【佐久間信盛】退き佐久間と呼ばれた戦巧者ながら織田信長にポイ捨てされた筆頭家老

織田信長の尾張統一戦から常に織田信長に従って転戦してきた織田弾正忠家の筆頭家老でありながら、石山合戦直後に織田信長に追放された悲劇の武将をご存知ですか。

そう、佐久間信盛です。

綺羅星の如く湧き出る織田家の有能武将の中でも、生涯を通して織田信長に従って各地を転戦し(佐久間信盛の戦歴は織田信長の戦歴と言えます。)、「木綿藤吉、米五郎三、かかれ柴田に退き(のき)佐久間」と呼ばれた戦巧者としてこき使われた挙句、織田信長にポイ捨てされたという悲しい結末を迎えた人物です(なお、退き佐久間とは、殿軍の指揮を得意としたことに由来したあだ名です)。

本稿では、そんな悲しき武将の生涯について見ていきましょう。

佐久間信盛の出自

出生

佐久間信盛の生家である佐久間氏は、代々織田弾正忠家に仕えた家で、佐久間信盛はそんな佐久間一族の佐久間信晴の子として尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)で産まれます。幼名は、牛助といいました。

生年は、大永8年/享禄元年(1528年)とも言われますが、正確な年月日は不明です。

佐久間信盛は、元服後織田信秀に仕え、後に織田信長の弟である織田信行(織田信勝)につけられ、柴田勝家らとともに織田信行に仕えます。

織田信行に仕える

天文21年(1552年)に織田信秀が急死したのですが、その後も、佐久間信盛は、織田信行に従い、織田信行とともに織田信秀の葬儀に参列したり、織田信行が治める末森城に詰めたりしていました。

このころは、織田弾正忠家は織田信長と織田信行の共同統治がなされていたのですが、うつけと呼ばれた織田信長に従うものは多くはありませんでした。

もっとも、当初は、織田信長と織田信行の関係は良好であり、佐久間信盛も、織田信行の下ながら織田弾正忠家の家臣として同家のために働きます。

織田信長は、父・織田信秀の死後も、同盟者である美濃国の斎藤道三の援助を得ながら尾張国内で勢力を拡大していきます。

その後、天文24年(1555年)、織田信長・織田信行の叔父である森山城主・織田信次の家臣が、織田信長の弟である織田秀孝を殺害する事件が起こったのですが、佐久間信盛の仲裁により、織田信長の異母弟である織田信時を森山城主として据えることで解決をしています。

ところが、弘治2年(1556年)4月に、斎藤道三が息子の斎藤義龍との戦いに敗れて死亡したため、強力な後ろ盾を失ったばかりか同盟国を敵国としてしまった織田信長の立場が悪くなっていきます。

ここで、織田弾正忠家の筆頭家老であった林秀貞が、弟・林通具、織田信行の臣下であった柴田勝家と共謀して、織田信長を排除して織田信行を当主に据えようと画策をはじめます。

稲生の戦い(1556年8月24日)

そして、遂に、織田信長と織田信行との間で、織田弾正忠家の家督を巡る戦いが発生します。

弘治2年(1556年)8月24日に発生した稲生の戦いです。

ところが、ここで織田信行の臣下であったはずの佐久間信盛・佐久間盛重らの佐久間一族が、なぜか織田信行ではなく織田信長方につき、その勝利に貢献します。

なお、この戦いで敗れた織田信行方は、織田信行・林秀貞・柴田勝家らが赦免されたのですが、織田信行は翌年に再度謀反をたくらんだために遂に粛清されています。

織田弾正忠家の筆頭家老となる

そして、織田信行の死亡により織田弾正忠家は当主・織田信長の下に一本化され、佐久間信盛はそれまでの功により以後家臣団の筆頭格として扱われます。

そして、これ以降、佐久間信盛は、織田信長の下で軍事・政治面で力を発揮していくこととなります。

佐久間信盛の戦歴と出世

桶狭間の戦い(1560年5月)

永禄3年(1560年)5月に今川義元が侵攻して来た桶狭間の戦いの際には、鳴海城から約2.2km離れた場所に前線基地となる善照寺砦を守備して織田信長本隊の中継地点となるなっています。

この功もあって、佐久間信盛は、桶狭間の戦いの後に鳴海城を与えられています。

吏僚として周辺大名と同盟交渉を行う

永禄9年(1566年)からは、織田信長の上洛に向けた足場固めとして、大和国の松永久秀と関係を結んでいくのですが、佐久間信盛はその取次役として起用されています。

また、佐久間信盛は、尾張国と三河国の国境に領土を持つ水野信元と共に松平元康(後の徳川家康)との同盟交渉にも携わり、永禄10年(1567年)5月に織田信長の長女・徳姫が、松平元康の嫡男・松平信康に輿入れする際には、岡崎城までその警護としてお供し、そのまま西三河の備えを任されています。

観音寺城の戦い(1568年9月)

織田信長が足利義昭を奉じて行われた上洛作戦の初戦として永禄11年(1568年)9月に発生した六角義賢・義治父子との戦い(観音寺城の戦い)では、佐久間信盛は、織田軍の本隊として木下藤吉郎・丹波長秀・浅井政澄を率いて最大の激戦となった箕作城攻めに参加して戦功を挙げています。

織田信長上洛後は、畿内の行政担当者の1人に選ばれ数々の業務を担当し、大和国の松永久秀を臣下に降らせることに成功しています。

また、永禄12年(1569年)の伊勢国侵攻の際は、国司北畠具教らが立て籠る大河内城攻めに参加し、城の西側の包囲を担当しています。

近江戦線(1570年4月〜)

上洛を果たした織田信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍に任命させると、その名を使って全国の大名に上洛要請の書状を送ります。事実上の織田信長への臣従圧力です。

この織田信長からの上洛要請に無視を決め込んだ越前朝倉氏を討伐するため、織田信長は、元亀元年(1570年)、織田・浅井同盟の条件であった浅井氏に対する事前連絡なしに越前国へ侵攻を開始します。

ところが、この越前討伐途中の元亀元年(1570年)4月に浅井長政が織田信長に反旗を翻し、織田信長は窮地に立たされます(金ヶ崎の退き口)。

織田信長は、反旗を翻した浅井長政に対抗するため、同年5月、佐久間信盛を近江永原城(野洲郡野洲町上屋)に配置します。

その後、佐久間信盛は、同年6月4日には柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)し、その後、同年6月21日に小谷城下を焼き払って浅井長政を引き出した後、姉川の戦いに参戦しています。

また、志賀の陣にの際には、比叡山の包囲を担当しています。

また、元亀2年(1571年)5月12日の伊勢国・長島攻めの際には、中央筋攻めを担当しています。

比叡山焼き討ち(1571年9月)

また、元亀2年(1571年) 9月1日には、北近江・志村城を攻略しています。

そして、同年9月12日に行われた織田信長による比叡山焼き討ちの際も同行し、このときまでの一連の武功を評価されて、焼き討ちにより消滅した延暦寺や日吉大社から没収した寺領、社領のうち近江国栗太郡を与えられました(延暦寺や日吉大社から没収した寺領、社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分され、この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めています。)。

また、同年11月には松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当し、長年の敵であった松永久秀と筒井順慶を一旦和睦させています。

さらに、元亀3年(1572年)4月、三好義継と松永久秀・久通父子が河内国・交野城を攻囲した際には、その救援に向かいこれらを撃退させています。

三方ヶ原の戦い(1572年12月)

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が織田家・徳川家への侵攻準備を開始した際には、岐阜城に留守居役として入り、織田家本拠地である美濃国の守備を固めています。

そして、武田信玄が、西上作戦を開始し、徳川領を蹂躙し始めた際、徳川家康からの援軍要請に対し、織田信長は徳川領に近い鳴海城主・佐久間信盛、刈谷城主・水野信元、平手汎秀に3000人の兵を与えて後詰めに向かわせます(織田信長は、第二次信長包囲網への対応に精一杯なため畿内の兵を援軍に回せませんでした。)。

このとき、武田信玄に釣り出された徳川家康が、元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原で2万7000人もの武田軍から猛攻を受けたのですが、これに驚愕した佐久間信盛はほとんど戦うことなく撤退します(三方ヶ原の戦い)。

結局、残された徳川家康軍は散々に打ち負かされ、織田方の平手汎秀も討ち死にしています。

足利義昭との和睦交渉決裂(1573年3月)

元亀4年(1573年)2月、足利義昭は、武田信玄が動き出したこと、また三方ヶ原の戦いで武田軍が徳川軍を破ったとの報を聞き、反織田信長勢力が織田信長勢力を上回ったと判断し、それまでの織田信長に協力するという路線を放棄して、反織田信長の立場を鮮明にした上で、石山と今堅田に砦を築いて京への侵入経路を防衛しつつ二条城に籠って挙兵します。

武田信玄の体調不良により武田軍の西進が止まると、天正元年(1573年)3月、これらを裏で操り信長包囲網(第二次信長包囲網)を作っていた足利義昭との交渉を任され、織田信長の名代として織田信広、細川藤孝と共に二条御所に派遣されています。

また、同月、柴田勝家、丹羽長秀、蒲生賢秀と共に、六角義治が籠城する鯰江城攻めを行い、四方に付城を築いて攻囲しています。

結局、足利義昭との交渉は失敗に終わったことから、織田信長は、第二次信長包囲網に加担する勢力の各個撃破作戦に取り掛かります。

室町幕府滅亡(1573年7月)

まず、織田信長は、石山虎・今堅田砦を相次いで攻略した上でルートを確保し、そのまま京都に軍を進め、足利義昭が籠る二条城(現在の二条城ではありません。)を取り囲みます。

もっとも、将軍殺しの汚名を嫌った織田信長は、二条城に攻め込まず、同年4月2日、佐久間信盛らに命じて上京を放火して圧力をかけた上で正親町天皇に働きかけて、勅命により、同年4月5日、足利義昭を二条城から退去させるとの内容で講和を結びます(足利義昭を京から追い出した織田信長は、足利義昭を京に戻さないようにするため、二条城を徹底的に破却します。)。

この後、織田信長は、同年7月18日、逃げ延びた足利義昭を追って槇島城に攻め込み、佐久間信盛もこの追撃軍に参加しています。

織田軍は、軍を北軍と南軍の2手に分けて同城を攻撃し、これを陥落させて室町幕府は滅亡させています(槇島城の戦い)。

朝倉家滅亡・浅井家滅亡(1573年8月、9月)

次に、天正元年(1573年)8月、織田信長は、裏切った浅井長政を打つべく小谷城を包囲します。

このとき、越前から朝倉義景軍2万人が、浅井長政の援軍として現れたのですが、織田信長は、小谷城に篭る浅井長政を一旦捨て置き、援軍に来た朝倉義景の殲滅を狙い、まず朝倉軍が小谷城付近に築いた砦を攻略します。このとき織田信長は、佐久間信盛を含む諸将に対し、朝倉義景を逃さぬよう十分に注意するようにと厳命していました。

織田軍の勢いを見た朝倉軍は、織田軍と一戦交えることなく、浅井長政を見捨てて、越前への撤退を開始します。

このとき、厳命を受けていたはずの諸将は、朝倉義景の追撃に遅れたため、織田信長自らが追撃を行い、そのままの勢いで越前に向かって侵攻していきました。

その後、遅れて織田家諸将が織田信長に追い付いたのですが、そこで織田家諸将は織田信長から叱責を受けます。

ここで、滝川一益・柴田勝家・丹波長秀・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・稲葉一鉄らは謹んで陳謝したのですが、このとき佐久間信盛が、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしたため、織田信長をさらに怒らせ、厳罰を命じられそうになります。

このときは、他の家臣達の取りなしでなんとか厳罰は免れたものの、織田信長に相当の恨みを持たれることとなってしまいました。

その後、逃亡する朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、家臣の裏切りにより、自害して果て、ここに11代(戦国5代)続いた越前朝倉氏は滅亡します。

なお、この後、小谷城も織田信長軍の総攻撃を受け落城し、天正元年(1573年)9月1日、浅井長政が自害して北近江国・浅井氏も滅亡しています(小谷城の戦い)。

なお、この後、佐久間信盛は、北伊勢に進軍し、同年9月26日西別所に籠る一揆勢を殲滅しています。

若江城の戦い(1573年11月10日)

京を追放され、槇島城の戦いでも敗れた足利義昭は、妹婿である三好義継(義昭の妹婿)を頼って若江城に落ち延びて来ます。

足利義昭を受け入れた三好義継は、次第に義兄に当たる足利義昭に同調し、織田信長に敵対するする動きを見せはじめます。

織田信長は、三好義継の態度を見て、三好義継討伐を決定します。

三好方は、足利義昭を旗印として掲げて、諸大名と協力して織田信長と対峙しようと考えますが、天正元年(1573年)11月5日、肝心の足利義昭が近臣のみを連れて若江城から和泉国・堺に逃亡します。

佐久間信盛は、天正元年(1573年)11月10日、大軍を率いて若江城を囲んだのですが、城内にいた若江三人衆が離反して佐久間信盛軍を城門に引き入れたため、三好方は総崩れとなり、三好義継は、同年11月16日に自害します(若江城の戦い)。

また、その後、佐久間信盛は、松永久秀が守る多聞城を取り囲み、同年12月26日に松永久秀から同城の引き渡しを受けています。

長篠設楽原の戦い(1575年5月21日)

天正2年(1574年)2月、武田勝頼が軍勢を率いて明知城を包囲したのですが、このとき佐久間信盛は、尾張衆・美濃衆を率いて援軍に赴き、対武田の司令官として働いています。

なお、同年4月13日には前年から包囲を続けていた六角義賢の石部城を攻略して佐久間信盛の軍勢が同城に入城し、同年7月には長島一向一揆攻めにも参戦しています。

そして、天正3年(1575年)3月、佐久間信盛は、徳川家康のもとへ派遣され、長篠城等の武田・徳川領国の境目の城々の検分を行い戦いに備えます。

その後、同年4月に織田信長に従って三好康長が籠る高屋城や新堀城を攻撃し降伏に追いこんでいます(高屋城の戦い)。

さらに、同年5月21日に発生した設楽原の戦いにも6000人を率いて参陣し、織田方の最北端の守りを担当し、武田軍精鋭部隊である馬場信春隊700人と激突しています(長篠設楽原の戦い)。

そして、同年6月、そのまま奥三河の武節城を攻撃して陥落させ、奥平定能・信昌父子に城を預けて織田信忠による岩村城攻めに援軍として加わっています。

なお、同年8月には、転戦して越前一向一揆征伐に参加しています。

与力・水野信元誅殺(1575年12月)

天正3年(1575年)12月、佐久間信盛は、自身の与力である刈谷城主・水野信元が、前月に降伏して処刑された武田氏の秋山虎繁と内通し、兵糧を密かに秋山虎繁が籠っていた岩村城に流していたとして信長に訴えます。

この報に織田信長は怒り、水野信元の甥である徳川家康に水野信元を殺すように命じた。

これにより水野信元は三河大樹寺に誘い出され、平岩親吉によって養子の信政共々暗殺されました。

この事件により、水野信元の所領と居城・刈谷城は佐久間信盛の直轄領に組み込まれます。

そして、佐久間信盛は、織田信忠を補佐し、天正4年(1576年)1月、織田信忠が千秋季信に熱田大宮神職を与えた文書に息子の信栄と共に連署しています。

佐久間信盛の没落

石山合戦総司令官となる(1576年5月)

第一次信長包囲網の最中の1570年(元亀元年)6月に始まった石山合戦ですが、天正4年(1576年) 5月3日に発生した天王寺の戦いで石山本願寺攻略戦の指揮をとっていた塙直政が戦死します。

天正4年(1576年) 5月5日、織田信長が若江方面から、佐久間信盛は住吉方面から天王寺砦の救援に向かいこれを果たします。

その上で、織田信長は本願寺を囲むため、要所10箇所に砦を築き、同年6月5日、大坂を離れます。

ここで、織田信長は、佐久間信盛を大坂方面総司令官に任じ、織田信忠の補佐役を離れて対本願寺戦線を任せます。

このとき、佐久間信長は、塙直政の与力をそのまま引き受けることとなり、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊という7ヶ国に亘る与力を有する当時の織田家中での最勢力となりました。

第1次木津川口の戦い(1576年7月15日)

織田信長に陸上交通の要衝に10箇所もの砦を築かれて陸路を完全に封鎖された本願寺は、物資・兵糧に困窮し、西の超大国毛利輝元に海路による西側からの援助を要請します。

毛利輝元は、石山本願寺の要請に応じて、1576年(天正4年)7月15日、兵糧・弾薬等を運搬する村上水軍を中心とする毛利水軍の船600艘を大坂に派遣します。

本願寺を囲む佐久間信盛軍も、すぐにこれに対応し、配下の九鬼水軍など300余艘で木津川河口の封鎖を試みたため、木津川口河口にて、毛利水軍と織田水軍との海戦となります。

このときは、毛利水軍が、船数の違いと、村上水軍の小早舟の機動力と焙烙火矢・焙烙玉を駆使した戦法で織田水軍船をことごとく焼き払って大勝を納め(第一次木津川口海戦)、悠々と石山本願寺に兵糧・弾薬を届けたため、織田軍による本願寺封じ込め作戦は失敗に終わります。

雑賀の陣(紀州征伐、1577年)

1577年(天正5年)2月2日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が織田信長方に付きました。

これを好機と見た織田信長は、本願寺に味方する雑賀衆を殲滅するため、織田信長は大軍を率いて紀伊国侵攻作戦を開始します。

織田信長は、雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊の手引きを基に、本願寺に味方する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に侵攻します(紀州征伐)。

織田軍は、まず貝塚の雑賀衆を攻撃した後、佐野で自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、佐久間信盛には山手軍を担当させます。

同年3月1日、雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てましたが、膠着状態に陥ったため事態を憂慮した雑賀衆が同年3月2日に石山合戦で配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、織田信長はこれを受け入れて兵を引いています。

また、佐久間信盛は、この後、天正5年(1577年)10月の織田信忠による松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも参戦しています。

その後、羽柴秀吉が担当する中国戦線に参戦した後、石山合戦に戻ります。

石山本願寺との和睦(1580年3月)

織田信長方に押されていた石山本願寺側に対し、天正8年(1580年)3月1日、朝廷より近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保を勅使(目付として佐久間信盛・松井友閑)が派遣され、大坂から退去するよう命じられます。

石山本願寺は、時勢を見てこれ以上の抵抗は困難と判断し、同年3月6日、勅使らに大坂きらの退去に同意するとの回答をします。

そして、同年8月2日、佐久間信盛は、教如の本願寺退去を検視する勅使に松井友閑と共に再び同行してこれを見届け、本願寺との10年続いた戦に終止符が打たれました。

佐久間信盛追放(1580年8月)

長く苦しい石山合戦に勝利し、その指揮官であった佐久間信盛に対して織田信長から恩賞があると思われていたのですが、ここで織田信長が佐久間信盛に言い渡したのは真逆のものでした。

織田信長は、天正8年(1580年)8月25日、19ヶ条にわたる折檻状を突きつけた上で、佐久間信盛とその嫡男佐久間信栄を高野山に追放したのです。

30年以上に亘って織田家に仕え、家中最大勢力を誇っていた織田家筆頭家老のまさかの追放です。

佐久間信盛の追放後には、佐久間家の郎党の多くが佐久間信盛父子を見捨てて去っていったと言われています。

そして、佐久間信盛は、天正10年(1582年)1月16日、紀伊国熊野または高野山にて失意のうちに死去しています。享年55歳でした。

なお、佐久間信盛の死後、直後に嫡男の佐久間信栄は織田信忠付の家臣として帰参を許されています。

佐久間信盛追放の評価

佐久間信盛失脚後、その後釜として畿内方面軍の軍団を統率することになったのは明智光秀でした。

畿内には、有力国衆が多くいたため、これを制圧・管理するという仕事が大変だった上、畿内が実質的な織田信長の本拠ともなっていいたため、常に織田信長の無理を聞かされる気の休まらないポジションに置かれます。

佐久間信盛は、織田信長より6歳も年上であり、また織田信長の駆け出しからの重臣であったため、織田信長に対してもそれなりに物が言えたでしょうが(言った結果が悲惨ですが)、新参者の明智光秀に織田信長に反論できようはずもなく、半端ないストレスに晒されたことが容易に予想できます。

明智軍記には佐久間らへの情け容赦ない処分を引き合いに出して、明日はわが身と家中が反乱に傾いたという記述もあり、本能寺の変への布石とも考えると、佐久間信盛追放は織田信長の大失態であったようにも思われます。

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