【筒井城】筒井氏8代の栄枯盛衰を見届けた大和国の古城

筒井城は、大和国・興福寺一乗院に属する有力宗徒で宗徒の取締役として筒井城を拠点に武士化し、筒井順慶の代に戦国大名となった筒井氏の居城です。

何度も争奪戦の舞台となり、後に筒井順慶大和郡山城に移るまで筒井氏の栄枯盛衰を見届けた城でもあります。

以下、筒井氏と共に波乱万丈の戦国乱世を生き抜いた筒井城の歴史について見ていきます。

筒井城の立地

筒井城は、奈良盆地の中央部の東西に走る奈良街道と南北に走る吉野街道とが交差する交通の要衝の押さえの位置に建っていました。

現在の地図を基にすると、近鉄橿原線・筒井駅の東部です。

元々交通の要衝であったために古墳時代・奈良時代から巨大な建築物が築かれていた場所であり(発掘調査によって城の中心部から7世紀はじめの大きな建物跡や4世紀の大きな溝が見つかっています。)、筒井氏がここを押さえることにより人の出入りを管理し、経済と軍事に強い影響を及ぼそうとしていた意図が読み解けます。

筒井城築城

筒井城が築かれた時期については不明ですが、至徳3年(1386年)に筒井氏の祖とされる筒井順覚の名が明らかとなっており、14世紀中ごろには筒井城が存在したことがわかっています(13世紀末ころの遺構が見つかっており、もっと以前から存在していた可能性があります。)。

そして、永享元年(1429年)には文献上にも筒井館の名が現れます(満済准后日記)。

当初「筒井館」とされていたものが、その後の戦乱の中で居館から城郭へ発展していきます。

そして、嘉吉元年(1441年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱、戦国時代を通じて何度も筒井城をめぐる攻城戦が行われています。

また、築城後、筒井城は、筒井順覚(初代)、筒井順弘(2代)、筒井順永(3代)、筒井順尊(4代)、筒井順賢(5代)、筒井順興(6代)、筒井順昭(7代)、筒井順慶(8代)と8代に亘って筒井家にて引き継がれています。

筒井城の縄張り等

筒井城は、平城です。もっとも、曲輪構造が必ずしも明らかではないため何式であったのかを特定することはできません。

筒井城は、内曲輪(主郭)を取り囲む内堀の他、城下町等を含む範囲を広範囲の外堀で覆った惣構え構造となっており、その大きさは、南北約400m、東西約500mあり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きなものでした。

現在は、内堀と外堀の跡が点在する以外その遺構はほとんど残っておらず、城址は宅地、畑地、水田となっています。

外堀

①外堀の構造

外堀は、筒井集落全体を囲む外側の堀であり、筒井城は、この外堀をもって総構え構造をとっていました。

この外堀が南北約400m、東西約500mも張り巡らされており、奈良県内の中世城郭・城館では最大級の大きさを誇っていました。

なお、筒井城外堀の北東部は五折れ構造になっているのですが、北東部には虎口が無く、隣接する東口、北口の両方の虎口にも横矢は掛からないために防御施設として用をなしておらず、河川の氾濫防止という意味を持たないため、その構造の意味は不明です(そのため、これは防御施設ではなく「鬼門落し」という単なる風水のみに関わるものと考えられているようです。)。

②外堀の現在

現在でも、筒井集落の北側、南東側に外堀跡が残されています。

また、「シロ畠」(田)をぐるりと取り巻くように蓮根畑が設置されており、これが筒井城の堀跡と推定されています。

なぜなら、平城が城として使用されなくなった後に耕地に使用する場合、本丸周囲は低くなっているので田として利用しやすいのですが、深くえぐれた水たまりとなる堀では蓮根が栽培されることが全国的に多く見られるからです(熊本城なども同様)。

なお、筒井城跡の蓮根は、「筒井れんこん」として評判を得ています。

外曲輪

①西側部分

筒井城の西側部分は南北に走る吉野街道を取り込んでいたため人の往来が多く、そのためにこれらの人を見込んで吉野街道を挟み込む形で外堀の内外に商店街(北市場・南市場)が設置されていました。

②南側部分

外曲輪の南側部分は、八幡神社を中核とする農村部分が広がっていたと考えられています。

③北側部分

外曲輪の北側部分は、大型の宅地割りがなされていたことから、ここに筒井家の重臣が居住していたと考えられています。

内堀

①内堀の構造

内堀は内曲輪(主郭)を取り囲む堀で、14世紀中ごろには幅約6m・深さ約2mもの大規模な内堀が築かれていたことがわかっています。

大和郡山市の教育委員会による発掘調査によると、西側の堀は幅12m以上、深さ2m以上であったとされ、当時の石垣を持たない城としては最大級の堀を有していたと考えられています。

②出土品

発掘調査の際、堀斜面より大きさ1.1cm、重さ7.68gの鉛製鉄砲玉が出土したことから、永禄2年(1559年)に松永久秀に攻められて筒井城が落城した際の戦闘で使用されたものの可能性が指摘されています。

③内堀の現在

内堀の遺構は、現在でも菅田比売神社の東側で見られます(幅約2mの内堀跡)。

なお、菅田比売神社の境内の南側には、若干高くなった部分があり土塁跡であると考えられています。

内曲輪(主郭)

①内曲輪(主郭)の構造

筒井城の内曲輪(主郭)は、菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)が建つ一帯の東西約120m・南北約100mの範囲と推定されています。

そして、この内曲輪の中心部に城主の居館があったと考えられています。

②井戸

また、近年の発掘調査によって、内曲輪内(城主の居館付近と考えられています。)において直径約2.5mもある大規模な石組の井戸が見つかりました。

発掘調査によると、この井戸は直径約5mの穴を掘った内側に、川原石・転用石(石塔や地蔵菩薩)を組み合わせて石組がなされていたことが明らかとなっています。

なお、この井戸の東隣には堀の埋め戻し跡も見られ、そこからは素焼き皿1000枚以上が層状に重なって見つかっています。

③内曲輪(主郭)の現在

内堀で囲まれた部分は、「シロ畠」と言われる周囲と比べて一段と高くなった畠地となっていおり、この部分が筒井城の中心的な場所であったと考えられています。

なお、全国的に、城の中心部(本丸部分)には、廃城後も家を建てない風習が多く見られ、田畑となることが多いとされています。

筒井城の破却(1580年)

幾たびもの戦いを経ながら8代に亘って筒井氏により守られてきた筒井城でしたが、永禄11年(1568年)10月に松永久秀に占領されてしまいます。

このとき、松永久秀は、自身の拠点多聞城・信貴山城に次ぐ拠点として、大和郡山統治の本拠とします。また、多聞城と信貴山城とを繋ぐ支城として大和国支配を構築します。

その後、元亀2年(1571年)8月、松永久秀との合戦(辰市城の合戦)で勝利した筒井順慶が筒井城を取り戻し、敗れた松永久秀の多聞城から石垣を移築するなどして筒井城を改築します。

もっとも、天正5年(1577年)、織田信長により大和一国破城と差出し検地が命じられ、筒井順慶は、自身の本拠として低湿地で水害に弱い筒井城ではなく大和郡山城を選んだため、大和国では大和郡山城を残して全ての城郭が破却されることとなり、筒井城は破却されるに至っています。

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