【土肥実平】挙兵直後から源頼朝に従った最古参御家人

土肥実平・土肥實平(どひさねひら/どいさねひら)をご存知ですか。

桓武平氏の血筋でありながら、源頼朝の挙兵直後からこれに従って転戦した武将です。

相模土肥氏・小早川氏の祖とされ、数々の武功を挙げた有能な武将なのですが、いまいち知名度がありません。

そこで、本稿では、土肥実平の経歴について簡単に紹介していきたいと思います。

土肥実平の出自

土肥実平は、相模国の有力豪族中村氏の一族である桓武平氏良文流中村宗平の次男として生まれます。生年月日は不明です。

中村氏は、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していました。

なお、土肥氏の居館は、現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りにあったと言われています。

源頼朝挙兵に従う

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

源頼朝は、治承4年(1180年)、以仁王の令旨を奉じて挙兵を決意したのですが、三島大社祭礼の日を決行日と決め、挙兵を前に、土肥実平・工藤茂光・岡崎義実・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い個別に協力を依頼し準備を整えます。

土肥実平は、源頼朝の頼みに応え、治承4年(1180年)8月17日、源頼朝が平家打倒のために挙兵した際、嫡男の土肥遠平ら中村党を率いて参じます。

このとき、同じ相模・伊豆の有力な源氏方であった鎌倉党や工藤党が内部分裂したのに対し、中村党は土肥実平を中心に一致して参じたことで源頼朝の信任を受けました。

山木兼隆を討ち取る

挙兵した源頼朝は、勢いをつけるため、まずは伊豆目代の山木兼隆の館を攻め、山木兼隆を討ち取ります。

平氏の代弁者である目代を討った源頼朝ですが、このときの源頼朝の兵力のみで伊豆1国を掌握するにはほど遠く、近い時期に平家方の反撃を受けることが予想されました。

そこで、源頼朝は、土肥実平の拠点・土肥郷に入った上で、相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとし、その本拠地である相模国へ向かいます。

これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎が源頼朝追撃に向かいます。

平氏の軍勢が迫っていることを聞いた源頼朝は、同年8月23日、300騎をもって石橋山に陣を構えます。なお、このとき三浦義明が源頼朝への援軍を出しましたが、大雨であったために酒匂川に足止めされ源頼朝の下にたどり着けませんでした。

石橋山の戦い(1180年8月23日)

三浦氏の援軍が向かっていることを知った大庭景親は、三浦勢が到着する前に雌雄を決すべきと考え、治承4年(1180年)8月23日闇夜、暴風雨の中で源頼朝の陣に襲いかかります。

源頼朝軍も応戦しますが、多勢に無勢で勝ち目はなく大敗北を喫します(石橋山の戦い)。

石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、土肥実平を含む7〜8騎の供回りに連れられ、土肥の椙山に逃亡します。なお、このとき、源頼朝が自害を覚悟したため、土肥実平が、源頼朝に自害の作法・故実を伝授したとされとされています(愚管抄・巻5)。

源頼朝らが、土肥の椙山の「しとどの窟」に隠れていたところ、平家方の梶原景時がこれを発見したのですが、梶原景時は源頼朝の器量を惜しんでこれを見逃します。

九死に一生を得た源頼朝は、更なる逃亡を試みるのですが、このとき源頼朝の供をする加藤景員・宇佐美祐茂らが、源頼朝と行動を共にしたいと申し出たのに対し、土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、今隠れている場所が自分の領地であり源頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言したため、皆これに従って涙を流して別れたとされています(吾妻鏡・治承4年8月24日条)。

そして、この後、源頼朝は、箱根権現を経て、土肥実平が用意した船で真鶴から房総半島の安房国へ脱出し、なんとか命をつなぎます。

源頼朝の東国支配に尽力

安房国に渡った源頼朝はら千葉氏、上総氏らの参陣を得ると反攻に出て鎌倉を獲得し、関東から大庭景親ら平家勢力を駆逐することに成功します。

そして、土肥実平は、その後も、富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐などに参戦して武功を挙げます。

また、土肥実平は、奥州から源頼朝の陣を訪れた源義経を取り次いだり、(吾妻鏡・治承4年10月21日条)、源頼朝に降った梶原景時を取り成したりするなど(吾妻鏡・治承5年正月11日条)、戦以外の面でも源頼朝の東国支配に貢献します。

源平合戦

木曾義仲との戦い

その後、土肥実平は、寿永3年(1184年)1月、源義経・源範頼を総大将とする木曾義仲(源義仲)討伐戦に従軍し、源範頼の下で瀬田の戦いに加わります。

そして、瀬谷橋を守る木曾義仲方の今井兼平を追撃し、木曾義仲方を壊滅させる働きをしています。

なお、この戦いの後、土肥実平は、大江山に派遣され京の防衛を任されます。

平家との戦い

①一ノ谷の戦い

寿永3年(1184年)2月7日の一ノ谷の戦いでは、鎌倉軍が、源範頼率いる大手軍5万6千余騎と、源義経率いる搦手軍1万騎をもって平家の本拠地・福原を攻撃します。

このとき、源氏軍は、源範頼軍が京から西進して、源義経軍が西側に迂回して東進して、平家が守る福原を挟撃する作戦を取ります。

そして、土肥実平は、搦手軍を率いて丹波路を進む源義経の下で行動し、播磨国・三草山の平資盛、平有盛らの陣を夜襲にて撃破することに貢献します(三草山の戦い)。

そして、この後、源義経は、兵を2つに分け、土肥実平に7000騎を与えて敗走した平資盛・平有盛らを追撃させて屋島に追い払わせた後、明石を経由して一ノ谷に向かわせます。

他方、源義経は、漁師の道案内に従って3000騎の兵を率いて急峻な山を馬で駆け下り福原を急襲します。有名な鵯越の逆落しです。

結局、西側を土肥実平に押さえられ、東側から源範頼率いる大軍が押し寄せてくる中で、全く予想していなかった北東方面から源義経率いる騎馬兵に急襲された平家方は大混乱に陥り、我先にと福原を捨てて逃亡し、一ノ谷の戦いは源氏方の大勝に終わります。

この戦いでの武功を評価された土肥実平は、一ノ谷の戦いの後に、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられています。また、土肥実平は、一ノ谷の戦い後に平清盛の妾であった厳島内侍を妾としたそうです(源平盛衰記)。

そして、この後、土肥実平は、山陽道を守って源範頼の山陽道・九州遠征の支援をしています。

またその後も、源頼朝の代官である源範頼の奉行として活躍しています(源義経の戦奉行は梶原景時)。

②壇ノ浦の戦い

また、土肥実平は、壇ノ浦の戦いの後、平家の捕虜を鎌倉に送る際、平家総帥・平宗盛らが乗る牛車の前部を担当したとされています。

そして、この後、土肥実平は、長門国と周防国の惣追捕使にも任じられ、以降、長府に居城を構えています。

その後

土肥実平は、文治5年(1189年)に発生した奥州合戦に参加し、また建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際には、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしています。

なお、土肥実平の生活は質実剛健で奢侈を好まなかったと伝わっており、源頼朝からもその謹厳な暮らし振舞を称賛されていたそうです。

土肥実平の最期

土肥実平の晩年

もっとも、土肥実平は、建久2年(1191年)7月18日、吾妻鏡での厩の上棟奉行をしている記述を最後に、史料からその名が消えています。

一説には、源義経との関係の深さから、源頼朝と源義経の対立の影響を受けて政治的に失脚したとも言われていますが、正確なところはわかりません。

土肥実平死去(1191年11月25日?)

そして、土肥実平は、建久2年(1191年)11月25日死去とされていますが(沼田小川家系図)、安芸国・米山寺過去帳では承久2年(1220年)11月死去とされていることもあり、正確な没年月日はわかっていません。

また、死因も不明です。

なお、余談ですが、戦国時代に毛利元就の三男・隆景が養子に入り毛利の両川と呼ばれた名門・小早川家は、土肥実平から始まります。

具体的には、土肥実平が平家討伐の恩賞として中国方面の惣追捕使(守護)に任じられた際、その子・土肥遠平が安芸国沼田荘(現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職となったのですが、このときにかつての領地であった土肥郷の北部にあった小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)の地名をとって小早川姓を名乗ったことが始まりとされています。

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