【水野信元】知多半島に一大勢力を築いた徳川家康の伯父

水野信元(みずののぶもと)は、戦国時代に、大国である尾張国の織田弾正忠家と駿河国・遠江国・三河国の今川家の間をうまく渡り歩き、知多半島に大きな勢力を築いた戦国武将です。

異母妹に徳川家康の生母である於大の方がいるため、徳川家康の伯父にあたります。

織田信長を高く評価して若かりし頃からこれを支えながら、力を持ちすぎたとの理由で織田信長の命により滅ぼされることとなった悲しい人生でもありました。

水野信元の出自

水野信元出生

水野信元は、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領する水野忠政の次男として生まれます。

母は松平信貞娘であり、通称は藤四郎(藤七郎)といいました。

生誕年月日は不詳ですが、弟である水野信近が大永5年(1525年)生まれであることからその数年前であると考えられます。

異母妹に於大の方がおり、この於大の方が松平広忠に嫁いで竹千代(後の徳川家康)を生んでいることから、水野信元は徳川家康の伯父にあたります。

緒川城入城(1533年)

水野宗家当主であった父・水野忠政が、天文2年(1533年)に三河国刈谷城を築き居城を移すと、水野信元がそれまでの水野家の居城であった緒川城に入りその居城とします。

水野宗家の家督継承(1543年)

元服した水野信元は、当初は水野忠次を名乗ったようですが、「水野忠次」名義で発行された文書は現存しないため、その後すぐに「水野信元」に改名したと考えられています。

水野信元は、天文12年(1543年)に父・水の忠政が死去したことにより水野宗家の家督を継ぎます。なお、水野信元が家督を継いだころの水野家は、宗家である緒川水野家の他、刈谷水野家、大高水野家、常滑水野家などの諸家に分かれている状況でした。

水野信元が水野家の家督を継いだ頃の尾張国知多郡は、西側に尾張国を治める織田弾正忠家と、駿河国・遠江国・三河国を治める今川家に挟まれた厳しい状況下に置かれていましたのですが、水野家は、前記のとおり水野信元の異母妹である於大の方が今川家傘下の松平広忠に嫁いでいたことから明らかなように、今川家に属している状況でした。

織田信秀との同盟締結(1544年)

水野信元が水野家の家督を承継したころは、岡崎城東南の小豆坂にて天文11年(1542年)8月に行われたとされる第一次小豆坂の戦いにおいて織田信秀が今川軍を率いた太原雪斎に勝利してその勢力を高めていた時期でした。

そこで、水野信元は、既に織田家と縁戚関係にあり、三河国の松平宗家と関係が悪かった桜井松平家(水野信元の妻の実家)の縁を利用して織田家に接近します。

その上で、水野信元は、天文13年(1544年)、今川家との手切れの上、敵対していた尾張国の織田信秀と同盟を締結します。織田家は三河国攻略に向かっての東進を、水野家は知多半島統一に向かっての南進を目指していたため、利害の一致が見られたことによる同盟締結でした。

ところが、この水野信元の判断に、今川義元に臣従していた三河国の松平広忠は焦ります。

正妻の実家が、自分の主君である今川家と戦いを繰り返している織田信秀に与したため、松平広忠もまた裏切りを疑われる立場となったからです。

困った松平広忠は、今川家との関係維持のため、水野忠元の妹である於大の方を離縁し、水野家に返却します(これにより、竹千代【後の徳川家康】は3歳にして母と生き別れることとなっています。)。

知多半島統一戦

織田信秀との同盟を締結し西側の安全を確保した水野信元は、織田信秀の三河国侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出します。

もっとも、織田家と誼を通じたとはいえ、知多半島には、水野分家や、渥美郡に大きな力を持つ戸田家をはじめとする多くの国人領主が乱立しており、これらの対応が必要となる困難な道のりでした。

水野信元の南進政策

水野信元は、まず知多郡宮津城(所在不明)を攻略して城主・新海淳尚を討ち取ります。

その上で、宮津城を廃して亀崎城を築き、稲生政勝を入れてこれを守らせます。

続けて、榎本了圓が守る成岩城を攻略して、梶川秀盛(梶川文勝)を入れます。

さらに、岩田安広が守る永尾城も攻略して、さらには岩滑城にも中山勝時(水野信元の妹婿)を入れてこれを支配します。

久松俊勝を取り込む(1547年)

また、水野信元は、天文16年(1547年)、松平広忠に離縁されて水野家に戻っていた異母妹である於大の方を阿古居城(坂部城、現在の阿久比町)主・久松俊勝に再嫁させてこれを取り込みます。

常滑水野家を取り込む

また、水野信元は、水野家の分流である常滑水野家3代目の水野守隆にも娘を嫁がせてこれでこれを取り込みます。

戸田家を取り込む

加えて、水野信元は富貴城主の戸田法雲を攻略し、さらに河和の戸田家を攻略するため、布土城を築き、弟の水野忠分を城主として派遣します。

これらの勢いに押された田原城主・戸田康光は、天文16年(1547年)、岡崎の松平家から駿河国の今川義元のもとへ人質として送られるはすであった松平竹千代(後の徳川家康)を強奪し、これを手土産に織田方に転じたのですが、怒った今川軍に攻め滅ぼされ討死してしまいます。

追いつめられた知多半島の戸田氏は水野信元と講和を結び河和を残すことを図って水野信元に接近し、この状況を奇貨とした水野信元は、娘である妙源を、河和城主・戸田守光に嫁がせ、戸田家を水野家の一族に取り込んでしまいます。

その後、知多半島南部まで進出した水野信元は、野間を支配下に入れ大野佐治家とも和解し、知多半島の大部分を支配下に置く大勢力となります。

今川家との戦い

今川家に下る

他方、水野信元の協力を得て南方の安全を確保した織田信秀は、東進して三河国への侵攻を開始します。

ところが、天文17年(1548年)3月19日、岡崎城を武力で攻略することを目指して安祥城を出陣した織田信秀軍が太原雪斎率いる今川軍に敗れると(第二次小豆坂の戦い)、織田方の勢いが失われ、天文18年(1549年)11月には安祥城までもが今川家に奪還されてしまいます。

この結果、織田家の勢いが失われ、また刈谷城を今川軍が占拠したこともあり、程なく成立したとされる織田信秀と今川義元の和睦成立の頃、水野信元が今川家の傘下に入ることとなったと考えられています。

再び織田家と誼を通じる

天文20年(1551年)3月3日、織田信秀が末森城で急死したことから織田信長が織田弾正忠家の当主になったのですが、うつけと呼ばれていた織田信長に不信感を持つ家臣団が造反を始めます。

天文21年(1552年)には鳴海城主・山口教継父子が織田信長を見限って今川義元の傘下に入り、またその調略によって天文22年(1553年)には大高城、沓掛城が今川方に奪われます。

ところが、この混乱の中、水野信元は、逆に知多半島を狙う今川家と手切れの上、再び織田家と誼を通じるという決断をします。

村木砦の戦い(1554年1月24日)

沓掛城・鳴海城・大高城を手に入れた今川義元は、裏切者の水野信元を討伐して知多半島に勢力を及ぼすべく、水野信元が治める緒川城(小河城)の攻略を目指していきます。

もっとも、今川方の遠江国側から見ると、緒川城は海を越えた先にありますので、いきなり緒川城に攻め込むのは困難です。

そこで、今川義元は、まず、西三河にある水野方の重原城を攻略し橋頭堡とした上で、海を渡って東側に上陸し、緒川城の真北の場所に、緒川城攻めの前線基地となる東西約250m・南北約200mの規模を誇る村木砦を建築します。

さらに悪いことに、ここで織田方だった知多半島西側にある寺本城主・花井氏が今川方に寝返ったため、織田信長の居城・那古野城と緒川城とが分断されてしまいました(緒川城が、今川方の寺本城・藪城・重原城に囲まれて孤立します。)。

困った水野信元は、織田信長に対し、緒川城解放のために村木砦の攻略を依頼したのですが、織田方が、陸路を進んで今川方の後詰めが予想される寺本城を力攻めで攻略し、その後東進して村木砦を攻略することは容易ではありません。

かと言って、緒川城主・水野信元の要請も無視できません。そんなことをすれば、尾張国内の国衆達が次々と今川に下ってしまいます。

困った織田信長は、寺本城を避けて海路で同城の南側に回り込んで知多半島に上陸した後、東進して村木砦を攻撃するという作戦を立案します。

その上で、織田信長は、斎藤道三から預かった客将・安藤守就に那古野城の守りを任せ、天文23年(1554年)1月21日に兵を率いて出陣し、海路を進んで知多半島の西側(寺本城の南側)に上陸します。

翌同年1月23日、織田信長軍は、野営地を引き払って東進し、水野信元が治める緒川城に入ります。

そして、織田信長は、夜が明けると水野信元と共に緒川城から出陣して北進し、天文23年(1554年)1月24日辰の刻(午前8時)、南から織田信長及び水野信元、西から織田信光による村木砦への総攻撃を行ってこれを攻略します(村木砦の戦い)。

なお、村木砦を攻略した織田軍は、那古野城に引き返すこととなったのですが、その帰路で今川義元に下った寺本城への報復として、寺本城下に放火して荒らし回っています。

なお、村木砦の戦いにより水野家の織田家への従属性が高まり、また勢いを取り戻した織田家では三河国池鯉鮒を取り戻すなどの巻き返しがなされています。

今川家への揺さぶり

弘治元年(1555年)10月、今川家に反旗を翻した吉良家が水野信元に人質を差し出して援軍を求めたため、水野信元は、緒川水野家のみならず、刈谷水野家をも率いて対今川戦に援軍を派遣しています。

その後、水野信元を調略して奥平貞勝を織田陣営に寝返らせ(三河忩劇)、以降、水野信元は甥の松平元康との間で、織田と今川の代理戦争を繰り返すようになります。

刈谷水野家を吸収(1560年)

織田信長が失った鳴海城と大高城を奪還するため、これらを取り囲むと、永禄3年(1560年)5月、今川義元が両城の解放とその後の尾張国侵攻を目指し、駿河国・遠江国・三河国から2万5000人とも言われる大軍を動員して尾張国への侵攻を開始します。

こうして、戦国時代の流れを変えた桶狭間の戦いが勃発します。

桶狭間の地が水野家の家臣・中山勝時の領地であり、中島砦を梶川高秀・梶川一秀が、丹下砦を水野帯刀がそれぞれ守り、織田軍一番首の手柄が水野清久(水野清重の息子)であるとされていますので(常山紀談)、水野家も桶狭間の戦いに参加していたことは間違いありません。

もっと、この戦いにおいえ水野信元自身がどういう働きをしたのかは不明であり、「信長記」天理本では、大高城の南に「小河衆」が置かれていたとされていますので、大高城の包囲に加わっていた可能性がありますが、真偽は不明です。

いずれにせよ、桶狭間の戦いは織田軍の大勝利に終わります。

勝者に与した水野信元は、大高城兵糧入れを成功させた後も今川方の将として大高城に残っていた甥の松平元康(後の徳川家康)の下に浅井道忠を使者として使わして大高城からの脱出を促し、代わりに大高城に一門の水野元氏(高木清秀の舅)を入れてこれを接収します。

また、水野信元は、鳴海城を守っていた今川方の岡部元信が反撃に転じて刈谷城を攻略して水野信近は討ち取った報復として刈谷城に向かい、水野信近の首級と刈谷城を守り戻します。

その後、水野信元は、重原城も奪取し、同年6月18日にはこれを取り戻しに来た松平元康軍を撃退しています。

以上により、桶狭間の戦いにより、緒川水野家の水野信元が、刈谷水野家の所領を接収することとなり、刈谷水野家の後継者であった水野信政を養子に迎え、緒川・刈谷両家を融合させてその勢力を拡大させています。

織田信長と徳川家康との橋渡し役となる

清洲同盟を仲介する(1562年)

桶狭間の戦いによって今川家の力が低下すると、桶狭間の戦い後に岡崎城に入っていた松平元康がこれに見切りをつけ、今川家からの独立を果たします。

ここで、松平元康は、関係が悪化した今川家に代わる新たな後ろ盾として織田信長と近づくことを決め、織田家の重臣となっていた伯父・水野信元に接近します。

こうして、水野信元は織田方の代表者として、松平方の石川数正と交渉を続け、永禄5年(1562年)、織田家と松平家の軍事同盟を成立させます(清洲同盟)。

甥・松平元康を助ける

清洲同盟成立後は、水野信元は、度々同陣営となった松平元康の相談に乗るなどしてこれを助け(牧野文書)、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際には、援軍の派遣をしています。

また、水野信元は、足利義昭による永禄六年諸役人附に外様衆の1人として記録されていることから、この頃には水野信元は幕府直臣と扱われていたと考えられます。

家督を養子水野信政に譲る(1567年)

50歳が近づいてきた水野信元は、隠居を考えるようになったのですが、既に実子に先立たれていたため、永禄10年(1567年)頃、家督を養子(刈谷水野家であった水野信近の子)である水野信政(元茂)に譲り隠居します。

隠居後も織田信長の戦いに従軍

もっとも、水野信元は、隠居後も隠棲した訳ではなく、その後も織田信長の勢力拡大戦に従軍します。

永禄11年(1568年)の織田信長の上洛に従軍し、京で朝廷に2千疋の献金を行っています(言継卿記)。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいては佐和山城攻略に尽力し、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにおいては織田援軍の将の1人として徳川軍に参陣しています。

なお、三方ヶ原の戦いに際しては、浜松城を素通りしようとした武田軍を追撃しようとした徳川家康に対し、水野信元は篭城戦を主張し、戦いに敗れた後の徳川軍に代わって浜松城を守っています。

また、天正2年(1574年)の第三次長島侵攻戦にも従軍したようです(信長公記)。

なお、この頃の水野信元は、石高は24万石を有していたとする記録があるのですが(結城水野家譜)、さすがに過大であるとして実際には12万石程度であったのではないかと考えられています。

水野信元の最期

対武田の戦い

槇島城の戦いに敗れて京を追放された後毛利輝元を頼って鞆の浦に逃れた足利義昭が、信長包囲網の再構築を企図して織田信長討伐の御内書をばらまき始めこれにより、毛利家のみならず、本願寺・雑賀衆、武田家、宇喜多家、上杉家、松永家などが立ち上がります(第三次信長包囲網)。

そして、この御内書は、天正2年(1574年) 3月20日、水野信元の下にも送られたのですが、水野信元は信長包囲網には参加せず逆に織田方の将として天正3年(1575年)5月21日の長篠・設楽原の戦いに参加しています。

水野信元内応の疑い

もっとも、この頃から水野信元は、武田家との内通の疑いを受けるようになります。

そのきっかけは、天正3年(1575年)、織田軍が武田方の秋山信友が守る美濃国岩村城を包囲した際、水野領から食料の調達に応じる者があったことから、佐久間信盛が織田信長に水野信元の内通を訴えたことでした(松平記・巻6、なお、寛政重修諸家譜では明智光秀の讒言とされています。)。

このとき、佐久間信盛の讒言があったかどうかは必ずしも明らかではありませんが、水野信元を排除できれば尾張国・三河国における水野家の影響力を排除できることから、織田・徳川両家にとって有用であるとの配慮が働いたと考えられ、織田信長から徳川家康に対し、水野信元暗殺の命令が下されます。

水野信元暗殺(1575年12月27日)

織田信長から伯父である水野信元暗殺を命じられた徳川家康は、筆頭家老である石川数正を派遣して水野信元を岡崎に迎えることとし、天正3年12月27日(1576年1月27日)、その道中である三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)に達した際に平岩親吉により、養子であった水野信政(水野信元の弟である水野信近の子)とともに殺害させたとされています(寛政譜)。なお、松平記では水野信元が切腹したたと記し、三河物語では水野信元の死について触れられていませんので、この辺りの正確な経緯は不明です。

このときに刺客を命じられた平岩親吉は、水野信元を斬ったのち屍を抱き上げて、主命により殺害したが水野信元に申し訳ないとして涙ながらに詫びたと言われています。

また、このような事情を知らずに水野信元の案内役を任されていた久松俊勝は、事の顛末を知って徳川家康を恨み、出奔したとされています。

水野領没収

水野信元の死後、水野家の所領は全て没収されて織田家筆頭家老であった佐久間信盛に与えられます。

その後、佐久間信盛は、天正5年(1577年)、石山戦争の際に指揮下に置いていた久松俊勝の長男・久松信俊を、かつて久松家が一向宗を保護していたことを理由として謀反の嫌疑をかけて陣中で自害させた上、阿久比に攻め込んで久松信俊の子2人を殺害し、水野領の吸収を完全なものとします。

もっとも、佐久間信盛は、天正8年(1580年)、織田信長から追放処分を受けたのですが、その理由の1つとして、水野家旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなくその旧臣の知行を直轄としてしまったことが挙げられています(19ヶ条の折檻状)。

水野家再興(1580年8月)

天正8年(1580年)8月の佐久間信盛追放後、その領地の再配分がなされる際に、水野家の旧領を戻して水野家の再興をさせることとなり、水野忠重(徳川家康に庇護されていた水野信元の末弟)が旧領の刈谷に復して水野家宗家となります。

また、このときに水野忠守(水野信元の弟)も尾張国・緒川城を与えられています。

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