【三浦義村】北条義時と共に数々の御家人粛清に関与した御家人

三浦 義村(みうら よしむら)は、源頼朝の旗揚げ時からこれに付き従い、最終的には鎌倉幕府内において得宗家に次ぐ鎌倉幕府の実質ナンバー2にまで上り詰めた御家人です。

首謀者とされるものはないものの、北条義時の右腕として鎌倉幕府内での粛清劇のほぼ全てに関与し、しかもその全てで勝者(源頼朝→北条時政→北条義時→北条政子)の側で行動をしていることから、黒幕といえる人物であるといえるかもしれません。

京の公家であった藤原定家の日記である明月記にも、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟(計略に長けた何を考えているのからからない人物である。)」と記載された程の暗躍ぶりでした。

三浦義村の出自

三浦義村出生(1168年?)

三浦義村は、仁安3年(1168年)ころ、相模国三浦郡矢部郷に本拠を置くいわゆる坂東八平氏の1つである桓武平氏良文流三浦家の当主であった三浦義澄の嫡男(次男)として、伊東祐親の娘との間に生まれます。なお、三浦義村は、元暦元年の源範頼の平家討伐軍に従軍しているところ、源平盛衰記37巻にこのときの遠征軍の参加資格が17歳以上と記載されていたことから遡って生年を仁安3年(1168年)と考えるのが一般的です。

通称は平六といいました。

なお、三浦義村の母が伊東祐親の娘だったのですが、伊東祐親は、別の娘を北条時政にも嫁がせ、その娘が北条義時を生んでいることから、三浦義村は北条義時の従兄弟にあたります。また、同母弟として承久の乱で後鳥羽上皇方に与して敗れた三浦胤義がいます。

安房国に逃れる(1180年8月)

治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令旨を得た源頼朝が挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃し、これを討ち取った際、三浦家では一族を挙げてこれに合流を図ったのですが、ここに三浦義村が同行していたかは不明です。

その後、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ逃亡したとの報を聞いた三浦義澄は、源頼朝との合流をあきらめ、居城の衣笠城へ退却を始めまたのですが、このとき偶然対峙することとなった畠山重忠軍と抗戦することとなり少なからぬ死傷者を出しています(由比ヶ浜の戦い、小坪合戦)。

小壺坂にて三浦軍と痛み分けに終わった畠山重忠が、同じ秩父氏の総領家である河越重頼・江戸重長に加勢を依頼して、治承4年(1180年)8月26日、数千騎で三浦家の本拠地である衣笠城を攻撃することとなったのですが、小壺坂合戦で大きく兵を減らしていた三浦軍は、畠山軍の猛攻を支えきれませんでした。

そこで、衣笠城が落城することを悟った当時89歳の三浦家前当主・三浦義明(三浦義澄の父、三浦義村の祖父)が衣笠城に残って奮戦し、一族の退却時間を稼いで討死しています(衣笠城の戦い)。

そして、三浦義澄は、源頼朝と合流を目指し、同日夜、住吉神社の山頂松に祈願の幟を立てた後、一族で衣笠城を放棄して海路にて安房国に落ちて行き、おそらく、三浦義村もこのとき父・三浦義澄について安房国に赴いたと思われます。

記録上の初見(1182年8月11日)

安房国に入った源頼朝は、そこで房総平氏を従えて力を蓄えて鎌倉に入るのですが、三浦義村もこれに従って鎌倉入りし、その後、源頼朝の下に付き従い行動します。

その後、寿永元年(1182年)に北条政子が懐妊をしたため、その安産祈願の祈祷のため伊豆権現・箱根権現など近国の寺社に奉幣使を立てることとなったのですが、三浦義村もまた、「三浦平六」の名で「安房東條庤」へ遣わされています(吾妻鏡・寿永元年8月11日条)。なお、このときの記載が、三浦義村の記録上の初見です。

平家討伐軍に従軍(1184年8月~)

その後、三浦義村は、父・三浦義澄と共に平家討伐軍に従軍し、元暦元年(1184年)8月からの源範頼の山陽道・九州遠征に従軍しています。なお、この源範頼の遠征軍への参戦が資料上確認できる三浦義村の最初の従軍です。

その後、三浦義村は、鎌倉に戻り、文治元年(1185年)10月の源頼朝の勝長寿院供養に供奉したり、文治3年(1187年)8月の鶴岡八幡宮の放生会で射手を務めたりなどしています。

右兵衛尉任官(1190年)

木曾義仲・平家・奥州藤原氏を立て続けに討伐した源頼朝は、朝廷の権威付けを受けるべく、建久元年(1190年)10月3日、上洛するために鎌倉を出発したのですが、三浦義村も父・三浦義澄とともにこれに同行し、このとき三浦義村は父の勲功を譲られるかたちで右兵衛尉に任官しています。

その後、建久10年(1199年)1月13日に源頼朝が亡くなり、その嫡男である源頼家が、同年1月20日に18歳の若さで左中将に任じられ、さらに同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就いたのですが、同年 4月12日に有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。

この13人の合議体のメンバーとしては、三浦家からは、三浦義澄と和田義盛が参加しています。

以上の経緯から見ても、この13人の合議制が始まったころは、まだ三浦義村は三浦家の嫡男という扱いであり、まだまだ歴史の表舞台に登ってきてはいませんでした。

三浦義村が歴史の表舞台に出てくるのは、この後、13人の合議体制が崩壊し、鎌倉幕府内で血で血を洗う権力闘争が始まってからです。

北条時政に従う

梶原景時の変

その後、建久10年(1199年) 1月13日に源頼朝が死去したのですが、若い頃から念仏に傾倒していた結城朝光が同年10月25日に侍所に赴いた際に、源頼朝を偲んで「忠臣、二君に仕えずというが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」と述べました。

これは、源頼朝に寵愛された自分が源頼朝の死に伴って出家しなかったのは悔やまれる、第2代鎌倉殿である源頼家からは源頼朝ほどの寵愛を受けていないので気を付けないといけないなという意味です。

この発言は、源頼朝に寵愛されていたことを偲ぶ結城朝光の単なる回顧に過ぎないのですが、これを聞きつけた梶原景時が、源頼家に対し、結城朝光が源頼家を非難し謀反を企てているに違いないと密告します。

身に覚えのない謀反の疑いをかけられ危機に陥った結城朝光は、自身の対応を三浦義村に相談します。

これに対し、三浦義村は、梶原景時に恨みを抱く和田義盛、安達盛長らに呼びかけ、有力御家人66人が連署した「景時糾弾訴状」を源頼家の側近となっていた大江広元に提出します。

これにより、梶原景時は失脚して鎌倉を追放され、翌年正月に都へ向かう道中で一族もろとも滅ぼされるという結末を迎えます(梶原景時の変)。

娘が北条泰時に嫁ぐ(1202年8月23日)

梶原景時が誅殺された後、鎌倉幕府は北条家方と比企家方とに分かれて鎌倉殿を巻き込んだ政争が繰り広げられることとなるのですが、三浦義村は、建仁2年(1202年)8月23日、娘(後の矢部禅尼)を北条義時の子である北条泰時に嫁がせ、北条家との太いパイプを得ています。

もっとも、三浦義村の娘は、建仁3年に長男・北条時氏(後の六波羅執権探題)を生みますが、その後北条泰時と離婚しています。

畠山重忠の乱

源実朝の結婚相手である坊門信子を迎えるために畠山重忠の息子である畠山重保らが、元久元年(1204年)11月、鎌倉から京へ赴き、そのついでに在京御家人である平賀朝雅(源頼朝の猶子)と酒席を共にしたのですが、その席上で畠山重保と平賀朝雅とが口論となります。

この口論を根に持った平賀朝雅が、義父母である北条時政と牧の方に対して曲解した意見を報告したところ、北条時政と牧の方は畠山重忠と畠山重保に謀反の疑いありとして彼らを処断することに決めます。

このとき、北条時政は、三浦義村に稲毛重成(畠山重忠の従兄)に招かれて鎌倉にいた畠山重保の誅殺を命じ、元久2年(1205年)6月22日早朝、三浦義村は佐久間太郎らを派遣して由比ヶ浜で畠山重保を取り囲んで殺害します。

また、北条時政は、畠山重忠をも誅殺するため畠山重忠を武蔵国から鎌倉への出頭を命じたのですが、途中の二俣川において手勢百数十騎を引き連れて鎌倉に向かう畠山重忠を討ち取ります(二俣川の戦い)。なお、三浦義村は、この戦いにも北条方として参戦しています。

なお、畠山親子を討ち取った後で謀反の企てはでっち上げであったことが判明したため、三浦義村は、翌同年6月23日夕刻、討伐軍にも加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子を首謀者とすることとしてこれを誅殺しています。

北条義時に協力する

牧氏の変(1205年閏7月)

坂東武者の鑑と言われた畠山重忠を無実の罪で誅殺したことにより、鎌倉幕府内で北条時政と牧の方に対する反感が生まれていきます。

そして、この反感は、北条家内における先妻派閥(北条義時・北条政子・北条時房ら)と、後妻派閥(北条時政・牧の方)との対立として顕在化します。

鎌倉幕府内で権力の絶頂を極める北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月、第3代鎌倉殿である源実朝を暗殺して、娘婿である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする動きを見せ始め、対する北条政子・北条義時は、北条時政・牧の方の排除を計画します。

同年閏7月19日、北条時政は、源実朝を暗殺するため、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れたのですが、この動きに危機感を感じた北条政子・北条義時らは、結城朝光、三浦義村、長沼宗政らを北条時政邸に遣わして、北条時政邸にいた源実朝を奪い取り、北条義時邸に迎え入れます(北条時政よりも北条義時を選んでいます。)。

このときの北条義時方の動きに、北条時政に味方していた御家人までも同調したため、北条時政・牧の方による平賀朝雅将軍就任計画は失敗に終わり、鎌倉幕府内で完全に孤立した北条時政と牧の方は、同年閏7月20日に出家し、翌日に鎌倉から追放されて伊豆国北条にて隠居させられました(牧氏の変)。

和田合戦(1213年5月)

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企んだ信濃源氏・泉親衡の謀反が露見し、その首謀者たちが逃亡・捕縛されたのですが(泉親衡の乱)、その首謀者の中に鎌倉幕府の宿老であり三浦一族でもある和田義直(和田義盛の子)、和田義重(和田義盛の子)、甥の和田胤長(和田義盛の甥)が含まれるという一大事件が起こります。

このとき和田義盛は自領である上総国伊北荘にいたのですが、一族からこの乱に加担した者がいると聞きつけて急ぎ鎌倉に出仕し、建暦3年(1213年)3月8日に一族の赦免を嘆願したところ、和田義直(和田義盛の子)と和田義重(和田義盛の子)は放免とされました。

もっとも、和田胤長(和田義盛の甥)は事件の首謀者であるとして許されなかったため、和田義盛は、同年3月9日、再び一族98人を引き連れて御所南庭に列座し、和田胤長の赦免を嘆願しました。

ところが、北条義時は、これに対しても、和田胤長を放免できないと述べ、和田一族の面前で和田胤長を縄で縛りあげた姿を引き立て、預かり人の二階堂行村に下げ渡しました。

和田一族の嘆願を拒絶した北条義時の決断は、一族の長として和田氏を率いる和田義盛や、その郎党たちにとって大きな屈辱を与えます。

その後、和田胤長は、同年3月17日に陸奥国岩瀬郡へ配流処分と決まります。

こうして罪人となった和田胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、同年3月25日、和田義盛が罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるという慣例に基づいて第3代鎌倉殿であった源実朝に払い下げを願い出て許されたため、和田義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置きます。

ところが、同年4月2日、北条義時が、金窪行親・安東忠家に対して、泉親衡の乱平定の論功行賞として旧胤長屋敷を与えると決め、和田義盛の代官であった久野谷彌次郎を屋敷から追い出してしまいます。

重ね重ねの北条義時の挑発に面目をつぶされた和田義盛は、姻戚関係にあった横山党や波多野氏、三浦家の本家筋にあたる三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をしました。

ところが、三浦義村は直前で和田義盛を裏切って北条義時に和田義盛の挙兵を告げて北条義時方として大倉御所北門の護衛に付き(従兄弟の和田義盛よりも北条義時を選んでいます。)、源実朝を擁して多数の御家人を味方に引き入れた北条義時が和田義盛を破り、和田氏は滅亡しています(和田合戦)。

なお、このときの三浦義村の同族かつ友人たる和田義盛に対する裏切り行為は、後に、下総国の御家人であった千葉胤綱から「三浦犬は友を食らふなり」と称されています。

乳母子・公暁を殺害(1219年1月27日)

建保7年(1219年)1月27日、第3代鎌倉殿である源実朝が、甥の公暁(三浦義村の乳母子)に暗殺されるという大事件が起こります。

真実は不明ですが、暗殺者となった公暁が三浦義村の乳母子であり、また三浦義村の子である駒若丸は公暁の門弟であったことなどから、この暗殺劇が源実朝と北条義時を同時に葬ろうとした三浦義村の計画によるものとする説があります(その他、北条義時黒幕説・後鳥羽上皇黒幕説・公暁単独犯説など様々な説があります。)。

いずれにせよ、源実朝を殺害した公暁は、三浦義村に対し、自分が次期鎌倉殿となるのでその準備をして迎えに来るようにとの使者を遣わします。

これに対し、三浦義村は、迎えの使者を出すと嘘をつき、同日、討手を差し向けて鎌倉殿殺害の罪人として公暁を討ち取ってしまいます(乳母子・公暁よりも北条義時を選んでいます。)。

なお、不可解なことに、三浦義村は、この事件の後も鎌倉殿殺害犯の乳母夫として罪を問われることもなく、逆に鎌倉殿殺害犯を討伐した功労者として駿河守に任官しています。

承久の乱(1221年)

承久3年(1221年)5月15日、京で北条義時討伐を掲げて挙兵した後鳥羽上皇は、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の官宣旨をしたためます。また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。

このとき、あわせて、検非違使として京に滞在していた三浦胤義(三浦義村の弟)から、三浦義村宛に反北条義時の決起を促す書状が届きます。

ところが、三浦義村は、弟・三浦胤義からの使者を追い返し、その足で北条義時の下に向かい事の顛末を報告します(後鳥羽上皇や弟・三浦胤義よりも北条義時を選んでいます。)。

その後、鎌倉幕府から後鳥羽上皇方を追討するための軍が編成されると、三浦義村もまた東海道方面軍の総大将の1人として出陣し、東海道を上って入京します(承久の乱)。

その後、同年6月15日、東寺に籠った弟・三浦胤義と相対するも、これを見捨てたため三浦胤義は木嶋坐天照御魂神社(現在の京都市右京区太秦)で自害しています。

北条政子に協力する

貞応3年(1224年)6月13日昼頃、鎌倉幕府2代執権であり、鎌倉幕府の実質的トップであった北条義時が死亡します。なお、北条義時の死については、病死説のほか、暗殺されたとする説もあり(明月記・保暦間記など)、その死因ははっきりとはわかっていません。

この北条義時の死をきっかけとして、その後家である伊賀の方が自分の実子である北条政村を執権、娘婿の一条実雅を鎌倉殿に擁立しようと動き出します(伊賀氏の変)。

当初、北条政村の烏帽子親であった三浦義村は、伊賀氏方に与してこの陰謀に関わっていたのですが、北条政子が単身で三浦義村宅へ赴き、これを問い質したことにより三浦義村は翻意し、北条政子方につきます(烏帽子子の北条政村よりも北条政子を選んでいます。)。

三浦義村が北条政子に味方したことで伊賀氏の政変を未然に防がれ、伊賀の方と伊賀光宗は流罪、一条実雅は京に移して朝廷の裁きに任せ、その他は疑いの有無に関係なく、罪を問わないという形で伊賀氏の変が終わります(吾妻鏡)。

北条家に次ぐ幕府宿老となる

嘉禄元年(1225年)夏、大江広元・北条政子が相次いで死去すると、最古参御家人となった三浦義村がその地位を高めます。

同年12月に執権北条泰時が合議制の政治を行うための評定衆を設置すると、三浦義村もまた宿老としてそのうちの1人に選ばれます。

その後も三浦義時は鎌倉幕府内で重用され、幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では北条家に次ぐ地位となり、嘉禄2年(1226年)の藤原頼経将軍宣下後は、子である三浦泰村と共に近しく仕えました。

また、貞永元年(1232年)に制定された御成敗式目にも「前駿河守平朝臣義村」との署名をしています。

さらに、暦仁元年(1238年)、九条頼経の上洛の際には、随兵36人を引き連れて三浦義村が先陣を務めています。

三浦義村の最期(1239年12月5日)

その後、三浦義村は、延応元年(1239年)12月5日、脳卒中により(吾妻鏡によれると、頓死・大中風)突然死を迎えています。

生年が不明のため正確な享年はわかっていませんが、70歳前後と考えられますので、御家人間の粛清劇を巧みに生き延びての当時としては相当長生きをした大往生でした。

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