【清洲同盟】織田信長と徳川家康という2大英傑を結んだ軍事同盟

清洲同盟(きよすどうめい・清須同盟)は、永禄5年(1562年)に尾張国を治める織田信長と、西三河を治める松平家康(後の徳川家康)との間で結ばれた軍事同盟です。

清州同盟は、美濃国への侵攻を進めたい織田信長と東三河への侵攻を進めたい徳川家康との思惑が一致したことにより、婚姻を伴う対等な軍事同盟としてスタートとします。

もっとも、その後に織田家と徳川家との国力の差が大きく開き始めたため、天正2年(1574年)冬ころには、その性質について徳川家康が織田信長に臣従する形での従属同盟に変化していきました。

もっとも、清州同盟締結中、織田信長・徳川家康の双方がいずれも他方を裏切ることなく続いた戦国時代としては極めて稀な軍事同盟とも言え、織田信長の勢力拡大や、後の徳川家康の名声に繋がった大きな意味のある同盟と言えます。

清洲同盟締結に至る経緯

徳川家康の岡崎入り(1560年5月)

永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いが起こり、今川義元が織田信長に打ち取られます。

このとき、その前哨戦として大高城兵糧入れを成功させて大高城に入っていた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていたのですが、本稿では便宜上「徳川家康」の表記で統一します。)は、伯父である水野信元の家臣の先導によりかつての松平家の居城であった岡崎城に戻ります。

そして、徳川家康は、ここで身の振り方を考えます。

徳川家康による織田領攻撃

松平家の居城であった岡崎城へ戻ることができた徳川家康ですが、長らく城をあけていたため安祥松平家家臣団の統制が出来ていない上、岡崎城の周囲に協力を得られる勢力もありません。

そのため、徳川家康は、岡崎城にただ入っているだけでは今川義元の首を取って勢いに乗る織田方に攻め込まれてしまうと考え、驚きの行動に出ます。

岡崎城下で集められる少ない手勢をかき集め、前線が接する織田方の領地、諸城に攻撃を仕掛けたのです。

この織田方への多方面攻撃が、徳川家康に幸運をもたらします。

この当時、美濃国斎藤家と手切れ状態となっていた織田信長が、北方戦線にかかりきりとなっており、対徳川家康戦線を展開する余裕がなかったからです。

織田信長の事情

(1)西美濃侵攻失敗(1560年6月)

元々は、織田信長が斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)を正室に迎えたことにより尾張国織田家と美濃国斎藤家には同盟関係があったのですが、弘治2年(1556年)4月に長良川の戦いで斎藤道三が息子の斎藤義龍に討ち取られて以降は、織田家と斎藤家との仲が険悪となり小競り合いを繰り返すようになります。

そんな中、織田信長は、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間の戦いで今川義元の首を取って迫り来る今川軍を返り討ちにすると、今度は斎藤家との決戦をすべく、同年6月2日から、尾張中嶋郡から木曽川を超えて西美濃に侵攻します。

いきなり美濃の中心を攻略する作戦です。

ところが、このときは、北上を続ける織田信長軍に対し、西側にある大垣城の氏家卜全・曽根城の稲葉一鉄・美濃北方城の安藤守就ら西美濃三人衆の援軍が駆け付けて横撃したため、横っ腹を突かれた織田信長軍は大敗を喫し、尾張に撤退します。

また、織田信長は、続けて同年8月にも、再び西美濃への侵攻を試みますが、このときは侵攻を予想していた美濃兵が大軍で待ち構えていたため、ほとんど戦わずして撤退をしています。

(2)斎藤義龍死去(1561年6月)

もっとも、美濃国斎藤家に散々苦しめられた織田信長に思わぬ幸運が訪れます。

永禄4年(1561年)6月23日、斎藤家当主であった斎藤義龍が35歳の若さで急死したのです。

後を継いだのは、優れた父・斎藤義龍とは異なり、若く凡庸な人物であった斎藤龍興でした。

織田信長からすると、一気に再度西美濃侵攻によって斎藤家の本拠地稲葉山城を落とす好機が降ってきました。

本格的な美濃国侵攻のチャンスです。

(3)水野信元の仲介により徳川家康に接近

このとき、織田信長による美濃国侵攻の障害の1つとなったのが徳川家康でした。

尾張国から美濃国へ軍を北進させると、南東から徳川軍が邪魔してくることが明らかだったからです。

このときの織田家に、北(斎藤家)と南(松平家・徳川家)とを同時に相手にするほどの国力はありません。

困った織田信長は、本格的な美濃国侵攻の準備として、水野信元(徳川家康の伯父)や久松定俊に命じて徳川家康との間の悪関係の改善を進めることとしたのです。

徳川家康の事情

他方、岡崎城に入った直後は今川家の将として織田信長と戦い続けていた徳川家康でしたが、その後今川氏真が今川義元の敵討ちのために動き出す気配を示さないのを見てこれを見かぎり、永禄4年(1561年)4月15日の善明堤の戦いをはじめとして、三河国における今川方の勢力であった吉良家などに攻撃をしかけている状態でした。

こうして、徳川家康としても、織田家のみならず今川家と敵対するようになっていきます。

もっとも、当然の話ですが、西三河の一国衆にすぎない徳川家康に、北西(織田家)と東(今川家)とを同時に相手にするほどの国力はありません。

そこで、徳川家康としても、織田信長から提案された和睦申し入れを本格的に検討し始めます。

織田・徳川の和睦(1561年9月)

そして、徳川家康がついに織田信長からの和睦申し入れを受け入れたため、永禄4年(1561年)9月、双方誓紙を取り替わしの上で織田信長・徳川家康の和睦が整います(三河後風土記)。

織田信長にとっては北(斎藤家)に向かうため、徳川家康にとっては東(今川家)に向かうための和睦です。

そして、この和睦の証として、徳川家康の嫡男である竹千代(後の松平信康、このときは駿府で人質状態でした。)と、織田信長の長女ある徳姫との婚約がまとまります。

もっとも、徳川家康としても、人質を取られた状態で今川家に独立を宣言することはできません。

大高城兵糧入れに際し、築山殿、竹千代、亀姫らを駿府に残してきているので彼らが人質として扱われており、今川家から独立を宣言すると正室と嫡男が処断されることが明らかだからです。

そこで、徳川家康は、築山殿らを取り戻す策を練りつつ、三河国の支配回復に取り掛かります。

清洲同盟締結

徳川家康の妻子が岡崎へ(1562年2月)

今川家の目を誤魔化しながら三河国の統一戦を進める徳川家康でしたが、徳川家康が徐々に勢力を伸ばして行くのに比例して、今川家の勢いが低下していきます。

その結果、三河国内でも今川方を離れて松平方に転向する勢力が出始めます。

勢いにのる徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿一族が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。

そして、今川氏真が、この人質交換に応じたため、築山殿・竹千代・亀姫が徳川家康のいる岡崎に移ることが許されたのです。

織田信長と徳川家康との同盟交渉

妻子を奪還してしまえば徳川家康を縛るものはありません。

この頃から、徳川方(松平家)は石川数正を、織田方は水野信元をそれぞれ交渉役として同盟交渉を進めます。

もっとも、織田家と松平家は、織田信秀(織田信長の父)と松平清康(徳川家康の祖父)の代から敵対する憎しみあってきた経緯があり、双方の家臣団の遺恨が強く、容易に同盟締結に向かうことができるような状況ではありませんでした。

清洲同盟締結(1562年1月?3月?)

もっとも、その後の織田・徳川両家の調整の結果、永禄5年(1562年)正月15日、徳川家康が織田信長の居城であった清洲城を訪問して、織田信長・徳川家康の会見がなされ、その席上にて軍事同盟が締結されたと言われています(徳川実記・武徳編年集成など)。

なお、清州城で締結されたことから清洲同盟と呼ばれるのが通説ですが、他方で、信用性の高いとされている「信長公記」・「三河物語」・「松平記」などの資料に清洲会議の記録が存在していないこと、徳川家臣団の家譜などにも清洲城に赴いたなどとい記載が存在していないこと、三河国統一戦を戦っていた徳川家康に三河から離れる余裕があったとは考えられないことなどから、清洲会見の存否については否定的見解も有力です。

個人的にも、人質交換により徳川家康が築山殿と竹千代を取り返したのが同年2月ころのはずですので同年正月の会見だとすると時期が合わないようにも思え、否定的に考えるのが自然ではないかとも考えています。

いずれにせよ、清洲会見の存否は不明であるものの清洲同盟締結については争いはなく、その後、永禄5年(1562年)3月に、同盟締結の証として既に婚約関係にあった徳川家康の嫡男である竹千代(後の松平信康)と織田信長の長女ある徳姫との結婚が正式に成立したことにより、単なる軍事同盟から縁戚関係に発展し、その結びつきが強まっています。

清洲同盟締結の効果

清洲同盟の締結により、南東の安全を確保した(徳川家康という今川・武田に対する盾を手に入れた)織田信長は、以降、全力で美濃国侵攻戦を進めていきます。

また、西側の安全を確保した徳川家康は、正式に今川家からの独立を果たすと共に、西三河→東三河→遠江国へと侵攻していくこととなります。

対等同盟から従属同盟へ

徳川家が織田家に従属(1574年冬ころ)

以上のとおり対等同盟として始まった清洲同盟ですが、美濃国を平定した後で足利義昭を奉じて上洛し、その後、越前朝倉氏北近江浅井氏などを次々と滅ぼして勢力を急拡大していく織田信長に対し、三河国から東に向かって勢力を拡大させていくも武田家が障害となって急拡大には至らない徳川家康との間に大きな国力差が生れていきます。

その結果、全方面戦線を進めることが出来るだけの国力を手に入れた織田信長としては、もはや軍事同盟を必要としなくなります。

そこで、天正2年(1574年)ころになると、織田信長は、同盟勢力に対し事実上の臣従を迫っていき、このころに圧力に屈した徳川家康が織田信長に臣従するようになります。

この力関係の変化は、この頃に出された書状でも読み取れます。

手紙の書き方に関する約束である書札礼を見てみると、天正元年(1573年)ころまでは、織田信長から徳川家康に対して出された書状の書き止め文言が「恐々謹言」と記されており、対等者に対する形式をとっています。この頃に、徳川家康から織田信長に対して出された書状の書き止め文言も「恐々謹言」でした。

そのため、天正元年(1573年)ころは、織田信長と徳川家康との立場は対等なものであったと言えます。

ところが、天正2年(1574年)10月ことからは、織田信長から徳川家康に対して出された書状の書き止め文言が「謹言」という博礼形式に変わっており、目下者に対する形式に変わっています。また、同年11月頃に、徳川家康から織田信長に対して出された書状の書き止め文言が「恐惶謹言」という目上者に対する形式に変わっています。

これらの書面から見ても、天正2年(1574年)冬ころには、清洲同盟がそれまでの対等同盟から従属同盟に変わったことが見て取れ、徳川家康は織田信長の顔色を見ながら行動することを余儀なくされることとなっています。

水野信元処断(1576年1月27日)

ここで、さらに徳川家康を苦しめる事件が起こります。

徳川家と同じように織田家と同盟関係なあった知多半島の雄・水野信元が、天正3年(1575年)ころから武田家との内通の疑いを受けるようになり、織田信長から徳川家康に対して水野信元暗殺の命令が下されたのです。

この命令は、徳川家康からすると伯父の殺害という苦しいものである上、織田信長が同盟者であっても必要がなくなれば容赦なく切り捨てる意思を持っていることを知らしめるものでした。

もっとも、徳川家康が、この時点で織田信長の意向に反することなどできようはずがなく、天正3年12月27日(1576年1月27日)、筆頭家老である石川数正を派遣して水野信元を岡崎に迎えることとし、その道中である三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)に達した際に平岩親吉により、養子であった水野信政(水野信元の弟である水野信近の子)とともに殺害させたとされています(寛政譜)。

松平元康・築山殿処断(1579年)

天正7年(1579年)、徳川家康の嫡男・松平信康の正室であった織田信長の長女・徳姫が、織田信長に対して12か条の内容を記した1通の書状を送ったのですが、この手紙の内容に激怒した織田信長が、徳川家康に対して松平信康の粛清を命じます。

織田信長から松平信康殺害の命を受けたことを聞いた徳川家康は、悩みに悩みますが、形式上は同盟関係にあったとはいえ、実質的には織田家の属国扱いとなっていた徳川家では織田信長の命に背くことはできません。そんなことをすれば、織田信長に徳川家取り潰しの口実を与えてしまうからです。

そこで、徳川家康は、苦渋の決断の上、やむなく松平信康殺害を決意し、大浜城、堀江城を経て、天正7年(1579年)8月10日に松平信康を二俣城へ幽閉します。

この後、松平信康の助命嘆願のため、自身が暮らす岡崎城から徳川家康が暮らす浜松城に向かった築山殿が、同年8月29日、遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(現在の浜松市中区富塚町)において、徳川家康の命を受けて同行していた野中重政によって殺害されます。

また、松平信康もまた、天正9年(1579年)9月15日、二俣城において、服部正成の介錯の下で切腹して果てています。

徳川家康に駿河国が与えられる

天正10年(1582年)3月に武田家が滅亡すると、織田信長の主導によって武田遺領の分割が行われます。

このとき、織田信長は、武田遺領のうち、信濃国を森長可と毛利秀頼に、甲斐国を河尻秀隆に、上野国を滝川一益にそれぞれ与えたのですが、徳川家康にもまた駿河国が与えられました。

このときの駿河国付与は、徳川家康が安土城にいた織田信長の下に赴いて賜るという形で行われており、完全に徳川家康が織田臣下の一大名になっていたことがわかります。

清州同盟の消滅

清州同盟の終焉

以上のとおり、強いつながりとして継続していた清州同盟ですが、天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変によって織田信長が横死したことにより転換点を迎えます。

本能寺の変発生当時、僅かな手勢のみを連れて堺に滞在中であった徳川家康は、人生最大の危機ともいえる神君伊賀越えを乗り越えて無事に三河国に帰還します。

その後、権力の空白地帯となった武田遺領の吸収を進め、三遠駿甲信の五ヶ国にまたがる大大名へと成長を果たします。

他方、賤ヶ岳・北ノ庄城の戦いの後に織田信孝が切腹させられ、また小牧・長久手の戦いの際に織田信雄が羽柴秀吉に下ったことにより、事実上羽柴秀吉による織田家の乗っ取りが完了し、清州同盟もまた事実上消滅します。

徳川家康にとっての清州同盟の意義

永禄5年(1562年)に織田信長・徳川家康の対等同盟として成立した清州同盟は、その後徳川家康が織田信長に臣従することによって従属同盟となった後も、織田信長が横死する天正10年(1682年)まで20年間にも亘って変わることなく維持されます。

徳川家康は、この20年の間に幾たびもの危機に見舞われ、また織田信長からの無理難題を言われ続けながらも、ただの1度も織田信長を裏切ることはありませんでした。

このことは、同盟関係というつながりが極めて薄いつながりに過ぎなかった戦国時代において異例のことであり、苦境においても同盟相手を決して裏切らないという徳川家康の名声を高めるのに大きく役立ちました。

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