【三増峠の戦い】武田信玄が待ち伏せする北条軍を破った戦国最大規模の山岳戦

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)は、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城の包囲を解いて甲斐国へ退しようとする武田信玄とこれを殲滅しようとした北条氏との間で行われた戦国最大規模の山岳戦です。

同時に行っていた武田家による第3次駿河侵攻作戦の一環として、北条軍を相模国に止めて駿河国の援軍に向かわせないために行われた一連の武蔵国・相模国侵攻の総仕上げです。

戦術的に見ても武田軍の勝利なのですが、北条・上杉間に亀裂を生じさせ駿河への影響力を強めたという戦略的に見ても極めて大きな意味を持つ勝利です。

なお、本稿がどの段階の話であるについては、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

三増峠の戦いに至る経緯

甲相駿三国同盟の破棄(1568年)

5回の川中島の戦いを経て越後攻略が困難と見た武田信玄は、甲駿同盟を破棄し、桶狭間の戦いのあと弱体化する今川家の駿河国へ侵攻することを決定します。

そして、永禄11年(1568年)ころ、武田信玄は、徳川家康に双方から攻め込むことによって今川領を切り取ることにより今川領の分割しようと持ちかけた上(駿河国を武田の、遠江国を徳川の領有とする。)、共同して今川領国への侵攻を開始します(第1次駿河侵攻)。

この武田氏の駿河侵攻は、武田・北条の甲相同盟の破棄をも招き、甲相駿三国同盟が完全に破綻します。

なお、この後、永禄12年(1569年)に、武田家を共通の敵とする北条氏康と上杉謙信が越相同盟を締結しています。

武田信玄の第3次駿河侵攻(1569年)

武田信玄は、永禄12年(1569年)、3度目の駿河侵攻作戦を展開していたのですが、駿河国に出てくる北条軍の援軍を牽制しこれを排除するため、東関東の反北条勢力と同盟を結んで北条領への侵攻と小田原城攻めを決めます。

この小田原攻めは、武田信玄が、2万人を率いて信濃国・佐久郡から碓氷峠を越え西上野に侵攻し、相模国・小田原城を目指し、途中にある北条方の支城を攻撃しながら南下をしていくことで始まります。

鉢形城包囲戦(1569年9月10日)

西上野に入った武田軍は、永禄12年(1569年)9月9日に御岳城を、また翌同年9月10日には、北条氏邦の守る鉢形城を包囲します。

このとき、北条方では、越相同盟に基づいて上杉謙信に対して何度も援軍要請をしたのですが、越中攻めに謀殺されていたこと、上杉謙信が同年7月に将軍足利義昭の命により武田氏との和議である「甲越和与」を締結していたことから、上杉謙信からの援軍はついに得られませんでした。

他方、御岳城・鉢形城を囲む武田軍としても、早期にこれらの城を攻略できるメドが立たなかったため、これらの城の攻略は諦め、進軍を優先します。

滝山城攻城戦(1569年10月1日)

鉢形城攻略を諦めて南進を開始した武田軍は、次に北条氏照が治める滝山城を攻撃するため、滝山城の北にある拝島町に陣を敷きます。

このとき、滝山城に取り付いた武田軍本体(碓氷峠を越えてきた軍)とは別に、同年9月20日に岩殿城を出発した小山田信茂率いる別動隊1000人が、同年10月1日、小仏峠を越えて駒木野から現れます。

北条方は、一応、高尾山麗の廿里山に廿里砦(現在の八王子市廿里町・廿里古戦場近辺:JR高尾駅の約400m北側付近)を用意していたものの、甲州口を重視していなかったためにその防備は薄く、小仏峠を越えてきた武田軍に対応ができません。

1569年(永禄12年)10月1日、予想外の方向から攻撃を受けた廿里砦は混乱してすぐに陥落し、廿里砦は武田軍別動隊の手に落ち、滝山城からの援軍部隊2000人も既に廿里砦に籠って迎撃態勢を敷いていた武田軍別動隊の待ち伏せ攻撃を受け返り討ちに遭います(廿里の戦い)

廿里合戦(廿里の戦い)の勝利に勢いづいた武田軍別動隊は、そのまま北条氏照の守る滝山城に攻め込み、ここに北側からの武田軍本体の攻撃が加わったため滝山城は三の丸まで攻めたてられることとなりました。

もっとも、滝山城の堅牢さから、同城攻略に今しばらく時間がかかると判断した武田信玄は、滝山城攻撃をやめて小田原城攻撃に向かったため、何とか滝山城の陥落は阻止されています。

小田原城包囲戦(1569年10月1日〜)

滝山城の囲みを解いた武田軍は、1569年(永禄12年)10月1日、犬越路を通って北条氏康のいる小田原城に取り付きこれを囲みます(このときはまだ小田原城の総構えが完成前であったため2万人での包囲が可能でした。)。

小田原城を包囲した武田信玄は、野戦で決着をつけようとして北条方を挑発して北条軍が城から討って出る事を誘いましたが、北条氏康はこの挑発を無視し、北条軍が小田原城を出ることはありませんでした。

武田信玄は、そのまま小田原城に止まれば放置してきた鉢形城・滝山城等の支城軍からの後詰により挟撃され危険であると判断し、北条軍が小田原城から出てくる気配がないため小田原城を陥落させることは困難との決断を下します。

そこで、武田信玄は、小田原城包囲開始の僅か4日後である同年10月5日、小田原城下に火を放った上で、小田原城の包囲を解き甲斐国への撤退を開始します。

武田信玄が退却路として選んだのは、小田原城から甲斐国へ戻る最短ルートである相模川を北上して甲斐国に戻るルートでした。

三増峠の戦い

北条氏邦・北条氏照の待ち伏せ

武田軍が小田原城から引き上げるのを見た北条方では、一方的に進軍してきた武田軍への恨みの追撃戦を敢行します。

狙いは、挟撃での武田軍殲滅です。

北条方の具体的な策は、支城の兵で甲斐国に戻る帰路にある三増峠で武田軍待ち伏せして足止めし、これを小田原城から追ってくる北条氏政率いる2万人が後方から攻撃して挟撃・殲滅するというものでした。

そのため、北条方は、まず鉢形城の北条氏邦・滝山城の北条氏照が率いる2万人を高所となる三増峠(相模原市緑区根小屋 – 愛甲郡愛川町三増)に布陣させます。

そして、少し遅れて小田原城から北条氏政率いる2万人が武田軍を追って小田原を出陣します。

武田信玄の対応策(1569年10月6日)

ところが、永禄12年(1569年)10月6日、小田原城から引き上げてきて三増峠に達した武田信玄は、三増峠に布陣した北条氏邦・北条氏照隊を見て、北条方の挟撃策を見抜きます。

武田信玄は、挟撃による混乱を避けるため、急ぎ面前の三増峠に布陣する北条氏邦・北条氏照隊を打ち払うことを決めます。

このときの武田信玄の策は次のとおりでした。

武田軍を3隊に分け、1隊を小幡憲重・加藤景忠らに預けて津久井城の抑えに向かわせて北条方の後詰が入るのを防ぎ、1隊は武田信玄率いる本隊として北条氏邦・北条氏照隊と決戦する部隊とし、残る1隊は山県昌景率いる遊軍として山中に隠して武田軍本隊と交戦する北条軍を横撃するという作戦でした。

三増峠の戦い(1569年10月8日)

そして、永禄12年(1569年)10月8日、三増峠において対陣していた北条氏邦・北条氏照と武田信玄隊との間で本格的な戦いが始まります。

開戦当初は、高地に陣を敷く北条氏邦・北条氏照方が有利に展開します。

高地からの攻撃に武田信玄隊は苦戦し、北条方の北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、武田軍左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にするという損害が発生します。

ところが、ここで山県昌景率いる武田の別働隊が、志田峠 (三増峠南西約1km) から北条方に奇襲を加えると戦況は一変します。

予想外の方向(北条軍の陣よりさらに高所)からの攻撃を受けた北条軍は大混乱に陥り、次々と戦線が崩壊します。

北条方では、崩れそうになる戦線を立て直すため、予備兵を入れていた津久井城に後詰を要請しますが、津久井城も小幡信貞、加藤景忠ら武田軍別働隊に抑えられているため救援に出られませんでした。

このまま混乱して指揮系統が崩壊した北条方は総崩れとなり、三増峠の戦いは武田軍の勝利に終わります。

なお、三増峠の戦いの終盤、小田原から追撃してきた北条氏政率いる2万人が荻野(厚木市)まで迫ったのですが、三増峠での北条氏邦・北条氏照隊の敗戦を聞き、進軍を停止して小田原城に撤退しています。

こうして、三増峠の戦いの勝利と北条氏政隊の撤退により危機を脱した武田信玄は、反畑(相模原市緑区)まで進んだところで勝ち鬨を挙げ、甲斐国に撤退しています。

三増峠の戦いの評価

戦術的評価

三増峠の戦いは、戦術的に見ると、双方が峠の高低差を利用して作戦立案をし戦った戦国最大規模の山岳戦として知られています。

合戦自体を戦術的に見ると、追撃する北条軍を撃退したという武田信玄の軍略が冴え渡った武田軍の大勝利であったものの、家中の有力武将である浅利信種が戦死するなど、勝者である武田軍にとっても失ったものは大き家戦いであったといえます。

実際、武田四天王の1人である重臣・高坂昌信は、その意味について疑問を持っています。

戦略的評価

他方、三増峠の戦いに繋がった武田信玄の北条領侵攻の目的は、同時平行で行われていた駿河侵攻に北条軍が参加するのを防いで武田家の優位性を獲得するためにあったところ、この戦いにより北条軍を足止めしたため、武田軍が、永禄12年(1569年)11月に駿河国の横山城・蒲原城などを攻略して駿府を占領し、永禄13年(1570年)1月には駿河西部に進出して花沢城・徳之一色城(後の田中城)を攻略して駿河を完全に支配下に置いていることから、戦略目的を達した重要な勝ち戦であったと評価できます。

また、武田信玄は、「甲越和与」の存在によって上杉謙信が北条氏康からの援軍要請を拒否すると踏み、武田信玄の小田原攻めにより北条家と上杉家との関係を悪化させる意図もありました。

実際、三増峠の戦いの2年後には、北条家が上杉家と手切りをして武田家と再同盟する結果となり、その意味でも戦略的に見て極めて重要な戦いでした。

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