【北条義時追討の院宣】承久の乱のきっかけとなった後鳥羽上皇の命令

北条義時追討の院宣は、第3代鎌倉殿を失って混乱する鎌倉幕府を見て好機と判断した後鳥羽上皇が、1221年(承久3年)、鎌倉幕府執権・北条義時打倒の兵を挙げた際に(承久の乱)、全国の有力者に対して自らに味方するよう命じた院宣です。

このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいませんでしたので、「北条家」存亡の危機に瀕することとなります。

もっとも、北条政子の演説により、「北条家の危機」であったのを「鎌倉幕府の危機」であるかのように御家人に伝えてその奮起を促し、ついに後鳥羽上皇を打ち破る結果につなげるという大逆転劇をやってのけます。

本稿では、北条義時に敗れて権威を失った朝廷が武士に権力を奪われるという歴史のターニングポイントの端緒となった北条義時追討の院宣について、その発出の経緯からみていきたいと思います。

北条義時追討の院宣発出に至る経緯

源氏将軍治世

初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、当初は、鎌倉幕府の支配力は主に東日本に及んでいたものの、西日本についてはいまだ朝廷の力が強く及んでいたため、二元統治体制となっていました。

もっとも、朝廷にとっても、鎌倉幕府を討伐できるだけの力はなく、また源氏が清和天皇の血を引くいわば身内の関係にあったことから、鎌倉幕府の将軍が源氏の者であった間は、両者の間に微妙なパワーバランスが維持され、両者の間に武力衝突は発生しませんでした。

ところが、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶すると、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。

皇族将軍下向の奏上(1219年2月13日)

この緊張関係は北条義時にとっても望むものではなかったため、北条義時は、建保7年(1219年)2月13日、朝廷との関係を改善するため、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王のいずれかを第4代鎌倉殿として迎えたいと奏上します。

これに対し、後鳥羽上皇は、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとして、皇子の下向を拒否します。

そればかりか、後鳥羽上皇は、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じます。

怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を率いて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。

摂家将軍下向(1219年7月19日)

軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論に落ち着きます。

そして、最終的には、このとき2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)を後の第4代鎌倉殿として下向させることとなり、同年7月19日、三寅が鎌倉に送り届けられます。

もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となることが決まったはいえ、このとき僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。

いわゆる尼将軍の誕生です。

こうして、三寅の下向により、朝廷と鎌倉幕府との関係はなんとか維持されたのですが、これらの将軍継嗣問題は、北条義時にも後鳥羽上皇にもしこりとして残ります。

源頼茂謀反事件(1219年7月13日)

もっとも、この三寅の下向は、鎌倉幕府内で新たな問題を生じさせます。

このとき、大源頼政の孫である源頼茂(政所別当)が、内守護として大内裏の警備にあたるために在京していたのですが、その血筋から、源実朝の次の鎌倉殿は自分であると考えていました。

ところが、北条義時が、次期鎌倉殿とするべく三寅を迎えてしまったことから、源頼茂は不満を募らせます。

この源頼茂の不満を見た在京御家人が、源頼茂が謀反を企てているとの訴えをしたことから、後鳥羽上皇から源頼茂討伐の院宣が下されます。

そして、源頼茂追討に際して内裏内部での乱戦となり、仁寿殿(内裏中央に位置する殿舎)に追い込まれた源頼茂が火を放って自害します。

このとき放たれた火は、殿舎に燃え広がり、朝廷の象徴である内裏や、由緒ある累代の宝物が焼失してしまいます。

北条義時討伐計画(1221年4月28日)

この将軍継嗣問題のトラブルや、鎌倉幕府の内紛により内裏や宝物が焼失してしまったことなどから、後鳥羽上皇の鎌倉(ひいてはそれを実質的に支配する北条義時)に対する不満が溜まっていきます。

そして、承久3年(1221年)ころになると、後鳥羽上皇は毎月のようにどこかの寺社で密かに北条義時調伏の祈祷を行うようになります。

そして、承久3年(1221年)4月28日、ついに北条義時との対決を決意した後鳥羽上皇は、後鳥羽上皇の御所であった高陽院(かやのいん)において、土御門上皇・順徳上皇・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王などの皇族をはじめとする名だたる外戚・近臣・僧侶を招集した上、北条義時調伏の祈祷を行います。

その上で、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮内の城南寺で行う予定の「流鏑馬揃え」を口実として、御所の警備を担う北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士らの招集を命じます。

もっとも、院宣を出せば鎌倉幕府は戦うことなく内部崩壊するとたかをくくっていた後鳥羽上皇は、単に集まった面々に兵を集めることを指示するのみで、具体的な京の防衛策や、鎌倉幕府御家人に対する事前調略工作を検討することはありませんでした。

後鳥羽上皇軍の編成

(1)後鳥羽上皇の下に集った主な人物

後鳥羽上皇による招集命令に応じ、以下の者が後鳥羽上皇の下に集います。

【院の近臣(西面の武士・北面の武士)】

① 藤原秀康(西面の武士)

② 藤原秀澄(西面の武士・藤原秀康の弟)

③ 藤原能茂(西面の武士・藤原秀康の甥)

④ 後藤基清(西面の武士)

⑤ 大江能範(西面の武士)

⑥ 佐々木広綱(北面の武士・京都守護・近江守護)

【幕府の在京御家人】

① 佐々木高重

② 大江親広(京都守護・大江広元の子)

③ 大江能範

④ 三浦胤義(検非違使)

⑤ 五条有範(検非違使)

⑥ 大内惟信

⑦ 八田知尚

⑧ 小野盛綱(尾張守護)

⑨ 山田重忠

⑩ 河野通信

(2)後鳥羽上皇の招集命令を拒絶した主な在京の人物

他方、京都守護の1人であった伊賀光季(妹が北条義時の後妻)や公家の西園寺公経(妻が源頼朝の姪)や一条頼氏は、後鳥羽上皇の勧誘を拒絶しました。

後鳥羽上皇は、抵抗の意思を示した西園寺公経(大納言)・西園寺実氏(中納言・西園寺公経の子)を捕え、弓場殿に幽閉します。

そして、西園寺親子が捕えられたのを見た一条頼氏は、北条義時を頼って鎌倉に逃亡しています。

流鏑馬揃い(1221年5月14日)

承久3年(1221年)5月14日、「流鏑馬揃え」の場に、北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士ら1700余騎が集まったのを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐を決意します。

北条義時追討の院宣

後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)

そして、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日朝、ついに北条義時討伐を掲げて挙兵します。

最初のターゲットに選んだのは、後鳥羽上皇の誘いを断った伊賀光季でした。

後鳥羽上皇は、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義ら800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かわせました。

このとき伊賀光季が率いたのはわずか85騎でしたので、多勢に無勢で勝負になりませんでした。

次男・伊賀光綱の死を見届けた伊賀光季は、北条義時宛に事の顛末を伝える使者を送りだした後、討ち死にしてしまいます。

院宣・官宣旨の発布(1221年5月15日)

緒戦に勝利してほぼ京を制圧した後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の官宣旨をしたためます。

また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。

もっとも、この院宣・宣旨については、実物が現存していないため、それらが正式文書としての「官宣旨」であったのか、略式の「院宣」に過ぎなかったのかなど,詳細は不明です。また、その発布目的についても、北条義時という個人の排除目的だったという説が有力ですが、鎌倉幕府の否定まで目指していたという説もありますので、正確なところはわかっていません。

いずれにせよ、後鳥羽上皇は、院宣や官宣旨の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって後鳥羽上皇方に味方すると考えて戦局を楽観視していました。

そして、この北条義時討伐の院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託され、鎌倉へ運ばれていきます。

上皇挙兵の報が鎌倉に届く(1221年5月19日)

以上のように、京から鎌倉に向かって、鎌倉幕府方の伊賀光季の使者と、後鳥羽上皇方の院宣・官宣旨の双方が送られたのですが、先に鎌倉に着いたのは、鎌倉幕府方の伊賀光季からの使者でした。

承久3年(1221年)5月19日、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの使者が北条義時の下に到着し、北条義時が、自らが朝敵とされたこと、上皇が挙兵したことを知ることとなります。

院宣が鎌倉に届く(1221年5月19日)

伊賀光季による上皇挙兵の報の到達から少し遅れて、後鳥羽上皇の使者・押松が鎌倉に入ります。

もっとも、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて鎌倉全域を警戒させていた北条義時は、鎌倉葛西谷にいた押松丸を捕らえ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿を没収します。

このとき、三浦義村の下には、別途、弟である三浦胤義から密使が届いていたのですが、三浦義村はこれを追い返し、届いた密書を北条義時の下に届けています。

承久の乱へ

鎌倉幕府内の混乱

関東の有力御家人に届く前に「北条義時追討の院宣」を回収できた北条義時でしたが、事情が分からない御家人たちは,後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて大いに動揺します。

このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいなかったからです。

混乱した御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の理由を聞くために、北条政子・北条義時の下に続々と集まってきます。

もっとも、北条政子・北条義時としては、後鳥羽上皇が、「北条義時追討」のために挙兵したなどとは口が裂けても言えません。

そんなことを言えば、北条義時が御家人たちに捕えられて京に送られ、北条家が滅亡する可能性があるからです。

ここで、北条政子が、承久3年(1221年)5月19日、起死回生の歴史的演説を行います。

北条政子の演説(1221年5月19日)

このとき行われた北条政子の演説は、「吾妻鏡(六代勝事記をもとに編集したもの」と「慈光寺本・承久記」にその概略が記載されています。

簡単に言うと、鎌倉幕府創設以来の源頼朝の恩顧を強調した上で、讒言に基づき鎌倉幕府を滅ぼそうとしている後鳥羽上皇を追悼しなければならないという内容でした。

この北条政子の演説により、御家人たちは北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めたのです。

「北条義時追悼」の院宣であるにもかかわらず、「鎌倉幕府の危機」であるかのように読み替え、事情を知らない御家人たちの協力を取り付けた北条政子のしたたかさが際立っています。

北条義時挙兵(1221年5月21日)

その後、承久3年(1221年)5月21日、院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきたのですが、北条義時は、鎌倉幕府の御家人たちが院宣の内容(北条義時追討)を知る前に出陣してしまうことが重要であると考え、北条泰時率いる18騎を先発隊として鎌倉から出立させます。

この北条泰時の出陣を見た御家人たちは、鎌倉幕府の危機であると誤解し、次々と参戦の意思を表明したため、対後鳥羽上皇の大軍勢が編成されていきます。

こうして、承久の乱へとつながっていくのですが、長くなりますので、以降の話は別稿で。

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