【安田義定】当初は源頼朝よりも格上だった甲斐源氏

安田義定(やすだよしさだ)は、源平合戦期に甲斐源氏の有力者として大活躍した武将です。

甲斐源氏の祖とされる源義光の孫・源清光の子であったこと(源義清の子とする説もあります。)、武功が突出していたこともあり、当初は、源頼朝より上位の源氏の棟梁と見られていた人物です。

現在の山梨県山梨市を拠点とし、遠江国に進出してこれを支配するなど大きな力を手にし、その後は源義経と行動をともにし、副将格として平家追討に大きな功績をあげ、源頼朝の鎌倉幕府創建に大きな貢献をしたものの、平家滅亡後、猜疑心の強い源頼朝の謀略により一族もろとも謀殺されるという悲しい最期を遂げた人物でもあります。

安田義定の出自

出生(1134年3月10日)

安田義定は、長承3年(1134年)3月10日、甲斐源氏・源義清(または源清光)の子として、甲斐国逸見郷若神子(現在の北杜市)にて生まれます。

甲斐源氏は、源義光(源義家の弟)を祖とする一族で、甲斐守に任命された源義光が若神子の館(現在の北杜市)に移り住んだ後、甲府盆地に進出して土着します。

そして、源義光の三男・源義清が旧任地である常陸国武田郷(勝田市)に住みつき、武田姓を名乗ります。

その後、源義清の長子・源清光が甲斐国の要所に子を配しし、長子・光長が逸見筋(北杜市)を領して逸見太郎と名乗り、その双生児である信義が甲斐源氏の統領を継ぎ武田太郎信義を名乗ります(甲斐武田家の祖)。

さらに、三男・遠光が加賀美遠光を名乗り、その子長清は小笠原氏を名乗ります。

甲斐源氏として安田姓を名乗る

そして、源義清の四男であった義定が、甲斐国山梨郡八幡荘内にあった安田郷(山梨市)を領し、安田三郎義定を名乗ります。

安田義定は、甲府盆地東部の安田庄に、東西約2km、南北約1kmの長方形に区画された安田舘を築き、同郡八幡荘や牧荘、安多荘などの笛吹川流域の峡東一帯に勢力を持ち統治します。なお、安田義定は、この安田館のほかに、中牧(現在の山梨市牧丘町)に小田野城を構えて、地域統治の拠点としていました。

その上で、安田義定は、市ノ瀬高橋の黒川金山での砂金採集事業、牧之庄(山梨市)での軍馬飼育などを振興し、経済力を手に入れ、力をつけていきます。

源頼朝の同盟軍として

波志田山合戦(1180年8月25日)

治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、甲斐源氏の下に以仁王の令旨が届けられます。

そして、同年8月17日に先行して挙兵した源頼朝でしたが、同年8月23日に石橋山の戦いに敗れて山中に逃げ込んだところ、源頼朝の敗報を聞いた安田義定が、工藤景光・行光、市川行房らと共に、源頼朝救援に向かっています。

他方、平家方では、大庭景親の弟である俣野景久が、駿河国目代の橘遠茂とともに甲斐へ軍勢を派遣します。

同年8月25日、安田義定軍が、波志田山(富士北麓の西湖と河口湖の間に位置する足和田山と考えられていますが正確には不明です。)付近で宿泊中であった俣野景久軍を攻撃する形で戦いが始まり、これを破ります(波志田山合戦・吾妻鏡)。

なお、このときの戦いが、吾妻鏡における安田義定の初見です。

信濃国・諏訪郡侵攻(1180年9月10日)

波志田山合戦により平家に敵対することが確定した安田義定は、治承4年(1180年) 9月10日、兄・武田信義と協力して信濃国に侵攻し、諏訪大社上宮に入って諏訪郡近辺の平家勢力を一蹴します。

こうして信濃国諏訪郡を制圧した安田義定・武田信義らは、同年9月14日、甲斐国へ一旦帰還します(吾妻鏡)。

源頼朝との協力関係樹立

甲斐国に戻ったタイミングで石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れた源頼朝からの使者として土屋宗遠が到着し、甲斐源氏と源頼朝との間で対平家の協議が進められ、安房国を経て上総国・下総国と勢力を拡大しながら進軍して鎌倉に入った源頼朝が東側から、甲斐源氏が北側から進んで駿河国で合流するとの合意に至ります。

なお、対する平家方は、治承4年(1180年)9月29日、京から平維盛を総大将とする追討使が送り出され(玉葉)、また同年10月1日には、駿河国目代・橘遠茂が駿河国・遠江国から兵を集めて源頼朝・甲斐源氏に対する迎撃の準備を整えます。

駿河国侵攻(1180年10月13日)

治承4年(1180年)10月13日、安田義定は、武田信義・一条忠頼らと共に、源頼朝との合意に従って富士北麓若彦路へ向かって南進していきます。

他方、平家方も、同日、戦局を打破するため、都から行軍してくる平家本隊を待たず、駿河国目代・橘遠茂、長田入道らが富士野を回って甲斐国に攻め込もうとして北進を始めます。

こうして、甲斐源氏軍と橘遠茂軍とが接近し、同年10月14日、両軍が山中で(正確な場所は不明です)遭遇し戦闘となります。この戦いは、甲斐源氏軍の勝利に終わり、橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となります(鉢田の戦い)。

そして、駿河国目代を捕獲し、その他平家方の有力武将を討ち取った甲斐源氏軍は、そのまま駿河国に侵攻し、これを制圧してしまいます。

富士川の戦い(1180年10月20日)

治承4年(1180年)10月18日、武田信義・安田義定率いる2万騎が甲斐国から南下して富士川東岸に布陣(もっとも詳細な布陣場所の記録はありません。)し、東進してきた平家本隊と直接対陣しつつ、遅れてくる源頼朝軍を待ちます。

そして、同日夜、遅れて黄瀬川沿いに布陣した源頼朝軍と合流します。

他方、富士川対岸(西岸)には、平維盛・平忠度率いる平家軍が布陣したため、両軍が富士川を挟んで対峙します。

治承4年(1180年)10月20日夜、安田義定・武田信義らが率いる甲斐源氏軍が、平家軍の背後を突こうとして富士川の浅瀬に馬を入れたとき、その動きに驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立ちます。

このときの水鳥の羽音を源氏方の攻撃と勘違いした平家方は、奇襲をかけられたと勘違いして大混乱に陥り、兵が我先にと逃亡を始めます。

混乱状態を収拾できなかった平家方は、総大将・平維盛が撤退の決断を下し、平家は一戦も交えることなく総崩れになって敗れて退却します(富士川の戦い)。

遠江守護補任

富士川の戦いに勝利した源氏方のうち、源頼朝は、撤退する平家軍を追撃して京に雪崩れ込もうと考えたのですが、上総広常千葉常胤らがこれに反対して東国を固めるよう主張したため、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず鎌倉に戻るという選択をします。

他方、甲斐源氏はそのまま西に向かって侵攻を続け、武田信義が駿河国を、安田義定が遠江国を占拠し、平家方からこれらの地域を奪いとります。

その結果、武田信義が駿河守護、安田義定も遠江守護に補任しています。

なお、吾妻鏡では、この甲斐源氏による駿遠地方占拠(及び、その後の駿河国守護・遠江国守護補任)について、源頼朝による論功行賞により与えられたものであるかの様に記載されていますが、実際のところは、平家の逆襲から関東を防護してもらうために、単独行動をとった甲斐源氏の戦功を追認したものにすぎないと考えられています。

なお、安田義定は遠江国府・鎌田御厨を占拠し、治承4年(1180年) 12月には蒲御厨を拠点に在地支配を行っています。

なお、平家が退却したことにより権力空白地帯となった三河国、尾張国に源行家が入り、同地にて独立勢力として勢力を高めて行きましたが、治承5年(1181年) 3月10日に勃発した源平墨俣川の戦いに敗れたため、この地域での平家勢力回復が起こっています。

実際、この後、平家勢力が遠江国を伺う様子を見せたため、安田義定は源頼朝に援軍を依頼し、和田義盛が派遣されるという事態に及んでいます。

安田義定入京

甲斐源氏が駿遠地方に、源頼朝が関東地方に勢力を伸ばしている間に、木曾義仲が北陸道沿いに勢力を伸ばして京に向かって進軍していきます。

この木曾義仲の快進撃に際し、安田義定も、木曾義仲に協力して東海道から進軍してこれを助けています(愚管抄)。

そして、木曾義仲は、寿永2年(1183年)7月28日、ついに上洛を果たします。

入京した源氏の諸将は洛中の警備を命じられ、そのうち安田義定は大内裏守護として働くこととなります。

そして、権力を取り戻した後白河法皇は、平家一門の官職・所領を没収してこれを源氏諸将に分配し、同年8月10日には安田義定を従五位下遠江守に叙任しています。

このことから、この時点では、朝廷では安田義定を源氏の統領と見なしていたことがわかります。

源頼朝の傘下として

寿永二年十月宣旨の勅令(1183年10月)

ところが、この甲斐源氏と源頼朝との力関係を逆転させる事件が起こります。

入京した木曾義仲が、京の治安維持に失敗したり、皇位継承問題に口出ししたりするなどして後白河法皇の信頼を失ったのですが、それに加えて、安田義定もまた木曾義仲に対する抑止力とならなかったとして後白河法皇の信頼を失います。

このとき、後白河法皇は、もう1つの源氏勢力であり、京での生活経験もある源頼朝に接近し、木曾義仲追討のための上洛を促してきたのです。

この後白河法皇による上洛要請に対し、源頼朝は、東海道・東山道の国衙領、庄園の年貢の調達権を得ることと引き換えに、これを引き受けることとします。

後白河法皇は、この源頼朝の条件に同意し、これらを認める寿永二年十月宣旨の勅令を発布すると共に、源頼朝についての伊豆配流依頼の勅勘が解除して従五位下に復帰させます。

この結果、朝廷内における源頼朝と安田義定の立場が対等となり、源頼朝もまた源氏の棟梁の1人として認められることとなりました。

源義経軍の副将となる

立場が対等となると、後は力の強い者が弱い者を従えていくこととなります。

源頼朝は、直ちに鎌倉に御家人を招集し、源範頼・源義経に大軍を預けて木曽義仲追討のために上洛するよう命じます。

立場が対等である以上、指揮をとるのは大軍を率いている側ということとなり、木曾義仲追討軍の総大将は、源範頼(と源義経)ということとなり、甲斐源氏のうちの武田信義・加々見遠光は源範頼の、安田義定は源義経の幕下に入ることとなりました。

西進を続ける源範頼軍は、寿永3年(1184年)1月、瀬田まで進軍して瀬田橋を押さえ、この結果、京にいる木曾義仲が支配地である北陸地方に戻ることが出来なくなります。

そして、搦手軍を率いた源義経が、同年1月20日、宇治橋の戦いを制して入京し、木曾義仲を源範頼が待ち受ける瀬田方向に追い込みます。

その結果、木曾義仲は、瀬田において北側で待ち構える源範頼軍と、南西側からやって来た源義経軍に挟撃されて討ち死にします(瀬田の戦い)。

対平家戦

源範頼・源義経の活躍によって政治の表舞台返り咲くことができた後白河法皇でしたが、法皇の下には三種の神器がありませんので、権威の正当性の根拠がありません。

そこで、後白河法皇は、この状況を打破すべく、寿永3年(1184年)1月26日、源頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じます。名目は平家追討の宣旨ですが、実質は三種の神器奪還命令です。

こうして、木曾義仲追討軍は、そのまま平家討伐軍となり、安田義定は、そのまま源義経軍の副大将としてこれを補佐することとなります(もっとも、源範頼、源義経、安田義定の三軍制だったと見る説もあります。)

そして、寿永3年(1184年)2月4日、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発し、勢力を盛り返して福原の復興を進める平家を討伐するために西に向かって進軍していきます。

京を出発した源氏軍は、源範頼率いる大手軍が京からゆっくりと西進して平家方の気を引きつけ、その間に源義経率いる搦手軍が北側の丹羽路を通って大きく西側に迂回していきます。平家が守る福原を挟撃する作戦です。

そして、同年2月5日、西側・塩屋口から土肥実平ら7000騎、北西側・夢野口から安田義定、多田行綱ら3000騎、北側から源義経70騎、東側から源範頼5万6000騎の陣容で福原に迫り、激戦となります(一ノ谷の戦い)。

この一ノ谷の戦いでは、安田義定は、搦手軍の主力として奮戦し、平経正、平師盛、平教経を討ち取る活躍を見せ(平教経については壇ノ浦で入水したとの異説もあり正確には不明です。)、源氏方の勝利に貢献します。

安田義定の最期

源頼朝による甲斐源氏の切り崩し

甲斐源氏を傘下に取り込むことに成功しつつあった源頼朝は、さらに甲斐源氏の力を削ぐために、元暦元年(1184年)6月16日、謀反の疑いありとして武田信義の嫡子である一条忠頼を鎌倉に招いて宴席で暗殺します。

さらに、源頼朝は、同年4月26日に殺害した木曾義高(木曾義仲の嫡子)の残党が潜んでいるためにその討伐が必要であるという名目で甲斐国・信濃国に出兵し、武田家を監視下に置きます。

他方、源頼朝は、甲斐源氏の中でも親源頼朝派であった加賀美遠光や小笠原長清を厚遇して差別化し、甲斐源氏の分裂を助長させます。

結局、これら一連の工作の結果、源氏の棟梁たり得た甲斐源氏・武田信義も、鎌倉幕府の一御家人に成り下がり、幕府内で閑職に追いやられていくこととなります(武田家は、源頼朝に臣従する石和五郎信光が継ぎます。)。

政争の道具として使われる

前記のとおり、甲斐源氏の武田信義の勢力が低下したため、源頼朝の次の矛先は安田義定に向かいます。

もっとも、武田信義の勢力を削いだ後でも、まだ平家・奥州藤原氏との対決が残っていたため、強大な武力と経済力を持つ安田一族を続けて粛清するわけにはいきませんでした。

また、安田義定は、文治5年(1189年)の奥州合戦にも武田信光らと従軍して武功を挙げていますので、その処断は簡単ではありません。

文治6年(1190年)1月26日、京都伏見稲荷社・祇園八坂神社の修理の遅れや、六条殿造営公事の怠慢を責められ、後白河法皇から下総守に転任されます。

もっとも、安田義定は、後白河法皇による源氏間の対立を煽る道具として使われ。翌建久2年(1191年)3月6日には従五位上に昇叙して遠江守に遷任(還任)し、禁裏守護番と遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭も兼ねることとなります。また、長男の安田義資も越後守を補任しています。

安田義資斬首(1193年11月27日)

甲斐源氏の勢力を削いでいった源頼朝は、朝廷に接近していく安田義定を見て、ついにその処断を決めます。

あとは、理由を探すだけとなり、ついに糸口が見つけます。

きっかけは、建久4年(1193年)11月27日、安田義定の子の長男・安田義資が、鎌倉の永福寺薬師堂落慶供養式の際に、幕府に仕える大倉御所女官の一人に艶書を送ったことでした。

この事実が梶原景時を通じて源頼朝にもたらされ、これを聞いた源頼朝は、その日のうちに、鎌倉名腰で安田義資の首をはねて梟首したとされています(吾妻鏡)。

鎌倉幕府設立の功労者が打ち首にされる理由とは到底考えられませんので、源頼朝にとって安田一族を貶める理由はなんでもよかったとしか考えられません。

また、源頼朝は、これに連座して安田義定の所領を没収し、遠江国守護職も解職します。

安田義定殺害(1194年8月19日)

長男・所領・官職を失った安田義定は、甲斐安田庄に引き籠もります。

ところが、建久5年(1194年)8月、梶原景時が、安田義定が源頼朝を怨んで反逆を企てているという讒言を源頼朝に伝えます。

このことを聞いた源頼朝は、政所別当・大江広元や、問註所別当・三善康信らの諌言を無視して梶原景時を主力とした安田義定討伐軍を甲斐に送り、同年8月19日、安田義定を殺害して梟首します(永福寺事件、吾妻鏡)。なお、上の写真は、安田義定生害の地とされる場所にある腹切地蔵尊です。

安田義定の享年は61歳でした。

安田家の滅亡により、義定親子の遺物はほとんど失われ、僅かに山梨市下井尻の雲光寺に安田一族の墓所とされる大五輪塔群が残されるのみです。

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