いであるとの疑いを捨てきれなかったため、浜松城攻めを諦め撤退します。

武田信玄死去(1573年4月12日)

その後も西上作戦を決行して西に向かって進軍して行く武田軍でしたが、元亀4年(1573年)3月ころから武田信玄の体調が急激に悪化したため西上作戦を中断して甲斐国に戻ることに決まります。

ところが、元亀4年(1573年)4月12日、甲斐国への途上である信濃国・伊那郡駒場において武田信玄が死去します。

武田勝頼の下で疎まれる

勢力拡大政策の踏襲

武田信玄死亡後、武田信玄の遺命もあって、山県昌景が馬場信春と共に武田勝頼を補佐することになりました。

武田勝頼は、武田信玄が行なってきた勢力拡大政策を引き継いで積極的に周辺国と交戦していきましたので、山県昌景もそれに従って従軍します。

具体的には、天正元年(1573年)8月21日の三河国・長篠城への後詰、天正2年(1574年)の織田方の東美濃・明智城攻略(このとき、織田信長軍4万人を6000人で撃退したそうです。)などの活躍をしています。

また、内政でも力を発揮し、天正3年(1575年)に高野山成慶院に信玄の供養を依頼した際には、使者として高野山に上っています。

武田勝頼に疎まれ始める

もっとも、山県昌景らを含む武田信玄時代の譜代・重臣達は軒並み武田勝頼に疎まれ、その例に漏れず山県昌景も武田勝頼との折り合いが悪かったそうです。

武田勝頼は、その能力は高いのですが、偉大な先代の後継者ならではの発言力が強く自らに意見する重臣に苦慮し、次第にこれらを遠ざけるようになってしまったからです。

そして、武田勝頼は、武田信玄以来の重臣よりも、自らが育てた自負のある跡部勝資や長坂光堅らを重用していくようになります。

そして、この武田家臣団の軋轢は、武田家と山県昌景に最悪の結果をもたらします。

山県昌景の最期

撤退を進言するも退けられる

天正3年(1575年)5月、勢いに乗った武田勝頼は、三河侵攻作戦を開始し、武田軍が織田方に奪われていた長篠城を包囲したのですが、このとき畿内から援軍として織田信長の大軍が向かってきます。

このとき、山県昌景は、内藤昌秀、馬場信春、原昌胤らと共に、武田勝頼に対して勝ち目がないとして撤退を進言したのですが、武田勝頼の側近であった跡部勝資・長坂光堅が決戦を主張し、家臣団の意見が決裂します。

そして、武田勝頼は、跡部勝資・長坂光堅の意見を採用して決戦を決断します(甲陽軍鑑・当代記)。

設楽原決戦(1575年5月21日)

長篠城の包囲を解いて設楽原に向かう武田軍の中で、山県昌景は、自身の部隊300人を率い、原昌胤らと共に1500人の武田軍の左翼の中核を担います(甲陽軍鑑・長篠合戦図屏風)。

天正3年(1575年)5月21日九ツ始め(午前11時)、山県昌景隊率いる武田軍左翼1500人が、織田・徳川連合軍右翼(徳川方6000人)を攻撃することにより設楽原決戦が始まります(信長公記・松平記・大須賀記)。

山県昌景討ち死(1575年5月21日)

多大な損害の上、ようやく馬防柵を突破した山県昌景隊でしたが、同日未ノ刻(午後2時)ころ、馬上で指揮を採っていた山県昌景は、織田・徳川連合軍の鉄砲隊から放たれた銃弾を受けて討ち死にします。

そして、大将を失った山県昌景隊(赤備え)は、織田・徳川連合軍右翼の本多忠勝隊に壊滅させられます。

そして、そのまま設楽原決戦は織田・徳川連合軍の大勝利に終わります。

なお、山県昌景討ち死にを見た武田方では、その首を織田方に奪われないようにするため、家臣である志村又左衛門が山県昌景の首を落として甲斐国に持ち帰ったとされています(長篠合戦屏風に戦死した昌景の首級を家臣の志村又左衛門が敵に奪われない様持ち去る描写されています。)。

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