【牧氏の変・牧氏事件】北条時政が失脚し北条義時台頭の契機となった北条氏内紛

牧氏の変(まきしのへん)・牧氏事件(まきしじけん)は、元久2年(1205年)閏7月に起こった、北条氏内の内紛です。

北条時政とその継室である牧の方が、第3代鎌倉殿・源実朝を暗殺して平賀朝雅を第4代鎌倉殿に就任させようと画策し、北条時政の先妻の子である北条義時・北条政子らに阻止された一大事件です。

本稿では、将軍暗殺に失敗した北条時政が失脚し、北条義時が執権となって鎌倉幕府を事実上乗っとるきっかけとなった歴史の転換点でもある牧氏の変について、発生の要因から順に見ていきたいと思います。

牧氏の変に至る経緯

北条時政と牧の方の結婚(1182年ころ)

北条時政は、寿永元年(1182年)ころまでに、後妻として牧の方(駿河国大岡牧の荘官であった牧宗親の娘)を継室として迎えます。なお、愚管抄には「ワカキ妻」と書かれていることから、年齢差があったものと思われます。

その後、2人の間には、文治5年(1189年)の長男・北条政範をはじめとし、少なくとも3人の娘が生まれています。

北条時政の継室である牧の方が子を生むと、娘を平賀朝雅(源頼朝の猶子)に嫁がせるなどして独自の人脈を築いていき、次第に、北条時政・牧の方の派閥と、北条時政の先妻の子である北条政子・北条義時・阿波局・畠山重忠(北条時政の先妻の娘婿)の派閥との関係が悪化していくようになります。

13人の合議制(1199年4月13日)

正治元年(1199年)に源頼朝が死去すると、その嫡男である源頼家が、建久10年(1199年)1月20日、18歳の若さで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、建久10年(1199年) 4月12日、有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。

この13人の合議制は、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムでした。選ばれた13人は、将軍近親者3名、有力御家人5人、高級官僚5人という人選でバランスを取っています。なお、メンバーは初期から源頼朝を支えた忠臣や幕府政治の中心人物達という年配者がほとんどだったのですが、唯一これらの実績のない北条義時が37歳の若さで参加しているのが注目されます。

北条氏による有力御家人排除

鎌倉殿から御家人に権限を委譲させると、今度はその権力を巡って有力御家人間で紛争が起こります。結果としては、北条氏による他の有力御家人の排斥という形で進んでいきます。正治元年(1199年)には梶原景時を(梶原景時の変)、建仁3年(1203年)には比企能員(比企能員の変)を暗殺します。

第2代鎌倉殿・源頼家を廃する(1203年)

北条時政の野心はとどまることを知らず、遂には建仁3年(1203年)、第2代鎌倉殿であった源頼家を廃し、その弟である源実朝を傀儡新将軍として擁立した上で、自らは執権となって権力を集約していきます。

その後、北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆国・修善寺に派遣し、入浴中の源頼家を暗殺させています(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。

北条時政と義時の確執(畠山重忠の乱)

元久元年(1204年)、第3代鎌倉殿となった源実朝の正室が京の公卿である坊門信清の娘(信子)に決まります。そこで、鎌倉から京に向けて、坊門信子を迎えに行く使者が派遣されることとなり、その使者として鎌倉幕府御家人2代目のプリンスたちが選抜され、北条時政と牧の方の子である北条政範、畠山重忠の嫡子・畠山重保などに決まります。

鎌倉から京に赴いた使者たちは、ついでに、源頼朝の養子である平賀朝雅(北条時政と牧の方の間の娘の夫)の邸宅を訪れます。

上洛した鎌倉からの使者をもてなすため、平賀朝雅邸で祝宴が開かれたのですが、その場で平賀朝雅と畠山重保との間で言い争いが起こります。

周囲のとりなしで言い争い自体は収まったのですが、平賀朝雅がこの事実を牧の方に報告をしたことから問題が起こります(また、元久元年/1204年11月5日に北条政範が京で急死したとの報も同時に届けられています。)。

話を聞いた牧の方が激高し、畠山重忠に謀反の疑いがあると北条時政を唆して、その命で北条義時に畠山重忠を攻撃させ、元久2年(1205年)6月22日、畠山家を滅亡させたのです。

北条義時は、他の御家人の信頼が厚い畠山重忠を討つことにためらいがあったのですが(吾妻鏡)、この時点で父・北条時政を制する力はなかったため、やむなく武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼすこととなりました。

もっとも、人望のあった畠山重忠を強攻策をもって殺したことにより、御家人の間に北条時政と牧の方に対する反感が生まれていき、北条時政と北条義時との反目も決定的となります。

牧氏の変

源実朝暗殺計画(1205年閏7月)

鎌足幕府内で権力の絶頂を極める北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月、第3代鎌倉殿である源実朝を暗殺して、娘婿である平賀朝雅(源頼朝の猶子)を新将軍として擁立しようとする動きを見せ始めます。

もっとも、源実朝の母である北条政子にとっては、自分の子の暗殺計画など許せるはずがありません。

そこで、北条政子は、畠山重忠を謀殺により北条時政に疑問をもっていた北条義時を取り込み、北条時政・牧の方の排除を計画します。

源実朝暗殺失敗(1205年閏7月19日)

元久2年(1205年)閏7月19日、北条時政は、源実朝を暗殺するため、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れます。

この動きに危機感を感じた北条政子・北条義時・阿波局らは、結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを北条時政邸に遣わして、北条時政邸にいた源実朝を奪い取り、北条義時邸に迎え入れます。

このときの北条義時方の動きに、北条時政に味方していた御家人までも同調したため、北条時政・牧の方による平賀朝雅将軍就任計画は失敗に終わります。

北条時政失脚(1205年閏7月20日)

鎌倉殿暗殺計画が失敗に終わり、完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月20日に出家し、翌同年閏7月21日、鎌倉から追放されて伊豆国にて隠居させられることになります。

また、北条義時は、元久2年(1205年)8月2日、山内首藤通基(経俊の子)に命じて北条時政のクーデターに加担した平賀朝雅を殺害します。

牧氏の変の後

北条時政・牧の方の最期

隠居した北条時政は、その後復帰することなく、建保3年(1215年)に腫物のため死去します。

他方、牧の方は、北条時政の死後、平賀朝雅の元妻であり公卿の権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛して京で余生を過ごしています。

北条義時の独裁政権樹立

また、北条時政を追放した北条義時は、父に代わって政所別当の地位に就き、北条氏の実権が北条時政から北条義時・北条政子に移り、北条義時は北条氏第2代執権に就任します。

そして、北条義時は、父・北条時政が性急な権力独占をして多くの反発を招いた反省から、柔軟な姿勢を示しながら北条執権体制の障害となる有力御家人の排除を進め、幕府内における地位を確立していきます。

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