【観音寺城の戦い】織田信長の上洛のための南近江国(六角氏)攻略戦

尾張国と美濃国とを手に入れて勢いに乗る織田信長は、天下統一に向けて動き出します。

足利義昭という絶好の神輿を手にして迎えた上洛作戦の初戦は、南近江を治める六角氏です。

本稿では、この天下統一戦の始まりとなる、南近江攻略戦(観音寺城の戦い・箕作城の戦い)について見ていきます。

織田信長の上洛作戦に至る経緯

織田信長の天下布武の野望

尾張を統一し、美濃を平定した織田信長は、武力をもって天下を統一する(京を含めた畿内を支配する)ことを目標に掲げます。また、このときから、天下布武の印を使い始めたのは有名な話です。

もっとも、当時は、全国に戦国大名が群雄割拠しており、領国を越えて自由に移動することはできません。

仮に、軍を率いて他領に入れば、他国から宣戦布告とみなされ、戦いになります。

そこで、織田信長が、自らの野望を実現するために京に向かう(上洛する)ためには、岐阜から京に向かう道中の全ての敵勢力を滅ぼすか、上洛の大義名分を得て京に向かうルートにいる大名に手出しをさせないようにするかのいずれかの方法が必要です。

当然ですが、尾張国・美濃国を手に入れた織田信長といえども、京に至る道中の全ての勢力を滅ぼしながら進んで行くのは相当大変ですので、織田信長は上洛手段を検討します。

北近江の安全確保(浅井長政と同盟、1567年9月)

織田信長は、北伊勢安全を確保することから上洛ルートの確保を始めます。

また、永禄10年(1567年)9月ころ、美濃福束城主・市橋長利を介して妹であるお市の方を北近江を治める浅井氏当主の浅井長政に輿入れさせ、織田家と浅井家との同盟を締結します。

織田信長が上洛の大義名分を得る

永禄11年(1568年)6月ころ、そんな織田信長の下に、紆余曲折を経た足利義昭やってきます。

足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたのですが(一乗院覚慶と名乗っていました。)、永禄8年(1565年)5月19日、室町幕府13代将軍の兄・足利義輝が三好三人衆に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった際、甲賀武士・和田惟政らによって奈良を脱出し、以後約3年間にわたる漂流生活が始まりました。

足利義昭は、奈良を出た後、まずは近江甲賀郡和田城へ赴いたのですが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えます。

そして、一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようですが、六角義治が敵対する三好三人衆と通じていることを擦知すると、越前朝倉氏当主であった朝倉義景を頼りました。

もっとも、朝倉義景が動かないと分かったため、今度は織田信長を頼るようになったというのが、足利義昭が織田信長の下へ到達するに至った経緯です。なお、このとき、足利義昭と織田信長との間を取り持ったのが明智光秀と言われています。

 

織田信長1回目の上洛作戦

浅井長政との同盟により本拠地である岐阜から北近江までのルートを確保した織田信長は、上洛の神輿として足利義昭の名を使い、まずは外交ルートを用いて上洛のための行動に出ます。

具体的には、永禄11年(1568年)8月5日、馬廻り衆250騎を引き連れて本拠地・岐阜を出発し、京に向かって進んでいきます。

そして、織田信長は、同年8月7日、佐和山城に着陣します。

佐和山城に入った織田信長は、南近江国の通行の許可を得るべく、観音寺城にいる南近江国を治める六角義賢・六角義治親子に、足利義昭の近臣である和田惟政に家臣3名をつけて、六角義賢が人質を出したうえで上洛軍に加わってくれれば摂津国を与えた上で幕府の侍所の所司代に任命するとの好条件を提示した上、足利義昭の上洛を助けるように使者を送りました。

しかし、六角義賢・六角義治親子は織田信長の申し出を拒絶します。

織田信長が着陣する少し前に、足利義昭と対立する三好三人衆と篠原長房が六角方の観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する対応の評議を行っていたからです。

申出を拒絶された織田信長は、再度使者を送って再度入洛を助けるよう要請しましたが、今度は六角方は、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまいました。

その結果、織田信長は、外交ルートでの南近江国通過は困難と考え、軍事ルート(力づく)での通過を決定します。

そして、織田信長は、軍事作戦の準備のため、佐和山城をあとにして一旦岐阜城に帰国します。

 

織田信長2回目の上洛作戦(観音寺城合戦前)

織田軍の陣営

織田信長は、本拠地岐阜に戻って兵を整え、永禄11年(1568年)9月7日、六角氏討伐及び南近江国平定のため、 1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立します。

そして、この織田信長軍に徳川家康の援軍1000人(率いるのは一族の松平信一)、浅井長政の援軍3000人が加わります。

また、これらに加えて、将軍の上洛軍であったため、尾張、美濃、北伊勢、北近江の浅井軍、三河などから義勇兵の参陣が相次ぎ、軍勢が膨れ上がります。

遂には、その総数が5〜6万人まで膨れ上がったと言われています。

勢いに乗る織田信長軍は、翌同年9月8日は高宮(現在の滋賀県彦根市)に、また同年9月11日には愛知川北岸に進出しました。

目指すは観音寺城です。

観音寺城は、標高433mの繖山(きぬがさやま)全体に曲輪を築いて造られた戦国時代最大級の山城です。

日本で初めて築かれた本格的な高石垣が山中に残ることでも有名です。

正確な築城時期はわかっていませんが、建武2年(1335年)ころ宇多源氏の流れを汲む近江国守護・佐々木六角氏により築かれたと考えられており、文明3年(1471年)ころには六角氏の居城として石垣・土塁の改修が繰り返されていたという記録もあります。

六角軍の陣営

対する六角側は、織田軍が愛知川北岸に進軍してきたことから、六角方は、織田信長がまずは愛知川の対岸(南側)にある和田山城を攻撃すると考えました。おそらく六角方は、織田軍が5~6万人もの大軍に膨れ上がっているとまでは考えていなかったと思います。

そこで、六角軍は、主城の観音寺城と和田山城・箕作城を三角形で結んで相互に補う形で守る防衛形態をとり、和田山城で織田軍を足止めしたところを観音寺城と箕作城から出撃した兵で挟撃するという策をとります。

そのため、六角軍は、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6000人を置き、観音寺城に当主・六角義治、その父・六角義賢、弟・六角義定と馬廻り衆1000騎を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3000人をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に分け置くという布陣で臨みました。

南近江国侵攻開始(観音寺城の戦い)

ところが、5万人とも6万人ともいわれる織田軍は、六角側の想定を無視し、数に物を言わせた強硬手段で攻めてきます。

織田軍は、永禄11年(1568年)9月12日早朝、愛知川を渡河すると、軍を3隊に分け、六角方の拠点3城の同時侵攻作戦を仕掛けてきたのです。

具体的には、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、織田信長、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第3隊が箕作城にそれぞれ向かったのです。

箕作城の戦い(1568年9月12日)

戦端は、織田軍の主力が向かった箕作城でひらかれました。

箕作城では、木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始します。

もっとも、箕作城は、急坂や大木が覆う堅城であり守備隊の士気も高かったため、木下隊・丹羽隊は夕方までに追い返されてしまいます。

そこで、木下隊は、再度夜襲を決行し、7時間以上もの攻防戦の結果、箕作城は夜明け前に落城します。

和田山城開城(1568年9月13日)

箕作城落城の知らせは、直ちに和田山城にも届き、士気が低下したを和田山城城兵の逃亡が相次ぎ、和田山城は戦うことなく明け渡されます。

観音寺城開城(1568年9月13日)

六角方は、長期戦を予想していたのですが、僅か1日で防御拠点の2つである箕作城・和田山城が相次いで失われたことに驚愕します。

また、元々主力を和田山城に置いていたために観音寺城には兵力が少なく守りきれないと判断した六角義賢・六角義治は観音寺城を捨てて甲賀に逃走し、観音寺城の戦いは終わります。

なお、六角氏の居城が観音寺城であったため、この戦いは観音寺城の戦いと言われるのが一般的ですが、前記のとおり主戦城は箕作城であったため、別名として箕作城の戦いともいわれます。

その他の支城開城

当主六角義治を失った観音寺城の18の支城は、1城を除き織田軍に降ります。

ちなみに、抵抗する唯一の支城は、六角家老臣・蒲生賢秀が守る日野城です。

蒲生賢秀は、六角方敗北の知らせを聞いてもなお1000人の兵を率いて日野城での籠城し、抵抗する様子を見せます。

もっとも、蒲生賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が日野城に赴いて説得した結果、蒲生賢秀は降伏し、織田信長に人質(後の蒲生氏郷)を差出して忠節を誓い観音寺の戦いは終ります。

 

観音寺の戦いの後

観音寺の戦いの後、織田信長は、立政寺にいた足利義昭に使者を送って出立を促し京へ向かいます。なお、観音寺城を失った六角氏は、甲賀郡の石部城に拠点を移し浅井氏・朝倉氏と連携するなどして織田信長に対峙しますが(野洲河原の戦いなど)、本領を失ったことによる戦力低下を覆せず、戦国大名の名門六角氏は没落します。

その上で、永禄11年(1568年) 9月27日、織田信長と足利義昭は、大津にある三井寺に入った後、翌9月28日、相次いで入京し、足利義昭は東山の清水寺に、織田信長は東福寺に布陣します。

京に入った織田信長は、勝竜寺城の戦い・芥川城の戦いで、京で権勢を誇った三好三人衆を畿内から追放します。

そうして織田信長は畿内を掌握し、同年10月22日、足利義昭を飾りの征夷大将軍に就けて裏から権力を握ることとなるのです。

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