【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。

鎌倉幕府による守護・地頭設置に至る経緯

源頼朝(鎌倉幕府)による守護・地頭設置権獲得の経緯については、平氏滅亡後の源頼朝と源義経の確執から始まりますので、まずはこの点から説明します。

源義経の鎌倉入りが許されない

元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いに勝利して平氏を滅ぼした源義経は、捕縛した平宗盛親子を連行して鎌倉に向かい、平宗盛親子を連れて鎌倉に入ることを希望します。

もっとも、源頼朝は、源義経に対し、武士政権樹立を朝廷に認めさせるために、安徳天皇と天叢雲剣の確保が必須であると厳命していたにも関わらず、源義経がこれを取り戻せなかったために源義経に憤りを覚えていました。

また、これ以前に後白河法皇から勝手に検非違使という官位を得たり、また腹心である梶原景時からの讒言もあったため、源頼朝は不信感を強めており、源義経が鎌倉へ入ることを許しませんでした。

源頼朝は、腰越宿に留まる源義経に対して、鎌倉へ入ることを禁じるとの使者を派遣し、源義経に対し、平宗盛親子は捕虜として預かりますが、源義経は鎌倉へ入ることは許さないと告げます。

腰越宿に取り残された源義経は、源頼朝に対して、許しを求める書状をしたためます。これが有名な腰越状です。

もっとも、源頼朝は、この源義経の嘆願を認めず、1ヶ月待たせた挙句、源義経に京に戻るよう命じます。

結果、源義経は、平氏滅亡の大功を挙げたにもかかわらず、報いられることもなく追い返されてしまいます。

義経暗殺未遂事件(堀川夜討・1185年10月17日)

京に戻った源義経は、自身の屋敷で悲嘆にくれるのですが、そんな源義経に事件が起こります。

源義経に対して、鎌倉から刺客が送られてきたのです。

刺客は土佐坊昌俊といい、83騎の軍勢を引き連れて文治元年(1185年)10月9日に鎌倉を出発し、同年10月17日に京の源義経の館であった六条室町邸を襲撃しました(堀川夜討)。

源義経の家人達は出払っていて手薄であったが、源義経自身が佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦していたところ、源行家の援軍が到着したことから土佐坊昌俊らを撃退しました。なお土佐坊昌俊は鞍馬山に逃げ込んだ後捕らえられて殺され、同年10月26日、六条河原に晒されています。

源義経は、源頼朝が自らの暗殺を試みたことに激怒し、自ら兵を挙げて源頼朝を追討することを決意します。

源頼朝追討の院宣

源義経は、後白河法皇の下に行き、源頼朝追討の院宣を求めます。

源頼朝と源義経とが争って源氏勢力が減退していくことを期待した後白河法皇は、直ちに、源義経に対して、源頼朝追討の院宣を与えます。

源義経西国へ向かうも失敗

このとき、源義経は、源行家と行動を共にしており、源義経が九州に、源行家が四国にそれぞれ基盤を持っていたため、西国を拠点として、鎌倉の源頼朝に対向しようと考えました。そこで、源義経は、軍勢を整えるために九州へ向かいます。また、源行家も、源頼朝追討に協力すべく四国に向かいます。

源義経と源行家は、大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から、船に乗って西へ向かったのですが、暴風雨に見舞われて乗っていた船が難破し、供をしていた仲間ともちりじりになってしまいます。

後白河法皇に対する圧力

他方、後白河法皇が自分に対する討伐院宣を下したことを聞いた源頼朝は激怒し、すぐに北条時政に命じて兵を連れて京に向かわせ、後白河法皇に対して圧力をかけます。この圧力に屈した後白河法皇は、今度は逆に源義経追討の院宣を源頼朝に与えます。

このときに、源頼朝がさらなる条件として提示し、認めさせたのが守護・地頭の設置です。

守護・地頭の設置

守護地頭設置前の鎌倉幕府の支配領域:東国のみ

源頼朝は、鎌倉にて、1180年に侍所を置いて御家人統括と軍事全般を、元暦元年(1184年)に公文所を置いて政務全般を、問注所を置いて裁判全般を統括し、「東国における」源氏の棟梁として確固たる地位を築いていました。

もっとも、源頼朝の支配が及ぶのは、あくまでも東国限定の話でした。西国は元々は平氏の支配下にあったため源頼朝の勢力は及んでいませんでした。

また、全国の土地支配は、朝廷が派遣する国司が担当していました。

そこで、この状況を覆して一気に日本全国を支配するため、源頼朝は、大江広元の献策を採用し、状況を利用して後白河上皇に圧力をかける際にとんでもない一手を打ちます。

具体的には、文治元年(1185年)11月、源頼朝は、自分に弓を引く源義経・源行家を追討するという名目の下(どこに逃げたかわからない源義経と源行家を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許を受けます(文治の勅許)。

守護地頭設置後の鎌倉幕府の支配領域:西国へ

名目上は、源義経と源行家を探すために、全国に御家人を展開させるためだったのですが、実質は地頭として任命した御家人を通じて源頼朝の支配が西国にも及ぶこととなります。

なぜなら、地頭の職務内容は、土地管理と税徴収であり、その任命権を源頼朝が得るということは、全国の土地管理し徴税を担当する者を源頼朝に味方をする御家人がこれを独占することを意味し、御家人による地頭の配置により、源頼朝の支配力が、それまでの東国のみから、西国にも及んでいくこととなったためです。

さらに、この地頭の中からその国の守護を兼任させ、大犯三カ条(大番催促、謀反人逮捕、殺害人逮捕)を担当させます。

この鎌倉幕府の有力御家人により選任された守護が、朝廷が選任した国司を駆逐していき、鎌倉幕府による全国支配が広がっていきます。

これが、鎌倉幕府の成立時期が、かつて言われていた源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年から、守護地頭設置が許された1185年へと評価替えされた理由でもあります。

守護・地頭を利用した支配力強化

文治2年(1186年)、源行家を討ち取り、また九州行きに失敗し、僅かな手勢と共に奥州・平泉に落ちのびた源義経が、文治5年(1189年)閏4月30日、衣川の合戦に敗れて自害したため、名目上は、源頼朝による守護地頭設置権の根拠が失われます。

もっとも、源頼朝は、建久2年(1191年)3月22日、建久新制により、諸国守護権を公式に認めさせて恒久的な制度とし、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなりした。

全国的な地頭の任命権を正式なものとし、また建久3年(1192年)に征夷大将軍に任命された源頼朝は、これを統治に積極的に利用します。

具体的には、鎌倉幕府が、新たな土地給付(新たな地頭任命、新恩給与)とそれまでの所領支配の保証(地頭継続、本領安堵)をもって、御家人に御恩を施します。

そして、これに対して、御家人が、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警固番役や長門警固番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たすことで奉公するという、絶対的な主従関係を成立させます。

御恩と奉公に基づく主従関係は、次第に絶対的・唯一的・永続的なものとなっていきます。

この御恩と奉公の考えは、明治維新まで続く武家社会の基本的な成立要素として機能することとなります。

なお、鎌倉期以降、守護・地頭が幕府の統制から外れて、守護は守護大名に、地頭は国人(国衆)へと独自の成長をしていくのですが、長くなりますので本稿での紹介は割愛します。

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