【由比ヶ浜の戦い(小坪の戦い)】騙し討ちの形で敗れた畠山重忠の初陣

後に源頼朝の下で有力御家人となった和田義盛と畠山重忠ですが、源頼朝の挙兵当初は、和田義盛が源頼朝方に、畠山重忠が平家方についたため敵対関係となっています。

そればかりか、それぞれが率いる軍が鎌倉の由比ヶ浜で遭遇し、合戦に至っています。

この合戦は、後に由比ヶ浜の戦い(小坪の戦い)と呼ばれる畠山重忠の初陣だったのですが、騙し討ちの形となって畠山重忠が大敗するという結果に終わっています。

本稿では、この由比ヶ浜の戦いについて、その発生に至る経緯から説明したいと思います。

由比ヶ浜の戦いに至る経緯

三浦党が挙兵した源頼朝の下へ向かう

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて打倒平家の兵を挙げ、伊豆目代・山木兼隆の首を挙げます。

もっとも、この時点での源頼朝は寡兵であったため、伊豆1国を軍事的に掌握するにはほど遠く、平家方の反撃は時間の問題でした。

そこで、源頼朝は三浦半島に勢力を持つ三浦党に協力を求め、三浦党は源頼朝の挙兵に呼応します。

そして、三浦党総領であった三浦義明は、同年8月22日、源頼朝に協力するため、三浦義澄・和田義盛らに兵を預けて本拠地である三浦半島を出て西進させ、源頼朝との合流を図らせます。

石橋山の戦い(1180年8月23日)

三浦半島から東に向かった和田義盛らでしたが、折からの大雨で酒匂川が増水し、これに阻まれて三浦軍は、源頼朝が待つ相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に到達できません。

そうこうしているうちに、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎を率いて、北側から源頼朝討伐に向かいます。また、このとき南側から伊東祐親軍も源頼朝討伐に向かったため、挟撃された源頼朝軍が大敗します(石橋山の戦い)。

本拠地に戻る三浦党が畠山重忠と遭遇

酒匂川の東側で水が引くのを待っていた三浦軍は、ここで源頼朝軍が石橋山で敗北したと聞かされたため、やむなく本拠地である三浦半島へと引き返すこととなり、東に向かって戻っていきます。

ところが、撤退中の三浦軍は、治承4年(1180年)8月24日、由比ヶ浜付近で、石橋山の戦いに参加するために遅れて石橋山に向かっていた畠山重忠軍と遭遇します。

和田義盛と畠山重忠との話合い

遭遇当初は、両軍ともに当初はそれぞれが相手が誰かわからなかったのですが、三浦軍の和田義盛が名乗りをあげたためにお互い相手が誰かを知ります。

そして、畠山重忠の母が三浦義明の娘(三浦義澄の姉妹)であるため畠山重忠と三浦義澄が甥と叔父の関係にあたること、また同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多かったことなどから、合戦回避の流れとなり一旦は戦になることなくおさまる気配となります。

由比ヶ浜の戦い(1180年8月24日)

和田義茂の誤解による攻撃

ところが、形だけ小競り合いをして終わらせるはずだった双方の意向をひっくり返す事態が起こります。

このとき、別働隊として鎌倉の北側にある杉本城(椙本)に和田義盛の弟であり17歳の和田義茂(わだよしもち)が入っていたのですが、ここに和田義盛の下人が駆け込んできて、由比ガ浜にて畠山軍と三浦軍とで合戦が始まったと伝え、これを聞いた和田義茂が、兄・和田義盛の援軍に向かうために出撃してしまったのです。

杉本城を出た和田義茂は、杉山城から巡礼古道を通って南下し、そのまま由比ヶ浜に向かいます。

そうしたところ、和田義茂は、和田義時率いる軍と由比ヶ浜一帯に平家の赤旗を翻した敵らしき500騎ほどの軍が退陣しているのを目にします。

これを目にした和田義茂は、兄・和田義盛軍が平家方の大軍に攻撃されていると早合点し、平家軍に向かって僅か8騎で平家方の大軍に向かって突撃していきました。

当然ですが、一応和平がなったとはいえ、突然の攻撃を見て、畠山重忠軍は、和田義茂らを討ち取るための反撃に出ることを決め、畠山重忠方の連太郎(つづきたろう)が進み出て対応に当たります。

和田義盛参戦

他方、小坪坂の西側に布陣していた和田義盛は、名越方面から由比ヶ浜へ駆け下る少数の騎馬武者を見て、それが勘違いをした和田義茂だと気がつきます。

このまま少数で大軍の畠山重忠軍に攻撃を仕掛ければ、和田義茂が討ち死にすることは明らかです。

和田義盛は、和田義茂を助けるため、やむなく和平合意を破って畠山重忠と戦うことを決めます。

三浦義澄からの援軍

また、ちょうどこの頃、鐙摺城に引き上げていた三浦義澄が和田義盛に加勢するために軍勢を由比ヶ浜に送っているところだったのですが、鐙摺城から由比ヶ浜に向かうためには、一度に2~3騎しか通れない狭い小坪坂を通る必要があったため、三浦援軍は、この小坪坂を長く連なった隊列で下ってくる形となったのです。

ところが、この三浦援軍の長く連なる列を見た畠山重忠軍は、三浦援軍が大軍勢である(房総平氏も援軍に参加している)と勘違いをし、一気に士気が下がります。

由比ヶ浜の戦い決着

この状態で、和田義盛らの三浦軍と畠山重忠軍との戦いが始まります。

そして、和田義茂が、畠山重忠方の連太郎を討ち取ったため、三浦軍が一気に勢いづきます。

勢いに押された畠山重忠軍は、50余名が討ち取られる結果となります。

当然ですが、騙し討ちの形となって初陣を汚された畠山重忠は納得がいきません。

そこで、単騎で三浦軍に突撃しようとしたのですが、榛沢成清(はんざわなりきよ)になだめられ、やむなく相模国の本馬宿まで引くことに決め、この戦いは三浦軍の勝利に終わります。

由比ヶ浜の戦いの後

戦いに勝利した三浦軍は、本拠地の衣笠城に赴いて、三浦党の総領である三浦義明に戦勝報告をします。

このとき、和田義茂は、三浦義明から褒美として太刀一振りを与えられたそうです。

他方、怒りの収まらない畠山重忠は、 秩父党の総領である河越重頼に加勢を呼びかけます。

その結果、河越重頼・江戸重長ら数千騎が畠山重忠に協力することとなったため、畠山重忠は、これらの大軍と共に三浦党の本拠地である衣笠城を攻撃することとなるのですが(衣笠城の戦い)、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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