【三浦胤義】承久の乱で後鳥羽上皇に加担して敗れた三浦義村の弟

三浦胤義(みうらたねよし)は、鎌倉幕府のナンバー2として一大勢力を誇った三浦義村の弟です。

有力御家人である三浦一門の人間として大きな力を持ちながら、承久の乱で後鳥羽上皇に与して敗れ自刃した人物でもあります。

三浦胤義の出自

出生(1185年頃?)

三浦胤義は、相模国三浦郡矢部郷に本拠を置くいわゆる坂東八平氏の1つである桓武平氏良文流三浦家の当主であった三浦義澄の九男(末子)として伊東祐親の娘との間に生まれます。

同母兄には、後に鎌倉幕府のナンバー2にまで上り詰めた三浦義村がいます。

出生年については必ずしも明らかとなっておらず、正治元年(1199年)の梶原景時の変には参加しておらず、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱・牧氏の変には出陣していることから、この間に元服したと考えられ、そこから逆算して寿永4年(1185年)頃の出生ではないかと考えられています。

元服・結婚(1204年頃)

当時は、元服する際に妻を娶ることが一般的であったところ、三浦胤義もその例に漏れませんでした。

前記のとおり、三浦胤義は、元久元年ないし同2年頃に元服したと考えられるのですが、その際、元久元年(1204年)7月18日に修禅寺で暗殺された第2代鎌倉殿であった源頼家の愛妾であった一品房昌寛の娘を妻として貰い受けています。

なお、一品房昌寛の娘は、このときまでに源頼家との間に三男の栄実(尾張中務丞にて養育)と四男の禅暁(仁和寺に預けられていた)を儲けていました。

鎌倉幕府御家人として活躍

和田合戦(1213年5月)

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企んだ信濃源氏・泉親衡が源頼家の遺児(三浦胤義の妻が生んだ栄実であると考えられています。)を担いで謀反を起こしたことが露見します。

この謀反はすぐに鎮められてその首謀者たちが逃亡・捕縛されたのですが(泉親衡の乱)、その中に鎌倉幕府の宿老であり三浦一族でもある和田義直(和田義盛の子)、和田義重(和田義盛の子)、甥の和田胤長(和田義盛の甥)が含まれていたことから一大事件に発展します。

結果として、一族の名誉を辱められた和田義盛が蜂起し、御所を襲撃するなどの暴挙に出た後で鎌倉幕府軍に鎮圧されたですが(和田合戦)、三浦胤義は、兄の三浦義村と共に鎌倉幕府軍として参戦し、三浦一族であった和田義盛軍鎮圧に貢献しています。

なお、栄実は、泉親衡の乱に加担した罪により出家していたのですが、建保2年(1214年)に、和田一族の残党に擁立されて六波羅を襲撃しようと企てますが、事前にその計画が露見して逆に幕府軍から襲撃を受けて自刃したといわれています。

鎌倉幕府内で出世を続ける

その後、三浦胤義は、兄・三浦義村と共に鎌倉幕府御家人として力をつけていき、建保6年(1218年)6月27日に行われた源実朝の左大将拝賀の際には衛府の一人として参列するにまで至っています(吾妻鏡)。

禅暁の鎌倉殿擁立失敗

承久元年(1219年)1月27日に第3代鎌倉殿であった源実朝が甥の公暁(兄・三浦義村の乳母子)暗殺されるという一大事件が勃発して鎌倉に混乱が生じると、この混乱を鎮めるために第4代鎌倉殿の選任が急がれます。

当然の話ですが、源実朝が死亡したとしても、源氏の血筋が途絶えたわけではありませんので、源氏一門から新たな「源氏将軍」を迎えることが検討されました。

このとき、各御家人が自らに近しい者を鎌倉殿に推挙しようと動き出し、三浦胤義もまた、源頼家の遺児である禅暁(三浦胤義の妻の子)を次期鎌倉殿に据えようと画策を始めます。

ところが、源氏将軍の擁立は、御家人から信奉を集めやすいために鎌倉幕府内での独裁を進める北条家にとっては害悪でしかありません。

そこで、北条義時・北条政子は、多くの源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清していきます。

三浦胤義が推していた禅暁もまた、承久2年(1220年)4月14日、公暁による源実朝暗殺事件に加担したと疑いがあるという不確定な理由を付けて誅殺されます。

京に上って後鳥羽上皇に仕える

京に上る

その後、時期(承久2年/1220年頃?)や経緯は不明ですが、三浦胤義は、検非違使・大番役に任じられて京に上ります。

なお、上京した三浦胤義は、大番役の任期が明けた後も京に留まっていたようですが(「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」(承久記・古活字本))、この辺りの経緯もよくわかっていません。

後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)

いずれにせよ、在京して後鳥羽上皇に仕えていた三浦胤義は、承久3年(1221年)ころ、後鳥羽上皇から、北条義時討伐計画への参加を求められます。

三浦胤義は、北条義時打倒の軍議に参加し、北条義時が朝敵となった場合にはこれに味方する者は1000人にも上ることはないと述べて、後鳥羽上皇方に与することを約します。

なお、このとき、三浦胤義は、自分の妻は源頼家の愛妾として若君(禅暁)を生んだが、源頼家が北条時政に殺され、若君も北条義時に殺されたことを嘆き悲しむ妻を見て哀れに思い、北条家(鎌倉)に謀反を起こそうと思ったとされています(承久記・慈光寺本)。

そして、承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が、北条義時追討を掲げて挙兵します。

ここで、後鳥羽上皇が最初のターゲットに選んだのは、後鳥羽上皇の誘いを断った伊賀光季であり、三浦胤義は、後鳥羽上皇の命を受け、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱らと共に800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かいこれを討ち取ります。

初戦に勝利した後鳥羽上皇は、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の官宣旨をしたため、また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。

この北条義時追討の院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託されて鎌倉へ運ばれていきます。

このとき、三浦胤義は、兄の三浦義村もまた日本国総追捕使に任じられるなら必ず後鳥羽上皇に味方すると確信していたことから、院宣を届ける押松丸に兄・三浦義村宛の後鳥羽上皇方に味方するよう促す書状を託しています。

承久の乱勃発

院宣を運ぶ押松丸は、承久3年(1221年)5月19日に鎌倉に入ったのですが、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて警戒していた鎌倉幕府方に捕えられ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿が没収されます。

また、これとは別に、三浦義村の下に三浦胤義からの密使が届いていたのですが、三浦義村は三浦胤義の思惑に反して使者を追い返し、届いた密書を北条義時の下に届けていています。

この後、鎌倉幕府内で、北条政子によって、鎌倉幕府創設以来の源頼朝の恩顧を強調した上で、讒言に基づき鎌倉幕府を滅ぼそうとしている後鳥羽上皇を追討しなければならないという史上名高い演説が行われ、この演説に一念発起した御家人たちが北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めます。

この北条政子の演説では、藤原秀康と三浦胤義が逆臣として名指しされ、三浦胤義は後鳥羽上皇方(すなわち反鎌倉幕府方)の中心人物に据えられます(吾妻鏡)。

三浦胤義の最期

承久の乱・東山道方面の戦い

挙兵した後鳥羽上皇軍を鎮圧するため、承久3年(1221年)5月22日、鎌倉から3軍に分かれた18万騎とも言われる大軍が京に向かって出陣していきます(承久の乱)。

そして、東海道・東山道・北陸道を進軍する鎌倉幕府軍は、それぞれが破竹の快進撃で京に向かって進んでいきます。

三浦胤義は、鎌倉幕府東山道軍の迎撃に向かって美濃国で鎌倉幕府と戦うも敗れて同年6月5日に撤退し、その後は、京の最終防衛ラインとされたた宇治・木津(南西側)・瀬田(東側)・芋洗・淀(南側)のうちの宇治戦線に配属され、源有雅・藤原範茂・佐々木広綱、瀬田に山田重忠・大江親広・藤原秀康らと共に宇治に布陣します。

もっとも、同年6月14日、宇治川の戦いで鎌倉幕府に敗れ、京に逃げ帰っていきます。

後鳥羽上皇に切り捨てられる

承久3年(1221年)6月15日の日の出頃、宇治川の戦いに敗れた三浦胤義・藤原秀康らが四辻都に駆け付け、後鳥羽上皇に対して宇治と瀬田で後鳥羽上皇軍が敗れ、京に鎌倉幕府軍が迫っていることを報告します。

敗報を聞いた後鳥羽上皇は狼狽し、土御門上皇・順徳上皇・頼仁親王・雅成親王を賀茂や貴船に避難させます。

その上で、後鳥羽上皇は、保身のための使者を鎌倉幕府軍に送り、この度の挙兵と北条義時追討の院宣は謀臣の企てによるものであり本意ではなかったとして、北条義時追討の院宣を取り消し、あらためて自らに与して戦った藤原秀康・三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を出し、北条泰時の下に届けさせます。

東寺に籠る

保身のために後鳥羽上皇に切り捨てられた三浦胤義は、藤原秀康・山田重忠らと共に東寺に籠り、京になだれ込んでくるであろう鎌倉幕府軍と戦う構えを見せます。

その後、鎌倉幕府が東寺を取り囲むこととなったのですが、この鎌倉幕府の中に三浦義村もいたことから、ここで三浦義村・三浦胤義の兄弟対面が行われます。

もっとも、三浦胤義は、三浦義村に冷たくあしらわれて後がなくなります。

三浦胤義自刃

三浦義村の冷たい態度を見た三浦胤義は、もはや抵抗は無意味であると悟ります。

その後、三浦胤義は、子息である三浦胤連、三浦兼義とともに西山の木嶋(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)に移り、そこで自害して果てます。

なお、三浦胤義の首は兄である三浦義村の下に届けられた後に北条義時の下へ届けられ、東国に残されていた三浦胤義の幼子も長子を残して処刑されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA