【今井兼平】壮絶な最期を遂げた木曾義仲四天王

今井兼平(いまいかねひら)は、木曾義仲(源義仲)の乳母子として育ち、木曾義仲の上洛に力を尽くした義仲四天王の一人です。

死の間際まで木曾義仲に添い遂げ、壮絶な最期を遂げたことでも有名です。

本稿では、そんな忠義の猛将、今井兼平について見ていきましょう。

今井兼平の出自

出生(1152年)

今井兼平は、仁平2年(1152年)、諏訪大社下社の神官であった木曽中原氏・中原兼遠の子として産まれます。

そのため、正式な名は中原兼平(なかはらのかねひら)なのですが、信濃国今井の地を領して今井姓を称しましたので、今井兼平と呼ばれるのが一般的であり、本稿でも今井姓で統一します。

兄弟として、兄に樋口兼光、弟に今井兼光、妹に巴御前がいました。

木曾義仲と共に育つ(1155年~)

木曾義仲の父である源義賢が、兄である源義朝(源頼朝の父)と源氏の棟梁の座を争って対立し、久寿2年(1155年)8月16日、源義朝の長男である源義平に討ち取られます(大蔵合戦)。

このとき、当時2歳であった木曾義仲も討伐対象となりますが、畠山重能・斎藤実盛らが見逃して、今井兼平の父・中原兼遠に預けて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れさせます。

その結果、中原兼遠の庇護の下で、今井兼平・樋口兼光・今井兼光・巴御前らと共に育てられ、特に年齢の近い今井兼平(1152年生)は木曾義仲(1154年生)の乳母子として親密な関係となります。

一説には、木曾義仲と今井兼平は、戦で死ぬときは一緒に死のうと約束していた程の仲であったと言われています。

木曾義仲を主君と仰ぐ(1166年)

仁安元年(1166年)、木曾義仲が石清水八幡宮において元服の儀を執り行い、木曾次郎義仲と名乗ります。

このとき、中原兼遠が、木曾義仲を主君と仰ぎ、樋口兼光・今井兼平の兄弟2人を木曾義仲につけて側近として仕えさせます。なお、この2人は後に義仲四天王にも数えられます。

木曾義仲挙兵

以仁王の令旨

治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の第3皇子である以仁王が、平氏の横暴に耐えかねて、全国に平氏打倒を命じる御教書(以仁王の令旨)を発し挙兵し、源行家と名を変えた源義盛(木曾義仲の叔父)が、変装して諸国に点在する源氏に挙兵を呼びかけて回ります。

この以仁王の令旨は、源頼朝や武田信義らを経て、木曾義仲の下にも届けられます。

木曾義仲挙兵(1180年9月)

木曾義仲は、源頼朝が挙兵したことを知り、自分も源氏嫡流であるとの自負もあって信濃国の武士に令旨を伝え、(おそらく木曽谷で)兵を集めて挙兵します。ときに木曾義仲27歳でした。

当然、今井兼平もこれに従います。

平家との戦い

木曾義仲上洛戦

木曾義仲は、挙兵後、討伐に来た越後国の城助職を撃退し(横田河原の戦い)、その後、信濃国から越後国を経て、北陸道を西に進んでいきます。

その後、木曾義仲は、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護して勢いに乗り、越中国に侵攻します。

寿永2年(1183年)5月9日明け方、般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地に陣を敷いていた平氏軍先遣隊である平盛俊の軍に対し、木曾義仲軍の先遣隊として今井兼平が奇襲をかけてこれを打ち払っています(般若野の戦い)。

般若野の戦いに敗れた平氏軍は、倶利伽羅峠の西まで戻りますが、ここでも木曾義仲軍が平氏軍を蹂躙します(倶利伽羅峠の戦い)。

平氏を蹴散らした木曾義仲は、沿道の武士たちを糾合しながら勢力を拡大しつつ京に向かい、越前国・近江国へ入った後、最後の関門である延暦寺との交渉を経て、後白河法皇を伴って京に向かいます。

木曽義仲入京(1183年7月28日)

木曽義仲のみならず、源行家・安田義定ら他の源氏武将も都に迫っていたため、平氏は、京の防衛は不可能であると判断し、寿永2年(1183年)7月25日、安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁し、三種神器を携えた上で西国へ逃れます(平家都落ち)。

木曾義仲は、寿永2年(1183年)7月28日、比叡山に逃れていた後白河法皇を伴って平氏のいなくなった京に入ります。

このときが木曽義仲の人生のピークとなりました。

嫌われ者の兵士を都から追い出したヒーローとして、朝日将軍という称号までも得ることとなりました。

朝廷との確執

京に入った木曾義仲は、安徳天皇が不在となった朝廷内での天皇擁立問題に口を出し、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となり、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、後白河法皇や朝廷貴族らから総スカンを喰らいます。

また、木曾義仲に連れられた遠征軍の兵士達が飢えて都やその周辺で略奪行為をはじめ、民衆にも木曾義仲への嫌悪感が渦巻きます。

ここで、朝廷内では、もう1つの巨大勢力である鎌倉の源頼朝待望論が主流となり、源頼朝に上洛を促すこととなりました。

源頼朝との戦い

敵が平氏から源頼朝に変更される

後白河法皇の源頼朝への接近に焦りを感じた木曽義仲は、寿永2年(1183年)10月20日、法住寺殿にいる後白河法皇の下に赴いて激烈な抗議をするとともに、源頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、及び志田義広の平氏追討使への起用を要求しますが、許されませんでした。

木曾義仲の敵が、平氏から源頼朝に変わった瞬間でした。

鎌倉軍が近づき勢いを得た後白河法皇は、木曾義仲に対し、ただちに平氏追討のため西下せよ、院宣に背いて源頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え、もし京都に逗留するのなら謀反と認めて成敗するという最後通牒を発します。

法住寺合戦(1183年11月19日)

寿永2年(1183年)11月19日、追い詰められた木曾義仲は、後白河法皇がいる法住寺殿を襲撃して後白河法皇を捕縛して朝廷を掌握します。

その上で、木曾義仲は、同年11月22日、松殿基房(前関白)と連携し、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立します。

さらに、同年12月1日、木曾義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握し、同年12月10日、幽閉中の後白河法皇に圧力をかけて源頼朝追討の院宣を発給させます(これにより形式上は源頼朝が朝敵となりました。)。

宇治川の戦い・瀬田の戦い(1184年1月20日)

朝廷権力を掌握した木曾義仲ですが、寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が美濃国へ入ったという報があったため、北陸道を下って本拠地に戻るか、鎌倉軍を迎え撃つかの判断に迫られます。

ここで、木曾義仲は、鎌倉軍が飢饉によって兵を動員することができず兵数はわずか1000人程度にすぎないとの偽の情報に惑わされ、北陸道下向を取りやめて、鎌倉軍を迎え撃つという判断をしてしまいます。

ところが、同日夜、鎌倉軍の勢力が少ないとの情報が間違いでありその総数は数万人であるとの報が入り、木曾義仲は焦ります。

もっとも、この報が届いたときには、既に鎌倉軍に北陸道の入り口となる近江国・瀬田が源範頼に押さえられていたため、木曾義仲の北陸道下向の選択がなくなります。

そこで、木曾義仲は、やむなく今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋の防衛を任せ、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治橋を守らせます。

そして、木曾義仲自身は100余騎で院御所を守護する形で鎌倉軍を待ち受けます。

他方、鎌倉軍は、寿永3年(1184年)1月20日、源範頼が3万騎で北側から瀬田橋に、源義経は2万5千騎で南側から宇治橋に取りついて攻撃を開始します。

① 宇治川の戦い

源義経が攻める宇治川では、源義経軍が矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れることで戦いが始まります。なお、佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこのときに起きています。

宇治を守る根井行親、楯親忠は必死の防戦をしますが、多勢に無勢で勝負にならず、すぐに源義経軍に宇治川を突破されます。

なお、宇治川を突破した源義経軍は雪崩を打って京へ突入したため、木曾義仲がこれに応戦しますが、ここでもすぐに敗れます。

木曾義仲は、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かいますが、源義経が自ら数騎を率いて追撃して院御所門前で木曾義仲を追い払ったため、後白河法皇を失ってしまいます。

② 瀬田の戦い

また、瀬田の唐橋を守る今井兼平も、瀬田橋の橋板を外すなどして必死に防戦します。

もっとも、多勢に無勢で勝負にならず、源範頼に突破されます。

敗れた今井兼平は、瀬田から西に向かって退却を開始し、京に残る木曾義仲との合流を目指します。

今井兼平の最期

粟津の戦い(1184年1月20日)

京を奪われ、後白河法皇を連れ出すことにも失敗した木曾義仲は、南から責めてくる源義経軍を避けるため、北東方向へ退却を開始します。なお、敗北した木曾義仲については、長坂峠から丹波街道へ落ちて行くとも大原から龍華越を北国へ抜けるとも噂され、本来であれば鎌倉軍のいない西に逃げるべきだったのでしょうが、木曾義仲は、今井兼平との死ぬときは一緒という約束をはたすため、今井兼平の戦う瀬田に向かって行きます。

そして、木曾義仲が、三条河原・粟田口・松坂・山科を越えて大津・打出浜に辿り着いた際、瀬田を突破されて退却してきた今井兼平と合流します(このときの木曾義仲の供廻りは僅か7騎であり、今井兼平の供廻りは50騎であったそうです。)。

木曾義仲と今井兼平は、散りじりとなっていた兵をかき集めて300騎になったところで、今井兼平を追ってきた源範頼方の一条次郎忠頼率いる6000騎が襲いかかります。

木曾義仲・今井兼平らは、一条次郎忠頼軍・それに続く土肥実平率いる2000騎相手に奮戦するも、味方が次々と討ち取られていき、遂に供廻りが僅か5騎(木曾義仲・今井兼平・巴御前・手塚太郎・手塚別当)のみとなります。

ここで、木曾義仲は、最後の戦に女を伴っていたといわれるのは恥だと諭し、巴御前を戦場から離脱させます。

遂に、木曾義仲と今井兼平の2騎のみとなったところで、木曾義仲が顔面に矢を受けて討ち取られます。享年31歳でした。

今井兼平自害

木曾義仲の敗死を知った今井兼平は、もはや戦う意味がないと判断し、「これ見給え。東国の殿方たち。日本一の剛の者が自害する手本よ。」と口中に太刀先を含み、馬から飛び降りて自害死亡したと伝えられています。享年33歳でした。

今井兼平の墓

なお、寛文元年(1661年)、膳所藩主・本田俊次が、今井兼平の戦死地を偲び、当時今井兼平の供養塚があった墨黒谷(篠津河野上流)に墓碑を建立しました。

その後、寛文6年(1666年)、次代膳所藩主・本田康将が、参拝の便宜を考え、今井兼平の墓を東海道の粟津松並木に近い場所に移設し、現在に至ります。

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