【築山殿(瀬名姫)】悲劇の死を遂げた徳川家康の最初の正室

築山殿(築山殿)は、東照大権現・徳川家康の最初の正室であり、瀬名姫(せなひめ)とも言われています。

今川家の重臣の家に生まれて嫡男・松平信康を生みながら、謀反の疑いによって徳川家康の命により殺害されるという悲しい最期を遂げた人物でもあります。

この築山殿殺害事件は、余りにも有名な歴史的事件でありながらその詳細は実はよくわかっておらず、かつては織田信長の命令によるものであったとするのが一般的だったのですが現在では疑問を呈されており、謎多き事件と言えます。

本稿では、これらの前提を踏まえつつ、瀬名姫の人生を振り返っていきたいと思います。

築山殿の出自

築山殿は、今川家一門である駿河国・持船城主であった関口親永または瀬名義広と、井伊直平の娘であり今川氏親の養女(今川義元の乳母、又は妹)となった母の間に生まれます。

生年は不明で、夫の徳川家康と同じ歳とする説(1542年生)、2歳年上とする説(1540年生)、12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説があります。

なお、築山殿は、鶴姫、関口瀬名、瀬名姫、お瀬名の方、築山御前、駿河御前とも呼ばれますが、本稿では築山殿で統一します。

 

徳川家康(当時は松平元信)の正室となる(1557年1月15日)

天文11年(1543年)12月26日に、西三河の小大名の子として生まれた徳川家康(幼名:竹千代、本稿では徳川家康で統一します。)は、三河・遠江・東三河を治める今川義元の下に人質として預けられ、8歳から駿河国で生活をしていました。今川家の下で成長した徳川家康が年頃になると、今川義元は、松平家を取り込んで三河支配を盤石化するために、その結婚相手となる一門衆から年頃の娘を探します。

そして、この頃に年頃の未婚の娘として存在したのが、築山殿でした。

そこで、今川義元は、築山殿を養女として迎えた上で、弘治3年(1557年)正月15日、徳川家康と結婚させます。

この結婚は、駿河・遠江・東三河を治める大大名である今川家の娘と、西三河の小大名に過ぎない松平家の当主とが結びつくためのものであり、実質的には松平家が今川家の支配下に入ることを宣言するものでもありました。

もっとも、当初は、徳川家康と築山殿の仲は良く、2人の間には、永禄2年(1559年)3月6日に嫡男・竹千代(後の松平信康)を、永禄3年(1560年)6月4日には亀姫(後の奥平信昌の正室)が生まれています。

徳川家康は、今川家で人質として育ち今川家の武将として活動をしていましたので、当然築山殿・竹千代・亀姫も駿府で生活することとなっています。

 

築山殿と徳川家康との確執

桶狭間の戦い(1560年5月19日)

永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国織田家を滅ぼすために出陣することとなったのですが、徳川家康は、今川軍の先遣隊として尾張国に出陣し、最前線となる大高城に今川の大軍を迎え入れるための大高城兵糧入れ作戦を成功させます。

ところが、同年5月19日、大高城に入って今川義元を待っていた徳川家康の下に、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたとの報が届きます(桶狭間の戦い)。

命の危険を感じた徳川家康は、伯父である水野信元の家臣の先導によりかつての松平家の居城であった岡崎城に戻り、今川家に戻るか、今川家と袂を分かちて独立するかの決断に迫られます。

ここで徳川家康は、今川義元というカリスマを失ったためにジリ貧になるであろう今川家から独立することを選択します。

この選択は、松平家にとって見ると織田信長の勝ち馬に乗った最良の選択と言える決断ですが、今川一門の娘であった築山殿にとって見ると最悪の決断でした。

駿府で今川家の人質となる

徳川家康が駿府に戻ることなく岡崎城に入ってしまうということは、築山殿・竹千代・亀姫らが人質として駿府に取り残されることを意味するからです。

結果、築山殿らは、今川家当主である今川氏真の下で、裏切り者の妻子という扱いを受けることとなってしまいます。

いわば、捕虜の扱いです。

正室と嫡男を今川家に押さえられているということは、徳川家康にとっても交渉の際に絶対的な不利益を受けることを意味し、解消しなければならない問題となります。

そこで、徳川家康は、築山殿らを取り戻す策を練りつつ、三河国の支配回復に取り掛かります。

人質交換により岡崎へ

これに対し、徳川家康は、以降も三河国の統一を目指して三河統一戦を続行します。

今川家の勢いが低下していくのに比例して徳川家康(松平家)が徐々に勢力を伸ばして行くこととなったため、三河国内でも今川方を離れて松平方に転向する勢力が出始め、勢いに乗る徳川家康は、永禄5年(1562年)に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿氏が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。

そして、今川氏真が、この人質交換に応じたため、築山殿・竹千代・亀姫が徳川家康のいる岡崎に移ることが許されたのです。

清洲同盟(1562年3月)

妻子を今川家から取り戻した徳川家康は、思い切った決断をします。

織田家の重臣となっていた伯父・水野信元の縁を利用して、松平家の永年の旧敵である尾張国・織田弾正忠家に接近したのです。

敵(今川)の敵(織田)は味方という作戦です。

そして、徳川家康は、永禄4年(1561年)に嫡男・竹千代(松平信康)と婚約していた織田信長の娘・徳姫(五徳)との結婚を正式に成立させ、永禄5年(1562年)正月ないし3月には織田信長と軍事同盟(清洲同盟)を結ぶことに成功したのたのです。

これは、実質的には、松平家(徳川家康)が、今川家から独立することを宣言することを宣言するものであり、離反宣言を突き付けられた今川氏真は激怒します。

築山殿の岡崎での生活

岡崎に移った築山殿ですが、正室が織田家と敵対する今川一族の娘では都合が悪いと徳川家康が判断したことにより、岡崎城に入ることはおろか夫・徳川家康と面談することすら許されませんでした(築山殿とは異なり嫡男である竹千代は岡崎城での生活を許されています。)。

そのため、築山殿は、岡崎城下の惣持尼寺の西側に屋敷を与えられての幽閉同然の生活を強いられることとなります。なお、築山殿の名は、このときの屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことにちなみます。

また、築山殿の監視のため、築山殿の侍女の多くも徳川家康が準備した女性に変えられます。

さらに、築山殿は、このときに実質上徳川家康の正室の座から下ろされます(家忠日記において、築山殿を示す敬称が正室を表す「御前さま」ではなく「信康御母さま」であるとされており、築山殿はこのときに徳川家康から離縁されたと考えられます。)。

松平信康と徳姫の結婚(1567年)

永禄9年(1566年)ころ、徳川家康は、三河国統治の正当性を得るために徳川姓に改姓したのですが、永禄10年(1567年)8月には美濃国を攻略した同盟相手の織田信長の臣下のような扱いを受けるようになっていきます。

徳川家がいまだ今川家と武田家の脅威に直接さらされる難しい立ち位置にいたからです。

徳川家康は、破竹の勢いで勢力拡大を続ける織田家との結びつきを強め、その威光を利用するため、織田家との同盟の証として、永禄10年(1567年)、嫡男・竹千代を9歳にして織田信長の長女・徳姫の婚約関係を発展させて結婚させることとします。

築山殿が岡崎城に入る(1570年)

元亀元年(1570年)、徳川家康は、今川氏真を破って遠江国を得たことにより松平家の本拠を岡崎城から浜松城に移し、岡崎城を元服して竹千代から名を改めた松平信康に与えます(「信」長と家「康」から1字ずつ取って信康と名乗りました)。

もっとも、築山殿は、夫と共に浜松城へ移ることは許されず、徳川家康が去った岡崎城に松平信康と共に入城することとなりました。

この結果、築山殿は、元亀元年(1570年)から松平信康・徳姫と共に岡崎城内での生活を始めます。

なお、この後、天正元年(1573年)に、築山殿の女中であったお万の方が徳川家康の子(後の結城秀康)を妊娠したのですが、お万の方を徳川家康の側室(妾)とすることに同意していたかった築山殿は、自身の拒否権を無視されたことに対して激怒し、お万の方を女房衆から追放した上で、妊婦のお万の方を浜松城内の木に縛り付けて折檻したとの逸話も残されているのですが、真偽のほどは不明です。

築山殿と徳姫との確執 

松平信康が側室を迎える

その後、松平信康と徳姫の関係は良好で、2人の間に、天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫が生まれています。

もっとも、築山殿は、徳姫が出産するのが女児ばかりで、男児が生まれないことを心配し、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となった浅原昌時の娘や、日向時昌の娘などを、松平信康の側室に迎えさせます。

家を想う母心です。

ところが、この行為が築山殿と徳姫との関係を悪化させます。

徳姫からすると、自分が男児を産めない女として扱われたように感じたからです。

これにより築山殿と徳姫との関係がこじれて行くのですが、それに伴って、徳姫と松平信康の関係も次第に悪化していきます。

2人の確執は深刻で、徳川家康や織田信長までもがその仲裁のために岡崎城へやってきていたなどとも言われています。

十二ヶ条の訴状(1579年)

築山殿と徳姫との関係悪化は修復不可能なレベルに達し、遂に、徳姫が行動に出ます。

徳姫は、天正7年(1579年)、父親である織田信長に対し、1通の訴状を送ったのです。

この訴状には、松平信康が武田家と内通していたなど、12か条にも亘るものでした。

この訴状を受け取った織田信長は、直ちにそのとき安土城に滞在していた徳川家重臣・酒井忠次を呼び寄せ問い質します。

ここで、酒井忠次は、難しい選択を強いられます。

織田信長の質問を肯定すれば徳川家の嫡子が謀反を企てていることを認めることとなる一方で、これを否定すれば織田信長に対して織田信長の娘が嘘をついていると指摘することになるからです。

困った酒井忠次は、何も答えることはできませんでした(事実と認めたとも言われています。)。

酒井忠次の態度を見た織田信長は、徳姫の訴え(松平信康が武田と通じていること)を真実と看做し、酒井忠次に徳川家康に対して松平信康を切腹させよと伝えるよう命じます。

酒井忠次から、織田信長から松平信康殺害の命を受けたことを聞いた徳川家康は、悩みに悩みますが、形式上は同盟関係にあったとはいえ、実質的には織田家の属国扱いとなっていた徳川家では織田信長の命に背くことはできません。そんなことをすれば、織田信長に徳川家取り潰しの口実を与えてしまうからです。

そこで、徳川家康は、苦渋の決断の上、やむなく松平信康殺害を決意します。

そして、徳川家康は、天正7年(1579年)8月3日、浜松城から岡崎城に赴き、翌日同年8月4日に松平信康を大浜城へ移します。

その上で、岡崎にいた松平信康麾下の武将達に事の顛末を伝え、反乱などが起きないように抑え込みます(なお、岡崎城では、その後の同年8月12日に松平康忠と榊原康政によって戒厳令が敷かれています。)。

そして、松平信康を、大浜城、堀江城と移した後、同年8月10日に二俣城へ幽閉します。

 

築山殿暗殺

松平信康の助命嘆願のため浜松へ

松平信康切腹の流れが着々と進んでいることを知った築山殿は、その助命嘆願のため、自身が暮らす岡崎城から徳川家康が暮らす浜松城に向かい、東海道を東へと進んでいきます(徳川家康の命により築山殿の処分を命じられた野中重政が岡崎城へ迎えに行ったとも言われていますが、詳細は不明です。)。

築山殿暗殺(1579年8月29日)

ところが、天正7年(1579年)8月29日、築山殿は、遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(現在の浜松市中区富塚町、ここで築山殿が殺害されたため御前谷と名付けられたとされています。)に到達した際、徳川家康の命を受けて同行していた野中重政、岡本時仲、石川義房によって自害を迫られます。

もっとも、築山殿は、自害の申し出を拒んだため、野中重仲により殺害されました。享年39歳でした。

築山殿の墓所

石川義房が検使役を務め、築山殿の首は安土城の信長の元に届けられます(築山殿の遺骸は浜松・西来院に葬られます。)。

そして、織田信長により築山殿の首実検が行われた後、その首は岡崎に返されて埋められ、翌天正8年(1580年)、首級を埋めた場所に築山神明宮が建立され、弔われます。

松平信康切腹(1579年9月15日)

また、松平信康の、天正7年(1579年)9月15日、服部正成の介錯の下、二俣城において切腹して果てます。享年21歳でした。

なお、徳姫は、娘らを徳川家に残して、織田信長を頼って岡崎城を出ており、その後長女の登久姫は小笠原秀政の、次女の熊姫は本多忠政の正室になっています。

 

余談

以上が、これまで言われてきた築山殿の生涯ですが、実はその真偽はわかっていません。

なぜなら、徳姫が書いたとされる十二ヶ条の訴状は現存しておらず、後の天下人・徳川家康の嫡男切腹という一大事件に関連する重大な手紙であるにもかかわらず、手紙自体の内容自体が、江戸時代に書かれた「改正三河後風土記」にのみ記された内容に過ぎないからです。

また、改正三河後風土記に書かれた記載内容も問題点も多く、真実と特定するには疑問が多すぎます。

そのため、現在では、実は徳川家康自らが築山殿・松平信康を殺害したのですが、後に天下人・東照大権現として神格化していった徳川家康が、妻殺し・嫡男殺しの汚名を着ることがないよう、後世に、織田信長に命じられてやむなく築山殿・松平信康を殺したとする歴史が作り上げられたと考えるのが通説化しているようです。

真実はわかりませんが、色々と考えてみるのも面白いですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA