【結城朝光(小山朝光)】梶原景時の変の契機となった源頼朝寵愛御家人

結城朝光(ゆうきともみつ)は、源頼朝が平家打倒の挙兵をした際に母が源頼朝の乳母であったという縁から父と共に挙兵に参加し、そのときに源頼朝を烏帽子親として一字を貰って元服した御家人です。

その後、源頼朝の寝所祗候衆の1人に選ばれたり、三男ながら分家して下総国結城郡の地頭職に任命されて結城家を興こしたりするなど、源頼朝の余りの寵愛を受けたことから、源頼朝の落胤説まである人物です。

弓の達人でもあり和歌にも造詣が深いなど文武両道の人物であったにもかかわらず、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったことから鎌倉幕府内での粛清劇にさらされることなく北条家から厚遇され、穏やかにその生涯を終えています。

結城朝光の出自

結城朝光出生(1168年)

結城朝光は、仁安3年(1168年)、下野国小山荘を本拠としていた在地豪族の藤原北家秀郷流小山家当主・小山政光の三男として生まれます。

幼名は万丸、通称は七郎といいました。

母は、八田宗綱の娘であり、源頼朝の乳母を務めた寒河尼(八田知家の姉妹)です。

なお、小山家に生まれた結城朝光は、当初は小山姓を名乗っていたはずなのですが、後に下総国結城郡を与えられて結城家の祖となって結城朝光と名乗りますので、混乱を避けるために本稿では結城朝光の表記で統一します。

元服(1180年10月2日)

結城朝光が世に出てくるのは、以仁王の令旨を掲げて平家打倒の挙兵をした源頼朝が、石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れ、そこで千葉常胤上総広常らを傘下に加えて相模国・鎌倉に向かって進んで来たところからです。

房総平氏を取り込みながら大軍勢となった源頼朝軍は、治承4年(1180年)10月2日、武蔵国に入ったのですが、このときに下野国から小山政光が、長男・小山朝政、次男・小山宗政、元服前の三男・万丸(後の結城朝光)を引き連れて参陣し、寒河尼の引き合わせにより源頼朝の下に下ります。

結城朝光は、このとき13歳だったのですが、その場で源頼朝を烏帽子親として元服して源頼朝から朝の字をもらい「小山宗朝」と名乗り(前記のとおり本稿では、以降は結城朝光の名で統一します。)、ここからその活躍が始まります。

寝所祗候衆に選任(1181年4月)

その後、鎌倉に入った源頼朝は、軍を西に進め、治承4年(1180年)10月20日、富士川の戦いで平家軍に勝利し、その勢いのまま撤退する平家軍を追撃して京に雪崩れ込もうと考えたのですが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄などの東国武士団がこれに反対して東国を固めるよう主張したため、いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝はこれら東国武士の意志に逆らうことができず鎌倉に戻るという選択をします。

力のなさを痛感した源頼朝は、鎌倉にて政治力を行使して自らの力を高めることに尽力するとともに、扱いにくい第一世代の御家人の力を削ぎ、自らの意向を通しやすい第二世代の御家人の育成を図ります。

そこで、源頼朝は、治承5年(1181年)4月7日、若い御家人の中から武芸に優れかつ心を許せる者を選定して自らの寝所警固をさせることとして次世代を担わせることを内外に知らしめ、鎌倉幕府有力御家人について第一世代から第二世代への権限委譲を予告します。

このときに次世代のホープとして選ばれた者は寝所祗候衆と呼ばれた11人であり、結城朝光もこのうちの1人に選ばれます(吾妻鏡・養和元年4月7日条)。

源頼朝の下での活躍

野木宮合戦(1183年2月23日)

寿永2年(1183年)2月20日、木曾義仲の叔父である志田義広(源為義の三男)が、鹿島社所領の押領行為を源頼朝に諫められたことに反発し、源頼朝討伐を掲げて下野国の足利俊綱・忠綱父子らと共に2万人の兵を集めて挙兵し、常陸国から下野国へ進軍するという事件が起こります。

源頼朝は、志田義広軍の侵攻に対し、鶴岡八幡宮で戦勝祈願を行ったのですが、このとき御剣役を務めていた結城朝光が、志田義広が敗北するという「神託」を告げたことから結城朝光を重用するようになります(そのため、以降、源頼朝の戦勝祈願の際には結城朝光が御剣役を務めることが多くなり、吾妻鏡によるとその回数は御家人最多の10回となっています。)。

そして、源頼朝は、下野国の有力豪族であった小山朝政(結城朝光の長兄)に偽って志田義広に同調する姿勢を見せて下野国野木宮(現栃木県野木町)に志田義広を招き入れさせ、その後、同年2月23日、油断して同所を訪れた志田義広を小山朝政・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱・源範頼らで撃退しています(野木宮合戦)。

この戦いに敗れた志田義広は本拠地を失い、源頼朝がこれを獲得します。

下総国結城郡の地頭職に任命される

志田義広の所領を獲得した源頼朝は、野木宮合戦にて武功を挙げた者にその所領を「新恩」として分配することとし、このとき結城朝光に対しては、下総国結城郡の地頭職に任命し、小山家から分家させて新家を興させるという破格の待遇をしています(この結城朝光の地頭職就任が下総結城家の始まりです。)。

なお、このときの新恩給与については、下総国結城郡が結城朝光の実家である小山氏の本拠である下野国小山に隣接していることから、結城郡も元々小山氏の所領でありこれを分割されたに過ぎないという説もあるのですが、後に結城朝光が自分は父の遺領を伝領せず源頼朝の配下となって初めて所領を得たと語っていることなどから、結城郡は結城朝光が源頼朝から新恩として与えられたと考えられたと考えるのが一般的です。

鎌倉幕府内での活躍

その後、結城朝光は、平家討伐軍に従軍し、元暦2年(1185年)3月の平家滅亡の後は鎌倉に戻って政治の分野でも活躍します。

同年5月7日、源義経が、源頼朝の東国への帰還禁止命令を無視して壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛・清宗父子を連行して凱旋帰国するため鎌倉に向かって東下してきたのですが、結城朝光が酒匂宿で源義経と面談して源頼朝の使者として鎌倉入り不可の口上を伝えています。

また、文治3年(1187年)、伊勢国沼田御厨の代官狼藉事件で譴責された畠山重忠について、源頼朝に意見具申してその危急を助けています。

その後、文治5年(1189年)の奥州合戦では、阿津賀志山の戦いにおいて敵将・金剛別当秀綱を討ち取る武功を挙げ奥州白河三郡を与えられ、翌建久元年(1190年)には奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加しています。

さらに、源頼朝が、謀反の疑いありとして源範頼を伊豆国・修善寺に流して幽閉した際には、結城朝光は、建久4年(1193年)8月18日、館に籠もって不審な動きを見せたとして梶原景時父子、仁田忠常らと協力して源範頼の家人らを討伐する汚れ仕事もこなしています。

さらに、建久6年(1195年)、源頼朝が2度目の上洛をして東大寺再建の供養に参列した際には、衆徒の間で起こった乱闘を見事な調停で鎮め、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛されています。

源頼朝死後の活躍

梶原景時弾劾事件(1199年10月)

その後、建久10年(1199年) 1月13日に源頼朝が死去したのですが、若い時から念仏に傾倒していた結城朝光は、その9ヶ月後の同年10月25日に侍所に赴いて、昨日夢で源頼朝のために阿弥陀仏の名号を1万回唱えるべきとのお告げを聞いたので皆でこれを唱えようと侍所に出仕していた御家人達に言い出しました。

そこで、このとき侍所に詰めていた御家人たちも在りし日の源頼朝の思い出を偲んで南無阿弥陀仏を唱え始めたのですが、1万回唱える間の休憩時間に、結城朝光が源頼朝を偲んで「忠臣、二君に仕えずというが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」と述べました。

これは、源頼朝に寵愛された自分が源頼朝の死に伴って出家しなかったのは悔やまれる、第2代鎌倉殿である源頼家からは源頼朝ほどの寵愛を受けていないので気を付けないといけないなという意味です。

この発言は、源頼朝に寵愛された結城朝光の単なる回顧に過ぎないのですが、これを聞きつけた梶原景時が、源頼家に対し、結城朝光が源頼家を非難している、おそらく謀反を企てているに違いないと密告します。

この梶原景時の密告を聞きつけた阿波局は、当の結城朝光に対し、梶原景時が源頼家に結城朝光が謀反を計画していると讒言したことから誅殺される危険があると伝えました。

身に覚えのない謀反の疑いをかけられ危機に陥ったと知った結城朝光は驚愕します。

焦った結城朝光は、自身の対応を三浦義村に相談し、三浦義村が和田義盛ら梶原景時に恨みを抱く御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まり、梶原景時糾弾のための話し合いを行います。

そして、同年10月28日、主要御家人66名によって梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、大江広元を通じて源頼家に提出されたことから結城朝光は難を逃れたのですが、密告をした梶原景時は鎌倉を追放され、翌年正月に都へ向かう道中で一族もろとも滅ぼされるという結末を迎えます(梶原景時の変)。

源実朝救出(1205年閏7月19日)

元久2年(1205年)閏7月19日、牧の方と謀った北条時政が、第3代源実朝を暗殺して平賀朝雅を擁立して鎌倉幕府を乗っ取ろうとして、北条政子の邸から北条時政邸に源実朝を招き入れるという事件を起こします(牧氏の変)。

このとき、結城朝光は、北条時政の動きに危機感を感じた北条政子・北条義時・阿波局らの指示により、三浦義村、長沼宗政らと共に北条時政邸に赴き、北条時政邸から源実朝を奪還すしています。

承久の乱(1221年)

承久3年(1221年)に勃発した承久の乱の際には、結城朝光は、甥の小山朝長と共に東山道軍の将の一人として参戦しています。

結城称名寺建立(1225年)

若き日から念仏に傾倒していた結城朝光は、法然や常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依しており、嘉禄元年(1225年)には、親鸞聖人の高弟であった真仏を招き、これを開基とする結城称名寺を建立します。

その後、寛喜元年(1229年)に上野介に叙任され、嘉禎元年(1235年)には幕府の評定衆の一員となります。

結城朝光の最期

出家して結城称名寺殿日阿と号す

結城朝光は、晩年に出家をして「結城称名寺殿日阿」と号し、その後は、信仰に生きる日々を送り、幕政に関与することはなくなります。

もっとも、宝治元年(1247年)の宝治合戦で知己の仲であった三浦義村の子である三浦泰村一族が滅亡した際には、老齢の身を押して下総国結城郡から鎌倉に上り、執権・北条時頼に面会して自分がいれば三浦泰村を誅罰の恥に会わせなかったと涙して懺悔し、北条時頼は古老の涙を愛しんだと言われています。

結城朝光の誇りを示すエピソード

宝治2年(1248年)、足利義氏から結城朝光を格下とする様式での文書が届き、これに結城朝光が激怒する事件が起こります。

これは、足利義氏からの手紙について、足利義氏と結城朝光が同格であれば「結城政所殿 足利左馬頭入道」とされるべき表記が、格下扱いである「結城上野入道殿 足利政所」とされていたことに端を発したものでした。

足利家は御家人門葉(源氏一門衆)であったことから、当然とも思える書式なのですが、結城朝光は自らを足利義氏より格下とされたことに激怒し、逆に足利義氏を格下と扱う「結城政所 足利左馬頭入道殿」と表記して返書しました。

さすがに足利義氏が結城朝光よりも格下となることはあり得ないため、足利義氏が鎌倉幕府に対し、このような書式は源氏の門葉たる足利家に許されたものであり一般御家人に過ぎない結城家は遠慮すべきである旨との訴えがあり問題となったのです。

この訴えに対し、結城朝光は、源頼朝より生前に、結城朝光は足利家と同等たるべしとの許しを得ていたと主張します。

事実関係は必ずしも明らかではないものの、結局、この騒動は、ときの執権・北条時頼の裁定により結城朝光の勝訴となり決着したのですが、結城朝光の源頼朝からの寵愛と鎌倉幕府内での信頼度の高さが垣間見られるエピソードです。

死去(1254年2月24日)

そして、結城朝光は、建長6年(1254年)2月24日、死去します。当時としては大往生の享年87歳でした。

死後、結城朝光の亡骸は、自らが建立した結城称名寺に葬られています。

結城朝光以降の結城家の繁栄

結城朝光により始まった結城家は、永享12年(1440年)に勃発した結城合戦によって一度滅亡したものの、再興されることにより江戸時代に亘るまで下総国で栄えます。

その後、第18代当主として貰い受けた徳川家康の次男である結城秀康が下総結城10万1000石から越前北庄68万石に加増移封された際に結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否する者を払拭し、その後、結城秀康が松平姓に復することによって滅亡するまで400年以上の長期に亘って続きました。

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