北条政範(ほうじょうまさのり)は、鎌倉幕府の初代執権である北条時政の四男として生まれた若き御家人です。
母は、北条時政の継室である牧の方であり、北条政範が生れたときには、既に長兄北条宗時は戦死・次兄北条義時は分家しており、また北条時房は母の身分が低かったため、北条政範は生まれてすぐに北条時政の嫡男として扱われます。
大事に育てられ、どんどん出世もしていき将来を嘱望された北条政範でしたが、上洛中にわずか16歳の若さでこの世を去っています。
北条政範の死後、北条家は2つに割れて北条時政と北条義時が争い、北条義時が台頭していくことになりますので、北条政範が長生きをしていればこの歴史が代わっていたかもしれません。
本稿では、北条家を継ぐはずであった北条政範の生涯について、簡単に解説したいと思います。
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北条政範の出自
出生(1189年)
北条政範は、文治5年(1189年)、桓武平氏高望流の平直方の子孫と称する伊豆国田方郡北条を拠点とする在地豪族であり、鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の嫡男として生まれます。
母親は、北条時政の継室であった牧の方です。
北条時政の嫡男となる
北条時政には、北条政範の上に、北条宗時(長男)、北条義時(次男)、北条時房(三男)という3人の男子がいたのですが、北条政範が生まれる以前に北条宗時は石橋山の戦いで戦死、北条義時は江間家に養子に出て分家となっていたため、北条政範が生まれるまでは北条時房が嫡男として扱われていたと考えられます。
もっとも、北条時政の継室となっていた牧の方が北条政範を生んだため、北条時房は廃嫡され、北条政範が北条時政の嫡男として扱われることとなったものと考えられます。
成長する北条政範
北条時政の嫡男となった北条政範は、鎌倉幕府内で政治力を高める北条氏の恩恵を受け、元服後に若くして左馬権助(朝廷の馬を管理する「左馬」寮の員数外である「権」の副官である「助」)の官職と、従五位下の官位を得ます。
なお、「遠江」守である北条時政の息子が「左馬権助」となったことから、北条政範は、遠江左馬権助と称されていました。
北条政範の最期
上洛(1204年10月)
第3代鎌倉殿となった源実朝の正室として京の公卿である坊門信清の娘(坊門信子?・後の西八条禅尼)を迎えることに決まります。
このとき、礼を尽くすため鎌倉から京に坊門信子を迎えに行くこととなったのですが、見栄えを良くするため、その使者として鎌倉幕府の有力御家人の若き子弟達が抜擢されます。
このとき、北条家からは北条政範が選ばれ、結城朝光・千葉秀常・畠山重保・和田朝盛・土肥惟平・筑後知尚らと共に合計15人で、元久元年(1204年)10月14日、上洛の途につきます。
ところが、北条政範は、この上洛の道中で体調を崩します。
北条政範急死(1204年11月5日)
元久元年(1204年)11月3日、坊門信子を迎える使者達が京に到着したのですが、この時点で北条政範の体調は悪化の一途を辿っていました。
そして、北条政範は、元久元年(1204年)11月5日 、到着したばかりの京の地で急死してしまいます。享年16歳でした。
北条政範の亡骸は、京の東山に葬られたとされており(吾妻鏡)、その場所は、建仁2年(1202年)に源頼家によって創建された建仁寺か、当時の京の最大の葬送地であった鳥辺野であった可能性が高いと考えられますが、正確な墓所は不明です。
その後
北条政範急死の報は、元久元年(1204年)11月13日、鎌倉にいる北条時政と牧の方の下に届けられました。
なお、北条政範急死の報は、京での平賀朝雅と畠山重保の騒動の報告と共に届けられたため、自身が生んだ唯一の男子の死を聞いて混乱した牧の方の指示により畠山重忠の乱、牧氏の変へと繋がり、北条時政・牧の方の失脚の端緒となっています。