【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事

三善康信(みよしのやすのぶ)は、初代問注所執事として鎌倉幕府内での裁判実務を一手に引き受けた有能な文官です。

有能ではあったのですが、性格はおっちょこちょいであり、京で下級役人をしていた時代に、早とちりのせいで源頼朝に誤報を届け、対平家の挙兵を決定させるという歴史的一大事件の引き金を引いた人物としても有名です。

三善康信の出自

出生(1140年)

三善康信は、保延6年(1140年)、明法・算道をもって朝廷に仕え、太政官の書記官役を世襲する下級貴族である三善康光または三善康久の子として生まれます。

母は、源頼朝の乳母(源頼朝の乳母として判明しているだけで比企尼・山内尼・寒河尼などがいますが、どの乳母であったのかは不明です。)の妹でした。

この乳母の子であるという縁で、三善康信は、流人として伊豆国に流された源頼朝に、月に3度(10日に1度)京の情勢を知らせていました。

源頼朝に誤報を伝える(1180年5月)

治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の第三皇子である以仁王が、全国の反平家勢力の決起を促すべく諸国の源氏勢力と大寺社に平家追討の令旨(以仁王の令旨)を下して挙兵し、同年4月10日、源行家に預けて全国に点在する源氏に呼びかけさせます。

この以仁王の令旨は、同年4月27日、伊豆国の源頼朝の下にも届きますが、罪人であるために自前の兵を持たない源頼朝はこれを黙殺します。

その後、治承4年(1180年)5月26日、宇治合戦に敗れて逃走中に以仁王が殺害され、以仁王の反乱は終結します。

ところが、ここで三善康信が誤った判断をします。

三善康信は、平家が以仁王の令旨を受け取った者を全て処罰するものだと勘違いして(実際には、平家はそのような考えを持ってはいませんでした。)、弟を使者として源頼朝の下に送り、同年6月19日、平家が以仁王の令旨を受け取った者に対する追討する決定をしたため源頼朝の命が危ないので急ぎ奥州へ逃げるようにと伝えます。

当然ですが、この話を聞いた源頼朝は焦ります。

配下の兵を持たない源頼朝に平家と戦う力はなく、また仮に奥州に逃げたとしても、奥州を治める奥州藤原氏が源頼朝を匿ってくれる保証はありません。

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

困った源頼朝は、岳父・北条時政に相談します。

このとき、伊豆国の知行国主となった平時忠及びその目代・山木兼隆に押されて立場が悪くなりつつあった北条時政が、自らの立場を一変させるため、源頼朝に対して、やられる前にやってしまうべきであるとして反平家の挙兵を勧めます。

その結果、源頼朝は、三島大社の祭礼の日である治承4年(1180年)8月17日を結構日と決め、伊豆目代・山木兼隆館を襲撃する方法により挙兵する決意を固めます。

このように、三善康信が京から送った誤報が、結果的に源頼朝に挙兵を決意させ、その後の歴史を大きく変えてしまうこととなったのです。

鎌倉幕府内で重用される

鎌倉幕府での文官登用の必要性

緒戦に勝利した源頼朝でしたが、源頼朝は、東国武士をまとめながら、鎌倉を切り拓き、公家の都である京に匹敵する武家の都を築いていきます。

源頼朝は、まず源氏の氏神である八幡宮を鎌倉の中央部の六浦道沿いに移し鶴岡八幡宮とします。

その上で鶴岡八幡宮から六浦道沿東側の大倉郷に源頼朝の政治と生活の本拠である大倉御所を構えます。8月23日の石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れた後、勢力を整え、同年10月20日の富士川の戦いを経て、鎌倉に入ります。

鎌倉に入った源頼朝は、東国武士をまとめながら、鎌倉を切り拓いて公家の都である京に匹敵する武家の都を築いていきます。

源頼朝は、まず源氏の氏神である八幡宮を鎌倉の中央部の六浦道沿いに移し鶴岡八幡宮とします。

その上で鶴岡八幡宮から六浦道沿東側の大倉郷に源頼朝の政治と生活の本拠である大倉御所を構えます。

① 侍所設置

そして、治承4年(1180年)、御家人を管理するために侍所(現在でいうと人事部兼防衛省兼警察です。)が設置され、初代別当には武闘派御家人である和田義盛が就任します。

② 公文所設置

また、御家人が増え、また鎌倉幕府が認める土地が増えてくると、そこの管理・徴税に加え、その調整や統合した鎌倉幕府自体の行政実務を一括管理する機関が必要となってきます。

そこで、寿永3年/元暦元年(1184年)、幕府行政を一手に引き受ける新しい機関として公文所(現在でいうと総務部です。)が設置されます。

③ 問注所設置

また、鎌倉幕府の御家人が増えてくると、それに伴って御家人同士の諍いがおこるのですが、この諍いを放置しておくと、管理能力なしとして鎌倉幕府の求心力が低下しますので、鎌倉幕府において御家人の諍いを仲裁する機関が必要となります。

そこで、同年、この裁判実務を担当する新しい機関として問注所(現在でいうと裁判所です。)が設置されます。

初代問注所執事就任(1184年10月20日)

行政実務、裁判実務については、記録の管理が必要となるところ、そんな細かいことを粗雑な坂東武者ができるはずがありません。そもそも、鎌倉幕府の御家人の中で文字が読める人は少数です。

困った源頼朝は、文化的素養のある人物の登用を急ぎ、親しくしていた中原親能(大江広元の兄)から大江広元を紹介され、鎌倉下向を依頼して、公文所別当を任せます。

また、源頼朝は、問注所執事として、明法・算道に長けた三善康信の登用を試みます。

源頼朝から請われた三善康信は、鎌倉に下向して鎌倉幕府の役人となることを決意し、元暦元年(1184年)4月14日に鎌倉に到着して、同年4月15日に鶴岡八幡宮の廻廊で対面します。

ここで、源頼朝から鎌倉に住んで問注所執事として働くことを依頼されたためにこれを受任し、同年10月20日、初代問注所執事(現在でいうと最高裁判所長官です。)に就任します。なお、源頼朝は、このときの三善康信の印象として、優しく落ち着いた人物であると評価しています。

13人の合議制(1199年4月12日)

以降、京から下ってきた文官(大江広元・三善康信・中原親能ら)は、貴重な行政官として重用され、源頼朝の側近として鎌倉幕府の政治機構の整備に貢献します。

その後、源頼朝の死亡により第2代鎌倉殿に就任した源頼家が大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、建久10年(1199年) 4月12日、有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。

このとき、三善康信も13人の合議制の1人に任命され、宿老として幕政に参画します。

もっとも、政治的野心を持ち積極的に幕政に参加した大江広元とは異なり、三好康信は、文官としての分をわきまえ、与えられた仕事をそつなくこなすことをよしとしていたため、それほど有名なエピソードは残されていません。

三善康信の最期(1221年8月9日)

三善康信は、承久3年(1221年) 正月6日、問注所執事を辞職します。

もっとも、同年5月19日、北条義時追討の院宣が出された際には、病身の身で会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持するなどして鎌倉幕府の危機への対応に尽力しています。

そして、三善康信は、承久の乱での鎌倉幕府軍の勝利を見届けた後、同年8月9日、死去しています。

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