【本圀寺の変(六条合戦)】三好三人衆による足利義昭暗殺未遂事件

明智光秀が関係する「・・寺の変」で有名なのは言うまでもなく本能寺の変です。本能寺の変は、明智光秀の最後のハイライトでもあります。

もっとも,明智光秀の最初のハイライトも「・・寺の変」です。

意外と知られていないのですが、明智光秀が織田信長に見出されて世に出るきっかけとなったの事件を「本圀寺の変」といいます。発生した場所から六条合戦とも言われます。

以下,本圀寺の変の概略について見ていきましょう。

本圀寺の変発生の経緯

織田信長の上洛と畿内の制圧

永禄11年(1568年)9月12日〜13日の観音寺城の戦いで六角義賢・六角義治親子に勝利して南近江を獲得した織田信長は、同年9月28日に入京し、その後、岩成友通が守る勝龍寺城勝竜寺城の戦い)、三好長逸・細川昭元が守る芥川山城、池田勝正が籠る池田城、篠原長房が籠る越水城、滝山城を続けて攻略し、三好三人衆を阿波国へ追い出します。

また、織田信長は、三好義継、松永久秀・松永久通を傘下に収めて畿内をほぼ完全に掌握します。

また、織田信長に連れられて入京した足利義昭は、一旦芥川山城に入った後、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺(このときは、「本國寺」といいましたが、ややこしいので本稿では本圀寺で統一します、現在ある京都市山科区とは異なる場所です。)を仮御所として同寺に入った後、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命されます(三好三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄は、同年10月18日に廃されています。)。

織田信長美濃へ帰国

上洛の目的を果たした織田信長は、足利義昭の警備を、近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に託し、永禄11年(1568年)10月26日、一旦本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。

将軍となり京に返り咲いた足利義昭ですが、元々僧侶に過ぎなかった足利義昭に自由にできる大きな軍事力などありません。織田信長の軍勢が頼りです。

ところが、そんな織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったのですから、当然足利義昭のいる京の守りは弱くなります。

京が手薄となったのをチャンスと見た三好三人衆は、直ちに京の奪還と15代将軍足利義昭を亡きものとする計画を立てます。

遡ること3年前の永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆に(永禄の変)、将軍暗殺についての迷いなどありません。

また、三好三人衆には、美濃国を奪われ織田信長に恨みを持つ斎藤龍興も加勢します。

三好三人衆は、逃げ帰った本拠地・阿波国から、畿内に戻って兵を編成し、1万人に膨れ上がった軍勢を引き連れて京に進軍してきます。

対する織田・足利方の兵は2000人に過ぎず、また本圀寺は守りを固める堀や土塁・石垣を巡らした城郭様の寺ではなかったため防衛面でも極めて不利な状況となります。

足利義昭大ピンチです。

本圀寺の変(六条合戦)の経過

奉公衆・国衆の奮戦

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆らが、市中に火を放ちながら足利義昭がいる本國寺へ進軍してきます。

これを聞いた将軍直属の奉公衆の1人であった明智光秀が、当時上京にあった奉公衆の屋敷から本圀寺に駆け付けます。

明智光秀は、本圀寺に入ると籠城を決めて織田軍の指揮をとり、自らも大筒・鉄砲で応戦し、敵兵の撃退を続けます。

また、その後、三好三人衆の先陣・薬師寺貞春の軍勢が、幾度も寺内への進入を試みますが、本圀寺を守る若狭国衆の山県源内、宇野弥七らに阻まれます。

結局初日は、本國寺の陥落には至らぬまま日暮れとなったため、三好三人衆の軍は、一旦引いて翌日の戦闘に備えることとなりました。

ところが、翌1月6日になると、将軍襲撃(本圀寺攻撃)の報が織田方の各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政、三好本家の三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭(織田方)の援軍に駆け付け、一気に形成が逆転します。

形勢不利となった三好三人衆は、退却を試みるも桂川湖畔で追いつかれ、織田方の軍勢と合戦に及んだものの大敗北を喫します。

織田信長の駆けつけ

また、同日、織田信長も本拠地・岐阜で本圀寺襲撃の報を受け、大雪が降る中、直ちに10騎ばかりの供廻りを連れて出陣します。

そして、織田信長は、本来3日かかる120km近い行程をわずか2日で走破、同年1月8日本圀寺に到着しますが、このときは既に三好三人衆は撃退された後でした。

本圀寺の変の後の歴史

明智光秀の出世

本圀寺の変の当時、明智光秀は足利義昭の奉公衆だったのですが、本圀寺での大活躍を見てその才を欲した織田信長は、明智光秀を臣下に求め、このときから明智光秀は、足利義昭と織田信長という2人の主君をもつ身になります。

そして、その直後から、明智光秀は村井貞勝とともに京を治める奉行に抜擢されるなど(「殿中御掟」にある「奉公人」にも名を連ね)、織田家中で一番の出世を重ねていくことになります。

足利義昭の防衛強化

織田信長は、仮御所とする本國寺が防衛力が脆弱であり、今後も神輿に担ぐ足利義昭が害されるのではないかと危惧します。

まだ足利義昭の権威を失うことができない織田信長は、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で本圀寺に代わる将軍の在所として足利義昭の二条城の造営を開始します。

織田信長は、13代将軍・足利義輝が使用していた二条御所・烏丸中御門第(現在の京都御苑南西部)に、二重の水堀と高い石垣を備える堂々たる城郭とする二条城を新たに築城し、そこに足利義昭を住まわせることとしました。なお、このとき建築された二条城は、1603年に徳川家康が築城した現在の二条城とは異なる場所です。

その後、二条城城主となった足利義昭のもとには、代々幕府に仕えてきた奉公衆をはじめとして多くの人材が集まり、室町幕府の再興に向かうかに見えました。

足利義昭の権力制限

ところが、織田信長は、足利義昭はあくまでも神輿に過ぎず、室町幕府の復興などは望んでいませんでした。

そこで、永禄12年(1569年)1月14日、織田信長は、足利義昭の将軍権力を制限する「殿中御掟」を定め、力で足利義昭に承認を迫ります。

織田信長の庇護がなければ自身の命すら守れないことを知る足利義昭は、これを拒むことができませんでした。

また、当初は9ヶ条だった「殿中御掟」は、2日後の同年1月16日に7ヶ条、永禄13年(1570年)1月23日に5ヶ条が新たに追加され、足利義昭の将軍としての行動はどんどん制限されていきます。

そして、これにより、足利義昭と織田信長との対立が顕在化し、第一次信長包囲網第二次信長包囲網・第三次信長包囲網へと発展していくのですが、長くなるのでそれらは別稿に委ねます。

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