【勝竜寺城の戦い】織田信長上洛後の畿内統一戦の初戦

足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、そのまま京に残って畿内の抵抗の排除を始めます。

最初のターゲットは、当時畿内を事実上掌握していた三好三人衆です。

織田信長は、上洛後、直ちに京のすぐ南側にあった勝竜寺城を囲みます。

勝竜寺城の戦いに至る経緯

織田信長上洛

永禄11年(1568年)9月12日〜13日の観音寺城の戦いで六角義賢・六角義治親子に勝利して南近江を獲得した織田信長は、同年9月26日、現在の滋賀県大津市にある三井寺に入り,足利義昭の到着を待ちます。

そして、同年9月27日に足利義昭が到着したことから、織田信長は、足利義昭を奉じて逢坂山を越えて京に向かい、翌9月28日、そろって入京し東福寺に布陣します。なお、その後、足利義昭を北上させて東山の清水寺に移し、織田信長は東福寺にとどまります。

京を治める三好三人衆への対応

このとき京を実質上治めていたのは三好三人衆だったのですが、松永久秀と内輪揉めの真っ最中であったこと、予想外の早さで南近江が突破されたことから、準備を整えて織田信長を迎え打つことができませんでした。

入京した織田信長は、足利義昭とともに北上して山城国南部から摂津国に至る諸城を押さえる三好三人衆に背後から攻撃されることを防止するため、同日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らに南進させた上で京の南側にある三好三人衆の1人である岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させて牽制します。なお、このとき、岩成友通は足軽衆を全面に出して防戦したものの、織田勢は馬廻衆を繰り出して有利に戦い、三好勢の首級50余りあげて、上洛途中の織田信長の陣所・東福寺へ届けたと言われています。

勝竜寺城の戦い(1568年9月28日)

永禄11年(1568年) 9月28日、織田信長は、足利義昭が清水寺に向かうのを見届けた後、畿内からの三好三人衆の駆逐にとりかかります。

まず、織田信長は、山城国南部から摂津国に至る諸城を攻略するため、自ら5万人もの兵を率いて先行軍が攻撃中の勝竜寺城に向かいます。

これに対して勝龍寺城を守る岩成友通は、織田信長の率いる大軍に包囲されたため支えきれないと判断し、翌9月29日、勝竜寺城を開城して織田信長に明け渡します(なお、上図がこのときの勝竜寺城の推定図です。)。

 

勝竜寺城の戦いの後

対三好三人衆

勝竜寺城を得たことにより、京の南側の守りと京街道を獲得したため、織田信長は、翌9月30日、続けて三好長逸・細川昭元が守る摂津国・芥川山城を攻略します(また、織田信長は、この頃に淀古城も攻略しています。)。

織田信長は、その勢いのまま西進し、池田勝正が籠る池田城(現在の大阪府池田市)、篠原長房が籠る越水城(現在の兵庫県西宮市)、滝山城(現在の神戸市)を続けて攻略します。

対三好義継・対松永久秀

三好三人衆を順次駆逐する織田信長は、同年10月4日、同城で松永久秀・三好義継と謁見し、松永久秀から人質として嫡男の松永久通と、「吉光」と「九十九髪茄子」を受け取って同人らを恭順させます。

これにより織田信長は、三好義継に河内国の松永久秀・松永久通に大和国の切り取りを許し、傘下に収めることに成功します(大和国の全域支配は、その後、細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万兵の援軍をつけて松永久秀を大和に帰国させて10月8日に筒井城を奪還、 10月10日に筒井方であった森屋城と窪之庄城を、10月15日に豊田城を奪還したときとなります。)。

足利義昭のその後

入京した足利義昭は、一旦芥川山城に入った後、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区)にあった本圀寺(このときは、「本国寺」といいました。)に入ります。

その後、足利義昭は、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命されました。

なお、勝竜寺城を明け渡した岩成友通は、摂津国などで勢力を整え、永禄12年(1569年)には足利義昭の宿所を襲うなど(本圀寺の変)、その後も織田信長・足利義昭に対する抵抗を続けていきます。

防衛ライン構築

その後、織田信長は、勝龍寺城淀古城・槇島城で京の南側を守る防衛ラインを構築し、その防衛力強化のため、元亀2年(1571年)、細川藤孝に勝竜寺城を与え、二重の堀と天守に相当する高層建築物を持つ城郭へと改修させています。

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