【槇島城の戦い】足利義昭が追放され室町幕府が滅亡した戦い

室町幕府が滅亡することとなった戦いをご存知ですか。

室町幕府最後の将軍足利義昭は、元亀4年(1573年)に2回も織田信長と戦い、遂に敗れて室町幕府が滅亡します。

この室町幕府滅亡に至った最後の戦いが槇島城の戦いです。

槇島城は遺構がほとんど残っていないため、室町幕府という一大勢力がなくなった戦いであるにもかかわらず、マイナーすぎる評価を受けています。

本稿では、そんな歴史の闇に埋もれてしまいそうな大戦、槇島城の戦いについて簡単に見ていきましょう。

槇島城の戦いに至る経緯

足利義昭と織田信長の対立

永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した足利義昭ですが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の行動から、次第にその間に距離ができ始めます。

永禄12年(1569年)1月に織田信長が足利義昭に対して申し渡した殿中御掟によってその対立は激化します。

このとき、畿内で急速に勢力を拡大する織田信長に抵抗するため、畿内周辺の勢力が反織田信長で結集します(西は三好三人衆・石山本願寺、北は朝倉氏・朝倉氏、西は武田氏が中心でした。)。

後に、いわゆる信長包囲網と言われた抵抗戦です。

このとき、一進一退を続ける信長包囲網(第2次信長包囲網)の背後で足利義昭が御内書をばらまくなどして暗躍していたのですが、足利義昭が表に出ることはなくフィクサーとして立ち回っていました。

武田信玄の西上作戦(1572年10月)

ところが、この足利義昭の暗躍を知った織田信長は、元亀3年(1572年)9月、足利義昭に17条の意見書が突きつけます。

これにより、織田信長と足利義昭との対立は表面化し、また決定的になります。

織田信長との対立が明白なものとなった足利義昭は、浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して織田信長を周辺大名で取り囲みます(第2次信長包囲網)。足利義昭の構想は上のようなものです。

そして、元亀3年(1572年)10月、死期が近いことを悟った武田信玄が行動を開始したことにより反織田信長勢力が勢い付きます。

武田信玄は、反織田信長の意を表明した後、織田信長の同盟者であった徳川家康の領地を侵略しながら織田信長の本拠地・岐阜を目指して西進します(西上作戦)。

このとき武田軍は、軍を3つに分けて3方面からの同時侵攻作戦を展開し、徳川領を蹂躙しながら織田信長の本拠地・岐阜に向かって進んでいきます。

そして、元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に蹴散らした武田軍は、そのまま岐阜に向かって進むかに見えましたが、ここで武田信玄の体調が悪化し、元亀4年(1573年)1月頃に武田軍の攻勢が停止します。

なお、このとき武田軍の進軍の足が止まったのは武田信玄の体調悪化が原因だったのですが、足利義昭はその事実を知らず冬を越すためであると誤認していています。

足利義昭挙兵(1573年1月)

足利義昭は、武田信玄の西上作戦に呼応して、打倒織田信長の兵を挙げ、二条城の周囲に新たな堀を巡らし、城内に軍馬・弾薬を運び込むなどして織田信長との決戦を試みます。

そこで、足利義昭は、反織田信長のために淀古城の岩成友通と結び、伏見城の三淵藤英とともに南の守りを固め、いよいよ東に向かって進軍し、西上してくる武田信玄、北の朝倉氏・浅井氏、南の松永久秀で四方から織田信長を取り囲んで撃破しようというところまで進みます。

そして、京から岐阜・尾張への進軍経路にある石山と、坂本の北側にある今堅田に砦を構築し、山岡光浄院、磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)らを入れて準備を整えます。

焦った織田信長は、足利義昭に対して朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、娘を人質にすることを条件に和睦しようと試みたのですが、優勢に進めていると考えていた足利義昭はこれを認めませんでした。

今堅田・石山の戦い(1573年2月)

ちょうどこの頃に、三河国・野田城を攻撃していた武田信玄が倒れて進軍が止まっているとの報を聞いた織田信長は、この隙を見て和睦交渉を拒否した足利義昭討伐を決意します。

そこで、織田信長は、まずは雪によって浅井氏・朝倉氏が援軍に来ることができないない冬の間に京への侵攻ルートを確保するため、手始めに今堅田砦・石山砦の攻略を試みます。

(1)石山砦の戦い

元亀4年(1573年)2月20日、織田信長は長光寺城の柴田勝家・坂本城の明智光秀・佐和山城の丹羽長秀・安土城の蜂屋頼隆に石山砦攻略を命じます(横山城の羽柴秀吉は小谷城の浅井氏の守りのために残しています。)。

これらの4将は、同年2月24日、1万人とも言われる兵をもって石山砦を取り囲み攻撃をしかけます。

石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が在番していたのですが、急ごしらえで造っていた砦が未完成であったこと、守備兵が寡兵であったことなどから織田軍の攻撃を防ぎきれず同年2月26日に山岡景友が降伏し、石山砦は破却されます。

(2)今堅田砦の戦い

石山砦を攻略した織田軍は、柴田勝家を石山の守備隊として残し、同年2月29日、続けて残りの3将で今堅田砦を攻撃します。

同日午前8時ごろから明智光秀隊が船で東(琵琶湖上)から、丹羽長秀隊・蜂屋頼隆隊が陸路で南東からそれぞれ攻めかかり、正午ごろには今堅田砦を攻略します。

両砦を攻略したことにより、織田軍は京への進軍ルートを確保します。他方、これらの戦いで足利義昭方は死者500人、負傷者1000余人という損害を出したとされています。

二条城の戦い(1573年3月)

石山砦・今堅田砦を攻略した直後、織田信長は、西上作戦を展開していた武田軍が甲斐国への撤退を開始したとの報を聞きます。

武田信玄の死を確信したのかはわかりませんが、少なくとも当面の東側からの武田脅威がなくなった織田信長は、軍を整えて岐阜から出陣します。

織田信長本隊は、途中の近江国で、柴田勝家・明智光秀・丹波長秀を吸収し京へ向かいます。

また、元亀4年(1573年)3月29日、織田信長は逢坂に到着して明智光秀の調略を受けた荒木村重・細川藤孝と合流し、その兵数は1万5000人〜1万6000人に膨れ上がります。

そのまま京に入った織田信長軍は、京の東山にある知恩院に布陣し、配下の諸隊は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・竹田などに布陣しました。

これに対し、織田信長迫るの報を聞いた足利義昭は、すぐに奉公衆など5000人、摂津衆、丹波衆、宇津頼重、内藤如安ら1700~3000人を二条城に引き入れて防御を整えます。

ここで、敵対はしたものの名目上とはいえ征夷大将軍である足利義昭への攻撃は世評を害すると判断した織田信長は、明智光秀と細川藤孝を使者として足利義昭のもとに送り、自らの剃髪および人質を差し出すことを条件にして和睦を求めましたが、足利義昭がこれを拒絶します。

織田信長は二条御所と包囲すると、元亀4年(1573年)4月2日に柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら7人に7000~8000の軍勢を預けて市外に放火させ、また同年4月4日には幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京に放火しています。

その上で、織田信長は、二条城の包囲を固めるべく、周囲に4つの砦を築きます。

織田信長・足利義昭の和睦

京が燃えていくのを見て織田信長の本気を悟った足利義昭は、やむなく織田信長との和平交渉を開始します。

そして、元亀4年(1573年) 4月7日、正親町天皇から和睦の勅命が出され、織田信長と足利義昭はこれを受け入れ、織田信長は二条御所に攻め込むことなく足利義昭の降伏という形で和睦に至ります。

槇島城の戦い

足利義昭再挙兵(1573年7月3日)

ところが、元亀4年(1573年) 7月3日、足利義昭は、織田信長が将軍である自分を殺すことができないと考えて正親町天皇の勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英、伊勢貞興、日野輝資、高倉永相などを残し、淀古城の岩成友通と共に防衛を図ります。

そして、その上で、足利義昭は槇島城に立て籠もります。

槇島城があった場所は、後に巨椋池が埋め立てられたために現在は平地になっていますが、当時は西に巨椋池を抱え、東は宇治川に守られた天然の要害にある難攻不落の城だったのです。

この防衛力の高さを買って、足利義昭は籠城する城として槇島城を選びます。

二条城開城(1573年7月10日)

再度の足利義昭の挙兵に対し、武田軍が撤退したことにより東側の脅威がなくなった織田信長は、美濃衆・尾張衆・近江衆などを動員します。

岐阜を発った織田信長は、元亀4年(1573年)7月6日に坂本城に入った後、同年7月7日、坂本城より山を越えて西に進み、京・妙覚寺に布陣します。

ここで、羽柴秀吉が調略を仕掛けたことにより二条御所に籠っていた武将や公家衆はこぞって退城し、残るは三淵藤英のみとなりました。

同年7月10日、織田軍は二条御所を取り囲み、柴田勝家に命じて三淵藤英に降伏を促したところ、三淵藤英はこれを受け入れて二条御所を開城しました。

二条御所に入った織田信長は、京に明智光秀を残して二条御所の破却を命じ、自身は足利義昭がいる槇島城に向かって南進を開始します。

槇島城の戦い(1573年7月)

南に向かう途中で、織田信長は、羽柴秀吉に命じて別動隊を組織させ、岩成友通が籠る淀古城に向かわせ、淀古城から槇島城への後詰を封じます。

その上で、織田信長本隊はそのまま槇島城へ向かって進軍を続け、元亀4年(1573年)7月16日、槙島城の北東に位置する五ケ庄の柳山に布陣します。

そして、織田信長は、かつて宇治川の戦いの際に源氏のとった戦法に従い二手に分かれて宇治川を渡り、槇島城を攻めることとします。

北軍は織田信長が指揮を取り、南軍は稲葉一鉄率いる美濃衆に任せることとなりました。

そして、織田信長を先頭とする織田北軍が宇治川を渡って北側から槇島城に取りつきます。

また、稲葉一鉄率いる織田南軍は槇島城南側に回り込み、南側の堀を埋め始めます。

南側の堀が埋まり始めると、織田南軍が次々に槇島城内に進入をはじめます。

城の守りを突破された足利義昭は、同年7月18日、嫡男の足利義尋を人質として差し出してまたも織田信長に降伏します。

足利義昭の追放と室町幕府滅亡

室町幕府の滅亡

将軍殺しの汚名を恐れた織田信長は、足利義昭を殺すことはしませんでした。

もっとも、二条御所を破却された足利義昭に、京に戻るべき場所はなく三好義継が治める河内国・若江城に送られます。

これにより、15代続いた室町幕府は、事実上滅亡します。

淀古城の戦い(1573年8月)

槇島城を攻略した後、羽柴秀吉は、勝竜寺城からの援軍として細川藤孝隊を吸収し、さらに淀古城の番頭大炊頭義元、諏訪飛騨守三將らを味方につけ岩成友通が守る同城攻めを続け、元亀4年(1573年)8月に陥落させます。

岩成友通は助命が認められず、細川藤孝の家臣である下津権内に討ち取られています。

足利義昭亡命

河内国・若江城に亡命した足利義昭でしたが、同城で三好義継を唆して反織田信長の兵を挙げさせたものの、元亀4年(1573年)11月16日の若江城の戦いで三好義継が織田信長に討たれ、さらに立場が危うくなります。

そこで、足利義昭は僅かな近臣を連れて、堺・紀伊へと流浪・亡命した後、毛利輝元を頼って備後鞆(鞆幕府)にまで落ち延びることとなります。

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