【大江広元】貴族で文官という異質な鎌倉幕府初代政所別当

大江広元(おおえのひろもと)は、下級貴族でありながら鎌倉幕府政治に参画し、源頼朝の側近となって鎌倉幕府の創設に貢献した人物です。

無骨な東国武士とは異なり貴族文化に精通したため代わりがおらず、また終始北条氏に協力したために北条氏に粛清されることなく天寿を全うした人物でもあります。

本稿では、文官でありながら鎌倉幕府の幹部として活躍した大江広元の人生について見て行きたいと思います。

大江広元の出自

出生(1148年)

大江広元は、久安4年(1148年)または康治2年(1143年)に、藤原光能・大江維光・中原広季のいずれかを父として生まれたとされています(大江維光が実父・中原広季が養父であると考えるのが一般的です。)。

中原広季のもとで養育されたため、当初は中原姓を称し中原広元(なかはらのひろもと)といいました。なお、大江姓に改めたのは亡くなる10年前の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のことであるため、生涯のほとんどを中原姓名乗っていたのですが、本稿ではよく知られている名である「大江」広元で統一します。

京を離れて源頼朝に従う

大江広元は、朝廷に仕える下級貴族(官人)として活動していました。

そんな中、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した後、富士川の戦いで平氏を追い払った源頼朝は、一旦鎌倉を本拠地として定め、源頼朝による東国支配を磐石なものとしてから平氏打倒を目指すこととしました。

このとき、新たな政治システム確立を目指した源頼朝は、鎌倉の大倉御所内に、統治のための機関を順次設置していきます。

もっとも、東国武士団は、梶原景時らの一部風流人を除き、無骨な武人の集団(悪く言えば、ゴロツキの集まり)ですので、源頼朝の下には大規模な政治経験もなく、また朝廷等のパイプなどもありません。

それどころか、源頼朝に下った東国武士団のほとんどは、文字すらまともに読めないレベルであったと考えられています。

困った源頼朝は、文化的素養のある人物の登用を急ぎ、親しくしていた中原親能(大江広元の兄)から、下級役人として働いていた優秀な弟である大江広元を紹介されます。

能力を高く評価されて源頼朝から請われた結果、大江広元は、元暦元年(1184年)、鎌倉幕府内での行政官として働くために相模国・鎌倉に下向します。

宮中の役人であった大江広元にとって、武士という野蛮人が支配する関東に下向するなど一大決心だったに違いありません。

鎌倉幕府の高級官僚となる

初代公文所別当就任(1184年)

鎌倉に本拠を置き味方となる御家人を集めていた源頼朝ですが、その勢力が拡大するに伴って従える御家人が増えていったため、物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなります。

そこで、源頼朝は、この一気に増えた御家人達を管理するため、御家人管理のために新しい機関として侍所を設置します。今でいう、人事部ですね。

侍所の設置により、それまで源頼朝と行っていた御家人に関する手続きが、侍所を通じて行われるようになり、その管理が一気に合理化されます。

また、源頼朝の東国統治が進んだことにより家人が増え、鎌倉幕府の土地・御家人の管理の量が増えてくると、そこの管理・徴税に加え、その調整や統合した鎌倉幕府自体の政務をする必要が出てきます。今風にわかりやすく言えば、個人事業主が法人成りするようなイメージでしょうか。

このように、鎌倉幕府の規模が急速に拡大したため、行政の全てを一括管理する機関が必要となってきます。

そこで、幕府行政を一手に引き受ける機関として新たに公文所が設置されます。今でいう総務部です。

そして、大江広元は、その行政能力の高さを買われて、初代別当(総務部長)に任命されます。なお、公文所は1191年に政所(まんどころ)に改称され、幕府財政の管理や朝廷との交渉も任されるようになります。

また、大江広元は、このような高い行政能力を発揮するだけでなく、貴族としての家柄・人脈等を駆使し、後白河法皇側の情報収集・分析をして鎌倉幕府の地位向上に尽力します。

守護・地頭設置の献策(1185年)

後白河法皇が、源義経に対して源頼朝討伐の院宣を下したことを聞いた源頼朝は激怒し、すぐに北条時政に命じて兵を連れて京に向かわせ、後白河法皇に対して圧力をかけます。この圧力に屈した後白河法皇は、今度は逆に源義経追討の院宣を源頼朝に与えます。

このとき、大江広元は、源頼朝に対し、とんでもない一手を献策します。

具体的には、後白河上皇に圧力をかけ、文治元年(1185年)11月、源頼朝は、源義経・源行家を追討するという名目の下(どこに逃げたかわからない源義経と源行家を探すという名目)で、後白河法皇から源頼朝に対して、追討の院宣に加え、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許を受けさせたのです(文治の勅許)。

この文治の勅許の効果は絶大であり、名目上は、源義経と源行家を探すために、全国に御家人を展開させるためだったのですが、実質は地頭として任命した御家人を通じて源頼朝の支配が西国にも及ぶこととなりました。

なぜなら、地頭の職務内容は、土地管理と税徴収であり、その任命権を源頼朝が得るということは、全国の土地管理し徴税を担当する者を源頼朝に味方をする御家人がこれを独占することを意味し、御家人による地頭の配置により、源頼朝の支配力が、それまでの東国のみから、西国にも及んでいくこととなったためです。

この文治の勅許による守護・地頭任命権の獲得をもって、鎌倉幕府が成立したと言われています。

大江広元の守護・地頭設置権を使った支配拡大という権謀術数ぶりが際立ちます。

13人の合議制に参加

大江広元は、絶対的カリスマである源頼朝死亡後も鎌倉幕府の政治の中心にあり続けます。

源頼朝の死により、建久10年(1199年)1月26日、その嫡男である源頼家が第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就いたため、源頼家が、大江広元らの補佐を受けて政務を始めます。

もっとも、辛酸を舐め続けた源頼朝とは異なり、苦労を知らない生粋のお坊ちゃんである源頼家は、海千山千の御家人たちの信頼を得ることができません。

そして、源頼家は、将軍就任後僅か3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制により行われることとなります。

この13人の合議制は、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムです。

大江広元も、有力御家人の1人としてその一翼を担います。

北条氏の御家人排斥に協力

北条氏の他氏排斥運動から外れる

また、大江広元は、源頼朝の死後は、北条氏(とくに北条義時・北条政子)に協力します。

実際、大江広元自らが、「成人してから後、涙を流したことがない」と、後年述懐する程の冷静で(冷酷な)対応をしています。

例えば、梶原景時の変では御家人66人により作成された梶原景時を弾劾する連判状をしばらく将軍・源頼家に見せずに留めていたり、1213年に起こった和田合戦では北条義時側について和田一族を滅亡させるのに一役買っています。

こうして、鎌倉幕府内で高い地位を持つ大江広元でしたが、文官であったために対抗される可能性が低いと考えられたこと、鎌倉における京吏の筆頭であり代わりがいなかったこと、北条氏に協力的であったことなどから北条氏による排斥運動の対象とはならず、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位にあり続けます。

御家人の中で将軍に次ぐ官位

鎌倉幕府では、源頼朝が最高正二位という高い官位を得ていたのですが、その一門は実弟の源範頼、舅の北条時政であっても最高でも従五位止まりという官位にとどまっていました。

ところが、鎌倉幕府参画以前から従五位下の官位を有していた大江広元は、早々に正五位を許されるなど、鎌倉幕府開幕当初から抜きん出た地位を与えられていました。

また、源頼朝死後も、大江広元には正四位を与えられており、実質上の最高実権者である正四位下陸奥守の北条義時を上回る名目上将軍に次ぐ存在として遇されています。なお、極官は、建保4年(1216年)1月27日に任命された陸奥守です。

大江広元の最後

大江広元に改名(1216年6月)

建保4年(1216年)閏6月1日、大江広元は、朝廷の許可を得て、それまで名乗っていた「中原」広元から、「大江」広元に改名します。

そして、建保5年(1217年)11月10日、陸奥守を辞して出家し、覚阿と号します。

承久の乱(1221年6月)

その後、北条義時と後鳥羽上皇とが争うこととなった承久の乱の際には、嫡男・大江親広が後鳥羽上皇方についたのですが、大江広元は一貫して北条義時(鎌倉幕府)方につく態度を変えませんでした。

また、承久の乱の直前には、大江広元は、北条時房・三浦義村・足利義氏ら多くの御家人が足柄・箱根の関所を固めて上皇軍を待ち受けるとの策を取ろうとしたのに対し、速やかに兵を京に進めるべきとの強硬策を主張し、朝廷との一戦に慎重な御家人たちを鼓舞して迷いを払って進軍させて幕府軍の勝利に貢献しています。

大江広元死去(1225年6月10日)

そして、大江広元は、嘉禄元年(1225年)6月10日に死去します。死因は不明で、享年は78歳でした。

大江広元の墓所

墓所は、地元の言い伝えによると鎌倉市十二所の山中にある五輪塔であると地元では伝えられ、また、神奈川県鎌倉市西御門の白旗神社隣にも大江広元の墓と伝えられるものがあるのですが(上の写真)、これは江戸時代に長州藩によって作られたものであるため、いずれも真偽は不明です。

また、承久の乱で後鳥羽上皇側に付いた嫡男・大江親広が、乱の終結後出羽国寒河江荘に潜居した後、父・大江広元の訃報に接し息子大江佐房に命じて阿弥陀如来を作らせ遺骨を納入して寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したとも言われています。

余談(戦国大名・毛利家の祖となる)

鎌倉幕府創設に多大な寄与をしたとのことで、大江広元には、いくつかの所領を与えられていたのですが、その中に、相模国・毛利荘(元々は森荘【もりのしょう】と呼ばれ、現在の神奈川県厚木市北部から愛甲郡愛川町南西部にかけてが荘域であったようです。)がありました。

大江広元は、六人の男子を儲けていたのですが、その四男・大江季光が、このうち相模国毛利荘を相続し毛利季光と名乗るようになります。

毛利季光は、天福元年(1233年)から鎌倉幕府の関東評定衆として幕政を支えていったのですが、宝治元年(1247年)の宝治合戦(北条時頼と三浦泰村との戦い)の際に、妻が三浦泰村の妹であったとの関係から三浦泰村方について敗れ自刃します。

このとき、毛利季光の四男・毛利経光が、宝治合戦に参加していなかったとして毛利家の家名存続と、安芸国高田郡吉田荘(承久の乱の恩賞として与えられた荘園)と越前国刈羽郡佐橋荘の地頭職の安堵が許されます。

その後、毛利経光の四男・毛利時親が、毛利家の家督を継いで安芸国高田郡吉田荘に下向し、その曾孫である毛利元春が吉田荘の支配にあたり、戦国時代の毛利元就まで続いていったそうです。

このように、毛利家では、その祖を大江広元であると考えているため、毛利家の歴代当主には大江広元にちなんだ「元」の名がつけられることが多いそうです。

また、毛利輝元の代に本拠地を吉田郡山城から広島城に移していますが、その際に付けられた広島の地名は大江広元からの「広」の字をとって名付けられたという説まであるそうです。

真偽は知りませんが。

なお、冒頭の大庭学僊筆『大江広元像』も毛利博物館所蔵です。

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