【足利尊氏離反から豊島河原合戦まで】建武政権が足利尊氏に勝っていた序盤戦

鎌倉幕府討伐後、その功労者である後醍醐天皇と足利尊氏確執は、中先代の乱の後に始まります。

両者の争いは、中先代の乱の後、矢作川の戦い、手越河原の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、第一次京都合戦、打出・豊島河原の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いを経て建武政権が倒れて終了します。

本稿では、これらの一連の戦いのうち、建武政権方が有利に展開していた中先代の乱から豊島河原の戦いまでについて見ていきましょう。

建武政権からの足利尊氏離反

中先代の乱(1335年7月)

鎌倉幕府を滅亡させ、天皇中心の政治である建武の新政を開始させた後醍醐天皇でしたが、公平性を欠く政策により武士・公家・農民のいずれからも信頼を失い市井に不満が溜まっていきます。

そんな中、信濃国の諏訪氏の支援の下、建武政権下で除け者にされた武士達が北条高時の遺児である北条時行を担いで、建武2年(1335年)7月14日、信濃国で蜂起し、足利直義が執権を務めていた鎌倉将軍府に攻め込みます。

同年7月22日、不利を悟った足利直義は鎌倉を後にする決断をしたため、北条時行軍が空になった鎌倉に入りこれを占拠します(中先代の乱)。

京にある建武政権としても、鎌倉を占拠した北条時行を放置できず、足利尊氏にその鎮圧を命じます。

足利尊氏は、後醍醐天皇に対し、北条時行の鎮圧許可と鎮圧条件として武家政権の設立要件ともいえる総追捕使と征夷大将軍の官位を求めますが後醍醐天皇はこれを認めませんでした。

もっとも、足利尊氏は、武家の象徴を取り戻すため、また弟が危ないと知ったため、建武2年(1335年)8月2日、やむなく建武政権の許可を得ることなく独断で北条時行討伐のため軍勢を率いて鎌倉に向かいます。

後醍醐天皇は、足利尊氏が勝手に鎌倉に向かったとすると体裁が悪くなるためやむなく後追いで足利尊氏に征東将軍の号を与えます。

中先代の乱鎮圧(1335年8月19日)

足利尊氏は足利直義の軍勢と合流し、北条軍を駆逐しながら東海道を東進します。

そして、小夜の中山・清見関を順に撃破していった足利尊氏は、相模川の戦いで北条時行を駆逐した後、同年8月19日に鎌倉を奪還します。

ところが、足利尊氏は、鎌倉奪還後も鎌倉に居座ったまま京に戻ろうとはしませんでした。

建武政権からの帰還命令も無視します。

足利尊氏離反

それどころか、足利尊氏は、北条時行討伐に功のあった武士たちに、新田義貞の領地を勝手に没収するなどして恩賞を与え始めます。

恩賞を与えるのは建武政権・恩賞方に限るとの政治方針をとっていた後醍醐天皇は、足利尊氏が勝手に武士に恩賞を与えているのを聞いて激怒し、直ちに足利尊氏に対して京に戻って弁明するよう命じます。

これに対し、足利尊氏は、帰京を拒否し、新田義貞を討つとの名目を付けた上で建武政権軍と戦うための兵を集めます。

これらの行為を朝廷に対する反逆行為と見た建武政権は、足利尊氏を朝敵として討伐命令を発し、後醍醐天皇と足利尊氏との長い戦いが始まります。

建武政権による足利尊氏討伐作戦

矢作川の戦い(1335年11月25日)

足利尊氏を朝敵と定めた後醍醐天皇は、建武2年(1335年)11月19日、足利尊氏討伐の綸旨を出し、尊良親王、新田義貞、楠木正成らに命じて、鎌倉に向かって出陣させます。

同年11月、尊良親王を奉じて6万7000人と言われる新田義貞軍が東海道を下って行ったのですが、朝敵となることを恥じた足利尊氏が出家するなどしたため足利側の士気が上がりませんでした。

そのため、足利方では足利直義が中心となって防衛作戦を展開します。

三河国矢作川(愛知県岡崎市)で京方1万9000騎と、足利勢3万6000騎が川を挟んで布陣し、建武2年(1336年)11月25日から27日にわたり三河国矢作川で新田軍と足利直義・高師泰軍との間で戦いが行われましたが、高師泰軍の敗走とともに足利直義も退却し、新田義貞軍の勝利に終わります(矢作川の戦い)。

手越河原の戦い(1336年12月5日)

その後、遠江国の鷺坂でも敗れて駿河国まで退却した足利直義軍は、建武2年(1336年)12月5日、東進してくる新田義貞軍と安倍川右岸河口付近の手越河原で激突します。

同日正午に始まった戦いは、同日夜8時まで17回の激突が行われた後、同日夜に新田軍が仕掛けた夜襲が成功し、足利直義軍は総崩れとなって鎌倉に引き揚げます。なお、太平記ではこのとき、足利直義の家臣の淵辺義博が身代わりとなって足利直義が逃げる間をつくったとされています。

この戦いでは、足利方の近江国守護・佐々木道誉の弟の貞満らが戦死し、佐々木道誉も新田軍に降伏して新田軍に従軍します。

破竹の勢いで進軍する建武政権軍が伊豆国府を占領したところでいよいよ後がなくなった足利方は、足利直義の説得の結果、ようやく足利尊氏が戦線に復帰します。

箱根・竹ノ下の戦い(1335年12月11日〜12日)

新田義貞軍は、伊豆国府のある三島で軍を集結させると軍を二方面に分けます。

脇屋義助・塩治高貞・大友貞戴らが北の足柄峠から、新田義貞が南の箱根峠から鎌倉を目指します。

これに対し、足利軍は、足利尊氏が竹ノ下前面の足柄峠に布陣して北側の脇屋義助の、弟の足利直義が箱根に布陣して南側の新田義貞らと対峙します。

そして、同年12月11日、箱根・竹ノ下で合戦となったのですが、南側の箱根では新田義貞方が有利に、北側の竹ノ下では足利尊氏方が有利に戦いが進みます。

ところが、翌同年12月12日、朝廷方・北軍の塩治高貞・大友貞戴らが足利尊氏方に寝返ったため、北軍は総崩れとなり脇屋義助が退却を開始します。

そして、北軍が崩れたために退路が絶たれる危険を避けるため、優勢であった南軍の新田義貞も退却を開始したため、総崩れとなった建武政権軍は京のある西に向かって壊走します。なお、この情勢を見て手越河原の戦いで投降し新田義貞軍に加わっていた佐々木道誉も再度足利尊氏軍に寝返ります。

その結果、同年12月13日には、足利尊氏が伊豆国府を奪還しています。

足利尊氏入京(1336年1月11日)

新田義貞軍を破った足利尊氏は、斯波家長を嫡男・足利義詮の執事に任じて鎌倉に戻し,自身は落ちていく新田義貞を追って京に向かって進軍していきます。

道中で合流してくる兵を吸収して数を増やしていく足利尊氏軍は、建武3年(1336年)1月11日、そのまま京になだれ込んでいきます。

なお、足利尊氏の入京を恐れた後醍醐天皇は、足利尊氏入京の前日に比叡山に逃亡しています。

第一次京都合戦(1336年1月27日)

ところが、このとき京に入った足利尊氏を追う一大勢力がありました。陸奥将軍府の北畠顕家です。

新田義貞らの敗走により危険な状態となった朝廷を救うべくわざわざ奥州から駆け付けてきたのです(北畠顕家は、生涯に2度足利尊氏討伐のために上洛作戦を行っているのですが、このときが1度目の上洛作戦です。)。

北畠顕家軍は、足利尊氏の居座る京に侵攻し、同年1月27日と同晦日の糺河原の合戦で足利尊氏を丹波国に追い払います(第1次京都合戦)。

足利尊氏再起への布石と九州への逃亡

足利尊氏再起への布石

京を追われた足利尊氏は、ここで画期的な2つの布石を打ちます。2つともすぐには功を奏したわけではないのですが、これらが後の足利尊氏の再起につながりますので極めて大事な布石です。
 

①足利尊氏対朝廷の戦いから朝廷対朝廷の戦いに

 
1つ目の布石は、足利尊氏に味方する赤松円心の策によるもので、いわゆる持明院統の担ぎ出しです。
足利尊氏は、第一次京都合戦において新田義貞らに敗れた敗因について深く追及したところ、足利尊氏対朝廷(後醍醐天皇)の図式となっているために朝敵となった自分に武士たちの支持が得られなかったためと分析します。
そこで、足利尊氏はまずは自分を朝敵という立場から脱することが先決と判断します。
ちょうどこの時期には、朝廷が、両統迭立により朝廷には持明院統と大覚寺統という2つの派閥に分かれて戦っていたのですが、足利尊氏はここでそれまでの後醍醐天皇側の大覚寺統から持明院統(光厳上皇)側に寝返るという作戦を取ります。
これにより、それまで足利尊氏対朝廷(後醍醐天皇・大覚寺統)という図式だったのを、朝廷(足利尊氏・持明院統)対朝廷(後醍醐天皇・大覚寺統)という朝廷間の対立に挿げ替えたのです。
その結果、足利尊氏と後醍醐天皇との戦いは、朝廷間の紛争の代理戦争となったために足利尊氏が朝敵の身分から解放されました。
 

②元弘没収地返付令

 
2つ目の布石は,元弘没収地返付令です。
これは、北条氏による所領没収令によって没収された所領をそのときの領主に返還するという法令の言い渡しです。
平たく言えば、後醍醐天皇の土地政策を全て否定し、鎌倉幕府時代の所領に戻す政策です。
これにより、後醍醐天皇に冷遇されて所領を失った武士たちがこぞって足利尊氏の下に集うことが期待できました。
そして、足利尊氏は、これらの布石を打ったうえで再度建武政権軍に挑みます。

豊島河原合戦(1336年2月3日)

足利尊氏は、丹波国で戦力を整え、再度京都に攻め入るために建武3年(1336年)2月3日に摂津国猪名川付近へ到着したのですが、ここ足利尊氏討伐のために西進してきた後醍醐天皇側の新田義貞・北畠顕家勢と合戦になります。

戦いは一進一退で進んだのですが、楠木正成の夜襲によって足利尊氏が総崩れとなり足利尊氏方敗北により戦いが終わります(豊島河原合戦)。

足利尊氏九州へ逃走

敗れた足利尊氏は西に向かって落ちていき、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられて再興を賭けて九州に下ります。

なお、このとき勝者である建武政権側の楠木正成は、九州に落ちていく足利尊氏に付き従う武士が多かったのを見て、全国の武士の心がすでに建武政権から離れていることを悟ったと言われています。

建武政権の無策

足利尊氏を九州に追い払った後、後醍醐天皇が比叡山から京に戻ってきます。

足利尊氏に付き従う武士の多さを見ていた楠木正成が、京に戻った後醍醐天皇に対して状況が建武政権側に有利な今のうちに足利尊氏と和睦するべきであると進言します。

ところが、勝ちに奢った後醍醐天皇や取り巻きの公家は、楠木正成の献策を検討するどころか楠木正成を臆病者と断じて一笑に付します。

その上で、建武政権は、建武3年(1336年)3月、新田義貞を総大将に任じて九州に落ちていった足利尊氏追討の軍を西に向かわせます。

京を出て西に向かう新田義貞でしたが、播磨国に到着したところで、白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)が障害となり西に進めなくなります。

その後、新田義貞が白旗城攻めに手間取っている間に、足利尊氏が九州で戦力を整えて反撃に転じ遂に建武政権を滅亡させることになる後半戦が始まるのですが、長くなりますのでその話は別の記事で紹介します。

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