【野良田の戦い】北近江の浅井家支配を確立させた浅井長政の大勝利

野良田の戦い(のらだのたたかい)は、永禄3年(1560年)8月中旬に近江国・野良田一帯で行なわれた北近江の浅井長政軍と南近江の六角承禎軍との合戦です。

浅井長政が、初陣として指揮し、倍を超える兵を要した六角軍を起死回生の一手で打ち破っています。

浅井長政が、浅井家内での信頼を得ると共に、北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めることとなったターニングポイントとなる戦いです。

野良田の戦いに至る経緯

北近江での浅井亮政の下克上

北近江の雄・浅井家の活躍は、浅井亮政(浅井長政の祖父)より始まります。

浅井家は、元々北近江の守護職にあった京極家の被官だったのですが、京極家のお家騒動をきっかけとして浅井亮政が国人の盟主となって京極家中における実権を一手に掌握します。

北近江において勢力を高めた浅井亮政は、さらに主家である京極氏の有力家臣までも取り込んでいき、遂には京極氏を傀儡とすることによって浅井家を戦国大名へと成長させます。主家の衰退に乗じた下克上の達成です。

浅井久政が南近江の六角家に臣従

ところが、天文11年(1542年)に浅井亮政が死亡し、その子・浅井久政(浅井長政の父)が家督を継ぐと、浅井家の勢力は急激に衰えます。

浅井家の当主が浅井久政に代わったことにより浅井亮政の脅威が去ったと判断した六角家は、北近江への侵攻を始めます。

特に、天文21年(1552年)に六角義賢が六角家の当主となった後はその傾向は顕著となり、六角家に抗しきれなくなった北近江・浅井家は南近江六角家に従属することとなります。

このとき、六角家は、浅井家が六角家の臣下であることを明確化するため、浅井家の嫡男であった猿夜叉丸(後の浅井長政)の元服に際して六角家当主・六角義賢(弘治3年・1557年に隠居・剃髪して承禎と号しています。)の一字を与えて浅井賢政と名乗らせ、またその正室として六角家家臣の平井定武の娘を娶らせます。

クーデターで浅井長政擁立(1559年)

この浅井久政の屈辱的外交政策に対し、浅井家内で不満が高まります。

そして遂に、永禄2年(1559年)、浅井久政に不満を持つ家臣団が、浅井賢政(後の浅井長政)を担いでクーデターを起こします。

浅井家臣団は団結して浅井久政を強制的に隠居をせまって浅井賢政に家督を譲らせます。

なお、ここで浅井賢政は、六角家との決別のために平井夫人を六角家に送り返します(また,後に六角義賢からもらった「賢」の字を捨てて浅井長政と改名します。)

六角家中の切り崩し

浅井長政は、クーデターと同時に浅井・六角領の境界線に位置する六角家の国人領主に調略をしかけ、これによって愛知郡肥田城主・高野瀬備前守秀隆を浅井家に寝返らせます。

六角承禎の肥田城水攻め(1559年)

六角承禎は、浅井長政の決別宣言と高野備前守の浅井方への寝返りに激怒し、すぐに肥田城に攻め寄せ、永禄2年(1559年)同城への力攻めを開始します。

ところが、肥田城は、平城であったものの愛知川と宇曽川に挟まれた堅城であったため、六角承禎はなかなかこれを攻略できません。

力攻めでの肥田城攻略が困難と判断した六角承禎は、城の下手一帯に長さ58町(6.3km)・幅1間半(2.6m)と言われる規模の土塁を築いて宇曽川や愛知川の水を堰き入れ、水攻めでの肥田城攻略に戦略を変更します。なお、このとき築かれた土塁(堤)は、近年まで残されていたのですが、ほ場整備に伴い失われています。

ところが、洪水によって堤が決壊したことにより、肥田城の水攻めは失敗に終わり、六角承禎はこのときの肥田城攻略を諦め一旦居城・観音寺城に撤退します。

野良田の戦い

宇曾川を挟んで対峙

一旦は兵を引いた六角承禎でしたが、永禄3年(1560年) 8月、再び軍を整えて肥田城攻略に向かい兵を北上させます。

他方、肥田城城主・高野瀬秀隆は、この六角軍の侵攻に際してすぐさま浅井長政に対して援軍の要請を行ったため、浅井長政は肥田城の救援のために小谷城から出陣して兵を南下させます。

こうして、肥田城の後詰である浅井軍と、肥田城を攻める六角軍とが、肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯・野良田表(現在の滋賀県彦根市野良田町及び肥田町付近)で宇曾川を挟んで対峙することとなりました。

野良田の戦い開戦(1560年8月中旬)

この時の六角軍は、六角承禎を総大将とする2万5000人で、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔という布陣でした。

対する浅井軍は、浅井長政を総大将とする1万1000人にすぎず、圧倒的に六角軍が有利な状態でした。なお、このときの国力を考えると、いずれの兵数も誇張があると考えられるのですが、いずれにせよ浅井方が圧倒的に寡兵であったことは間違いないと思います。

1560年8月中旬、この状況下で、浅井方の百々内蔵助と六角方の蒲生右兵衛太夫との間をそれぞれの先駆けとして野良田の戦いが始まります。

この戦いが、浅井長政の初陣です。

緒戦では、兵力に勝る六角軍が浅井軍を押し込んでいき、浅井軍の先駆隊指揮官の百々内蔵助が討ち死にします。

野良田の戦いの決着

総崩れの危機に陥った浅井方では、総大将の浅井長政が先頭に立って鼓舞して指揮を高めるなどして戦線を維持し、野良田一帯で六角軍と浅井軍との大混戦となります。

ここでも兵力に劣る浅井軍が押されていくのですが、混乱に乗じて浅井長政は起死回生の一手を打ちます。

精兵のみで組織した軍をまとめ、六角承禎本隊の一点突破を敢行することとしたのです。

この浅井長政の一手は見事に成功します。

戦いを有利に進めていた六角承禎、混戦の中から突然現れた浅井軍突撃隊の攻撃に大混乱に陥ります。

結局、この混乱を治められなかった六角軍は、そのまま総崩れとなって敗走し、野良田の戦いは浅井長政の勝利に終わります。

この戦いで、六角軍は920人もの死者を出したと言われていますが、浅井軍の被害も大きく浅井方にも400人を超える死者が出たと言われています(江濃記)。

野良田の戦いの結果

浅井家の飛躍

野良田表の戦いで六角承禎を退けた浅井長政は、そのまま犬上郡・愛知郡を獲得し、湖東平野に大きく勢力を伸張させます。

また、初陣で2倍以上の兵を打ち破った浅井長政の武名は、浅井家中でも特別視されていきます。

そのため、野良田表の戦いによって浅井長政は、浅井家内での信頼を得ると共に、北近江の戦国大名として揺るぎない地歩を固めることとなったのです。

もっとも、浅井長政は、ここで情を捨て切れずに父・浅井久政を完全に排除することなくその影響力・発言力を残してしまったため、後にこれが織田信長との破局と浅井家の滅亡につながってしまいます。

六角家の凋落

他方、倍を超える兵力で元臣下に敗れた六角家ては、六角承禎の権威が失墜し、家中が大きく動揺します。

さらに、この後、六角義治の婚姻問題などで六角承禎と六角義治の対立が深刻化し、観音寺騒動と呼ばれるお家騒動によって六角承禎・六角義治父子は居城の観音寺城を追われる事態にまで陥ります。

このときは、六角家重臣・蒲生定秀の尽力により観音寺城への復帰を果たしますが、名門六角家の衰退は明らかなものとなります。

その後も権威・勢力を回復できなかった六角家は、永禄11年(1568年)9月に、足利義昭を奉じて上洛しようとする織田信長を阻もうとして抗戦して敗れて南近江国を失います(観音寺城の戦い)。

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